No.2253 幸福・ハートフル 『コンパッション』 トゥプテン・ジンパ博士著、東川恭子訳(めるくまーる)

2023.07.14

『コンパッション』トゥプテン・ジンパ博士著、東川恭子訳(めるくまーる)を読みました。「慈悲心を持つ勇気が人生を変える」というサブタイトルがついています。版元は精神世界関連書を多く刊行している出版社で、わたしも若い頃に同社の本をかなり読みました。

本書の帯

カバー表紙には「スタンフォード大学の利他主義研究から生まれた、8週間のメンタルプログラムがついに本になった!」と書かれ、帯には「本書はコンパッションのパワーを証明しただけではなく、誰でも簡単に他者と自分自身にやさしくなれることを明らかにした」というケリー・マクゴニガル博士(60万部のベストセラー『スタンフォードの自分を変える教室』の著者)の言葉が紹介されます。

本書の帯の裏

帯の裏には「画期的なコンパッション育成トレーニング」として、「『コンパッション』(原題:「恐れなき心」)は瞑想がもたらす”洞察と実践、そして現代科学の融合が、精神の根底からの変容を求めるすべての人々への恩寵となることを示した稀有な作品だ。本書はその実践が日常にどんなポジティブな影響を起こせるかを解説している。長年にわたり私の通訳をしてくれているトゥプテン・ジンパが、今という時代に求められる慈悲の精神とその育成についての本を書いたことを称賛したい」というダライ・ラマ聖下の言葉が紹介されています。

カバー裏表紙には、こう書かれています。
「マインドフルネスという仏教の訓練法が欧米で注目を集めたのは、そこにたくさんの実用的メリットがあることに人々が気づき始めたからだった。そして今、著名な思想家であり、長期にわたりダライ・ラマの通訳を務めてきたトゥプテン・ジンパが、マインドフルネスよりもっと偉大な、人生を変えるほどのパワーを秘めた慈悲の実践法を紹介する。ジンパの協力によりつくられたスタンフォード大学の画期的なコンパッション育成トレーニングをベースにして書かれた『コンパッション』は、苦痛を乗り越え、確かなな健康を手に入れ、効率よく目標を達成するカギを提供してくれる」
「しかし慈悲の実践をためらう機会はあまりにも多い。他人に優しくするとつけ込まれるのではないか、また自分に優しくすると怠惰に陥るのではないか、などと考え、人はもっと大きな幸福、ストレスのない毎日、そして日常の根底にある深い目的意識へと至るパワフルな本能に逆らう。欧米の最新研究と伝統仏教心理学を引用し、ジンパはコンパッション―慈悲の精神で生きる心―を強く支持する。誰もが毎日できる簡単なエクササイズを通じ、『コンパッション』の読者は慈悲の筋トレをして、これまでベールに包まれてきた幸福の処方箋を手に入れられるだろう」

さらにカバー前そでには、「慈悲の精神を高邁な理想ではなく、俗世間のとっ散らかった現実の中に持ち込んだジンパの実用的なセンスを称賛したい。『コンパッション』は、困難な今という時代にこそ求められる本と言える」というリチャード・ギアの言葉が紹介されています。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき」
「はじめに」
PARTⅠ コンパッションが大切な理由

第一章 幸せの隠し玉:コンパッション

第二章 自己受容のカギ

   :自分に向けるコンパッション

第三章 怖れから勇気へ:抵抗を乗り越える

PARTⅡ 意識(マインド)と心(ハート)の訓練

第四章 コンパッションから行動へ

   :意図を動機に変える

第五章 コンパッションへと向かう道

   :意識を集中することで軌道に乗る

第六章 不自由からの解放

   :自己中心の牢獄から脱出する

第七章 「私が幸せでありますように」

   :自分自身をいたわる

第八章 「私と同じように」

   :気づかいの輪を広げる

PARTⅢ 新しい生き方

第九章 さらなる幸福へ:

    コンパッションの力で

    より健康で強くなる方法

第十章 勇気が増すほどストレスが減少し、

    自由が拡大する

    :慈悲心を基本姿勢にする

第十一章 ひとつであることのパワー

     :世界をコンパッションで満たすために
「謝辞」
「NOTES 注釈」

まえがき「他を思いやる勇気が人生を変える」では、『スタンフォード大学マインドフルネス教室』『ハートフルネス スタンフォードの心理学授業』の著者で、スタンフォード大学心理学者のスティーヴン・マーフィー重松博士が「コンパッションは、日本語で『慈悲』という仏教用語に訳され、一般的には『思いやり』と呼ばれます。Compassionという英単語の語源はラテン語で、『ともに苦しむ』という意味です。つまりこれは人や苦しみに対して示される『優しい』という言葉と同義語です。本書の副題にあるように、他を思いやるには勇気が必要です。『勇気』という言葉はラテン語では『心臓』を意味し、勇気は思考する脳ではなく感じる心から見出さなくてはならないということがわかります」と述べています。

コンパッションを示すには、自分や宇宙を信頼し、鎧を脱ぎ捨てて相手のほうに歩み寄って行く勇気が不可欠だといいます。その一方でコンパッションは勇気を生むとして、重松氏は「他者を思いやることで、人は怖れから解放され、勇敢になります。関心を自分の外に向けることで視野が拡がり、自分の悩みは相対的に小さくなり、しかもありふれた問題だと気づきます。怖れていた相手が自分と同じ人間で、敵ではないとわかった時、人は強くなるのです」と述べます。本書の著者ジンパも重松氏も目指すテーマは同じだそうで、重松氏が主唱する「ハートフルネス」とはマインドフルネスにコンパッションと責任を加えた、マインドフルネスの発展形だといいます。ハートフルネスは、マインドフルネスで得られる個々人の幸福からより広い領域へと誘い、個人、組織、そして世界全体の変容を促すものです。

思いやりのある行動をする時、そこには目的が生まれるという重松氏は、「それは私たちの重い心、そして私たちと触れ合った人々の心を軽くします。勇敢な心は、誰しもが等しく抱える弱さという真実、とりわけ世界中で猛威を振るった疫病蔓延のさなかにこそ痛感させられる、人の脆弱さを優しく受け止めます。それはこの惑星で人として生きることの苦難と喜びの両方に開かれた心を育て、この世界でコンパッションを実践する勇気を育みます」と述べます。また、本書『コンパッション』は思いやりのある世界はわたしたちから始まるということを教えてくれるとして、「コンパッションは偉業ではなく、ただ人間であることの証です。その気になれば、私たちの毎日は親切な行動によってコンパッションを示す機会であふれています」と述べるのでした。

ウェルビーイング?』&『コンパッション!

「はじめに」の冒頭では、「時機を得た考えほどパワフルなものはない」というビクトル・ユーゴーの名言が引用されています。ユーゴーといえば、世界で一番短い手紙が有名です。彼が『レ・ミゼラブル』を出版した際、本の売れ行きを心配して「?」とだけ書いた手紙を出版社に出したところ、出版社は「売れてるよ!」という意味で「!」という返事を出したという逸話です。この「?」「!」は、オリーブの木から出版したわたしの最新刊『ウェルビーイング?』『コンパッション!』のツインブックスで甦りました。40年間「ウェルビーイング」を追求した結果、「コンパッション」という答えを発見したという意味なのですが、両書のタイトルを知った人の中には「あ、ユーゴーの手紙ですね」と言った方が何人もいました。

「はじめに」で、著者ジンパは「コンパッションは私の一生の関心事だ。幼少期の私は、他者から慈悲を受け取る側だった。1960年代初頭、言葉も文化もわからない新しい土地で、親の世代が難民として適応するのに四苦八苦していた中、セーブ・ザ・チルドレン基金に寄付してくれた何千という一般英国市民のお陰で、私を含む何千というチベットの子供たちは安心して成長できる家が提供された。バレンティナ・スタッシュローゼン博士やゼメイ・リンポチェのような人々のお陰で、私は一般的でない教育にもがきながらも目的を見出すことができた。仕事としてダライ・ラマのすぐそばでお仕えしながら、私は慈悲心という、人の資質を心から信じて生きることの意味について、最前列で観察するという特権を享受してきた」と述べます。

「コンパッションとは何だろう?」と読者に問いかける著者は、「ほとんどの人はコンパッションを高く評価し、自分の人生にも社会にも重要だと考えている。コンパッションが人としての日常経験の一部であることも否定できない。大人は子供を愛し、世話をする。苦しんでいる人を見れば本能的にその人に心を寄せる。つらい時に誰かが手を差し伸べてくれば感動する。慈悲心とは、良い人生を送ることと関係があるということにほとんどの人は同意するだろう。コンパッションが宗教的・人道的を問わず、すべての主要な伝統の道徳的指針に含まれているのは単なる偶然ではない。政争の場ですら、両陣営が慈悲の心の価値を強く掲げている」と述べます。

コンパッションとは広義において、他者が苦しんでいる時に私たちが寄せる関心の一種であり、その苦しみが取り除かれるべく行動したいと思う気持ちのことだといいます。慈悲を表す英語「コンパッション」の語源はラテン語で、”ともに苦しむ”という意味です。宗教史学者カレン・アームストロングによると、セム語族(アフロ・アジア語族に属する言語グループ)で慈悲を表すと、ヘブライ語ではラハマヌート、アラビア語ではラーマンとなり、語源を辿ると子宮を意味します。著者は、「これは慈悲の典型的表現として、母の子供に対する愛を想起させる。根底にあるのは、苦しみや悲しみなど、人が遭遇する避けられない現実に対する自然な反応だ。慈悲は苦しみに対して怖れや反発ではなく、理解や忍耐、思いやりを示すという反応を起こす。慈悲は苦痛を伴う現実に対して私たちの心を開かせ、痛みの軽減を探ろうとする。慈悲は共感という感情と、思いやり、寛大さ、その他の利他的表現を体現する行動とを結びつける」と述べます。

「なぜ今、コンパッションなのか?」では、今日いくつかの潮流が合流し、コンパッションの時代の到来を想起させるとして、著者は「世界は狭くなり、限りある天然資源に反して人口は増加の一途を辿り、環境問題は人類全体に影響し、人々、文化、宗教を隔てる距離はテクノロジーや人口動態、世界経済によって縮まってきた今、私たちは喫緊の課題として共存と協力の精神を育成する必要性に迫られている。私たちは文字通り運命共同体だ。人類が一つの運命を共有しているという現実こそが、慈悲の本質と言える。たとえば、世界の人々が一斉に慈悲の心を自分たちの信条の根幹をなすものだと確信したら、何百万という人々が一つになり、互いを尊重し合うためのゆるぎない共通基盤が醸成されることだろう。ダライ・ラマとの一連の対話の中で、感情の科学者ポール・エクマンは、彼が言うところの『地球規模の慈悲心』が、現代の世の中で最も問われている課題だというパワフルな主張をした。私たち一人ひとりが、そして地球市民全体として、自らに内在する慈悲心を真剣に体現できれば、より人道的な世界をつくるという夢も現実味を増してくる」と述べています。

欧米でのマインドフルネスは仏教瞑想に端を発していて(特に20世紀初頭の旧ビルマ、現ミャンマーで一般人向けに作られた瞑想法)、ジャック・コーンフィールドやジョセフ・ゴールドスタインといったアメリカ人の先駆的仏教徒が東南アジアの僧院で数年間の修行をしたのち1970年代にアメリカに持ち帰ったものだといいます。ビルマ・インド仏教の師であるS・N・ゴエンカや禅指導者ティク・ナット・ハンもこの運動の立役者です。1979年、マサチューセッツ大学医学部に、ジョン・カバット・ジンが慢性痛に悩む人々のために開発されたマインドフルネスの訓練を使ったクリニックを開設しました。このテクニックはMBSR『マインドフルネスをベースにしたストレス低減法』として知られるようになりました。

「スタンフォードの『コンパッション育成トレーニング』」では、「伝統仏教の技法からつくられた瞑想から仏教的要素を取り除いてしまったら、その瞑想にはどれほどの効果が残るだろう?」という疑問が浮かぶかもしれないとして、著者は「これに対する私の答えはシンプルだ。プロの通訳者として私は長い間ラルフ・ワルド・エマーソンの、多言語への翻訳が可能かどうかに関する言葉に感銘を受けてきた。彼の著作『Society and Solitude(社会と孤独)』の中で、彼は『どんな本であれ、真の洞察や人の情緒など、そこに書かれた善なるエッセンスは翻訳可能である』と書いている。この原理は他言語への翻訳に限らず、人の置かれた状況に対する洞察を伝える際に使われるすべてのコミュニケーション手段にも言えることだと私は考える。伝統仏教の慈悲の訓練が基本的な部分においてよりよい人格形成に役立つのであれば、その伝統的手法は民族、宗教、文化を超えて私たち全員が理解可能な形に翻訳可能だ。つまり、根源的で、最善の真実は万人に当てはまるということだ」と述べています。

心ゆたかな社会』(現代書林)

「本書について」では、著者は「コンパッションは私たち人類の基本的な性質の根幹をなすものだ。私たちの中にある慈悲心を見出し、育み、自分自身や他者、周囲の世界とつながることは、個人としての幸福と社会の繁栄のカギとなる」と述べ、さらには「私たち人間は、慈悲の命ずるところから逃れられないという事実は祝福に値する。人は皆、誰かの助けを受けてこの世に誕生する。人が成長し、苦境を乗り越えて成人となれるのは、誰かに守られ、支えられたからにほかならない。自力で何でもできる壮年期ですら、他者の愛と協力の有無次第で幸福にも悲惨にもなり得る。それが人間というものだ」と述べるのでした。これは拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)の内容にも通じるメッセージです。

PARTⅠ「コンパッションが大切な理由」の第一章「幸せの隠し玉コンパッション」の冒頭には、「それひとつ持っていると、その外のすべての美徳も持つことになるものとは何だろう? 慈悲だ」という仏陀の言葉、「親切以上の知恵など存在しない」というジャン・ジャック・ルソーの言葉が引用されています。また、「つながるために生まれた」では、「マザー・テレサやダライ・ラマのように、並外れて大きな慈悲心を持った人々は私たちとは違う人種のように感じられるかもしれないが、彼らとて同じ人間だ。慈悲の本能とは、目の色の違いのような生得的なものというより新しい外国語のようなものだ。私たち全員がシェイクスピアのような言葉の達人にはなれないが、繰り返し言葉に触れ、訓練を積めば自分なりの達人になれる。マザー・テレサやダライ・ラマがコンパッションの達人になったのは、彼らが努力したからだ。コンパッションの種は私たち全員に備わっている。

「我は他者なり」では、今日、人の本質は利己的だという考えはシンプル過ぎるという見解が科学の分野でも広く認知されるようになっていると指摘し、著者は「利己心に加え、人の行動を動機づける多様な性質として、私たちが持つ優しさや育みの本能の基本的な役割も科学的な評価に入れなくてはならない。人の進化の過程で、競争の傍らで協力もまた育ってきたことに私たちは気づいている。この科学重視の機運の中、共感の科学からある重要な研究が生まれた。人類発祥以前の類人猿から子供の発達心理学まで、神経科学から神経経済学(神経科学の手法で経済活動を解析する経済学の一分野)までが示すのは、人は共感を動機として行動するということだ」と述べています。一条真也の読書館『徳の起源』で紹介したオックスフォード大学の動物学者マット・リドレーの著書の内容を思い出します。同書には「他人をおもいやる遺伝子」というサブタイトルが付けられています。

共感という英単語empathyは、1909年に心理学者エドワード・B・ティッチナーが発音しにくいドイツ語の単語を訳す際に作った造語だそうです。その概念は19世紀に生まれたもので、直訳すれば「誰かの感情を感じることができる」という意味です。このドイツ語は他者の感情に対する感受性を示しているとして、著者は「言葉自体は新しいものの、その現象は古くから認知されてきた。共感の概念は、黄金律(他人にしてほしいと思うことを自ら他人にせよ)の神髄に根差し、ほぼすべての道徳や哲学、宗教的教義に共通するものだ。この法則を仏教の経典――『自らの身体を手本にせよ』『他者に危害を与えるなかれ』――に照らしてみると、共感とのつながりは一層明確になる」と述べています。

共感の概念は、宗教以外の文献にも存在します。ジャン・ジャック・ルソーの小説風教育論『エミール』で、彼は「苦しんでいる人を背負うがごとく、自分という枠を出て苦しむ人と同化するには、哀れみの情を抱くには、どうすればいいだろう」と問いかけます。スコットランドの哲学者デビッド・ヒュームは、他者の喜びや痛みをあたかも自分のことのように捉えて心が共振する自然な現象を、バイオリンの弦が他の弦の奏でる音に共振する現象になぞらえる。市場経済理論の立役者の一人アダム・スミスは、他人に心を寄せる想像力は実際のところ「他者の受難に対する仲間意識だ」と言います。チャールズ・ダーウィンは、「社会的本能として備わった資質」ととらえ、その社会的本能は「同胞の属する社会に喜びと思いやりを持ち、そのために多様な奉仕をする力」だと考えました。

「研究が示す展望」では、共感、慈悲、親切、そして利他的行動をする能力は、社会や文化に馴染む過程で習得するものではなく、先天的に備わっているものだということだと指摘し、著者は「それらの行為の対象としてふさわしい相手か、そうでないかを識別する方法は、ある程度成長してから社会化の過程で学んでいく。したがって、子供が本能的に持っている純粋な親切心に社会が悪影響を与えるというルソーの説はある意味正論だ。瞑想の科学のパイオニアとして知られるリチャード・デビッドソンは、人の生得的な慈悲の精神が言語能力と似ているとすれば、人格形成期に慈悲の精神(あるいは特定の言語)に触れる機会がなかった場合、その能力は残念ながら開発されず、表現されることもないだろうと主張する」と述べます。

「コンパッションの恩恵」では、共感とは、他者に向かう(または他者とともにある)気持ちであり、他者の気持ちを理解することだと指摘し、「誰かが苦しんでいる様子を見た時、人の心に湧き起こるコンパッションは共感から生まれるが、それにとどまらず、苦痛が取り除かれることを望み、そのために何かしようと考える。コンパッションとは共感という反応を超えた、よりパワフルな状態を指す。思いやりとは、利他心の基本形であり、助けるという行為を通じて慈悲心を表現するものだ。コンパッションとは、私たちが持つ共感という反応を、思いやりという行動によって表現することを可能にするものだ」と述べます。

また、著者は以下のように述べています。
「私たちは好意を受け取る側となったり、誰かに好意を与える側となったりもする。誰かに同意してほしいときに笑顔で応じるとかうなずくといったシンプルなことであれ、何か不満をぶちまけたい時に熱心に耳を傾けてくれる友人であれ、重大な局面で親身になってくれる指導者からの賢明なアドバイスであれ、意気消沈している時に優しく抱きしめてくれるパートナーや、本当につらいときに手を差し伸べてくれる人など、他者の思いやりの光に触れるとき、人は緊張が解け、認められ、尊重されたと感じる。ひとことで言えば、肯定されたと感じる。しかしあまりにも頻繁に、人は他者を思いやること、そして思いやりを受けた時に感謝することを忘れている」

続けて、子を持つ親として、また高齢の親の面倒を見る子供として、患者の治療や世話をする医療機関の従事者として、生徒を導く教師として、他者を助ける行為は世界中どこにでもある日常的現実の一部だと指摘し、著者は「あまりにもありふれているため、それを当たり前のこととして考えがちだ。または、あるに越したことはないけれど、さして重要でないおまけのようなものだとか、時間とエネルギーが余っている時にやる贅沢だと捉えがちだが、実際のところ、私たちの健康や幸福、世界全体は、私たちが相互に思いやることなしには存続し得ない」と述べます。「思いやりを受け取る」では、「慈悲レベルが高い人々は強いストレスにさらされている時に支援を受けると、その恩恵をより強く受け止める」と訴えます。つまり、他者の思いやりの恩恵を受けるには、自分もまた思いやりの精神の持ち主である必要があるということです。

「ヘルパーズ・ハイ」では、慈悲の精神で誰かに親切な行為をすると、親切にした側もいい気分になるとして、著者は「それは人が他者とのつながり、そこから幸福を感じるという生来の欲求を満たすからだ。慈悲と思いやりは、自分の関心事という狭い領域から人を解放し、より大きなものの一部になった気持ちにさせてくれる。自分にばかり意識を向けて不安な日常を繰り返す人生に甘んじているのなら、慈悲の心は視野を狭くしている心のブラインドを外し、世界に目を向けるようにしてくれる。そうであるなら、慈悲が脳内にポジティブな影響を与えることを科学者たちが発見したことは驚くにあたらない。困っている誰かが救われることを純粋に願って手を差し伸べる時、幸福感の現れであるエンドルフィンの脳内分泌が増える。この現象のことをヘルパーズ・ハイという」と述べます。

また、著者は「人が自分の幸せばかりに囚われるのをやめると、幸せ度が増すというパラドックスがある。触発されることではなく愛することにより、自分だけの狭い意識領域を超越し、最も深い至福体験がやってくる」とも述べています。「コンパッションが大きいほど目的意識が高い」では、著者は「慈悲と思いやりの心を持つことの最大の特徴は、人生に目的を与えることだと私は考えている。誰かや何かの役に立つことに勝る喜びはない。仕事でも家庭でも、誰かを助けて状況がよくなった時、私たちは自分が正しい方向に邁進していると感じ、効率よく確かな足取りで生きていると感じる。人生に目的意識を持つこととは、個人の幸福、ひいては長寿に欠かせない重要な要素の1つとなっている」と述べるのでした。

「コンパッションが大きいほどストレスは少ない」では、コンパッションを持つとストレスが軽減されるとダライ・ラマによれば、コンパッションは自分や他者の弱さや苦痛といった不快な事実を認識することなので、信じがたいことかもしれないが、これも科学的に証明されているといいます。著者は、「幸福と同じように、ここにもトリックがある。コンパッションは自分を批判し、不安に陥ることで起きるストレスから人を解放してくれる。意識の焦点を自分という狭い関心(そしてそれに伴う重圧)から逸らし、他者への慈悲に向かう時、人の心は軽くなる。日常からストレス源がなくなったわけではないが、それが与える影響を受けにくくなる。ストレスが人を疲弊させるのは、それが人を滅入らせ、圧倒されることに恐怖を感じるからだ。その一方で、コンパッションは気持ちを明るくしてくれる。背負っている重荷がいくらか軽くなったように感じる。その重荷を広い視野で見るようになる。重荷を背負っているのは自分1人ではないと気づく」と述べています。

コンパッションがストレスを和らげるもう1つの理由は、慈悲に伴う理解と忍耐によるものです。慈悲の心で他者に接すると、他者をうっとうしく感じたり、反感を覚えることが少なくなります。とりわけ自分自身に対して慈悲の心を向けると、人は自分の感情に対して優しく、忍耐強くなります。「孤独の解毒剤」では、数えきれないほどの研究結果の通り、バーチャルでない社会のつながりが孤独の解毒剤となるのは驚くにはあたらないとして、著者は「他者に対して心を開き、他者を気づかい、他者の思いやりを受け入れる――私たちの精神の基軸である慈悲心を表現して生きる――ことにより、社会での強い絆が創り出される。私たちは他者とつながるためにこの世に生まれている。他者とのつながり、それも人類同胞だけでなく、他のすべての生きとし生けるものとのつながりを希う心は人の意識の根底にあり、幸福の質を決定づける」と述べます。

第二章「自己受容のカギ 自分に向けるコンパッション」の冒頭には、「人間性の奥底にある原理とは承認欲求だ」というウィリアム・ジェイムズの言葉が引用されています。「自分への思いやり(セルフコンパッション)とは異なるもの」では、完璧主義につながる自尊心の問題点について、チベット人は「自分より上を羨み、自分と同じものと張り合い、自分より下を蔑む。」という印象的な言葉で要約しています。その根底にあるのは自らに対する不満と不幸だと彼らは主張します。

第四章「コンパッションから行動へ 意図を動機に変える」では、チベットの伝統では、コンパッションは最も崇高な精神的理想であり、最も高次の人間性の発露だと捉えられていることが指摘されます。コンパッションを表すチベット語、nyingjeは、直訳すると「心の王様」で、チベット人がどれほどコンパッションを重視しているかをよく表しています。スタンフォードのコンパッション・トレーニングの基本的枠組や誘導瞑想の元となっているのが、このチベットのコンパッションの瞑想の伝統だといいます。

「どのように意図が動機となるのか」では、人の心の奥底にある大志を追求するにはどのような動機づけが望ましいかという問いは、仏教心理学の長い歴史の中で中心的課題となってきたと指摘し、著者は「仏教で動機とは欲求の一種で、より厳密に言うと、目的意識を持った行動欲求だ。たとえば慈悲心を育むという場合、慈悲心とその目標の間に情緒的連携をつくり、慈悲心を持って行動したいという欲求を自らの中に醸成していく。そしてその利点を目の当たりにすることで、慈しみ深い行動に目的意識を見出していく」と述べています。

第六章「不自由からの解放 自己中心の牢獄から脱出する」では、英語の動詞careには複数の意味があり、大変興味深い。たとえばモノに対して使う時、それはその対象物を慎重に扱うという意味だと指摘されます。著者は、「aboutという前置詞を足して人に使う時、その人に興味があるという意味になる。重要なのは、forという前置詞を足して人に使う時、その人の安全や幸福を気にかけるという意味になる。英語ではcareという同じ動詞を使って、『気にかける』と『興味がある』という感情に根差した行動を表現する。さらに動詞を一つ加えてtake care ofとすれば、『世話をする』という意味になる。careという動詞がこのように多層の意味を成すことは、人の心の重要な働きを捉えているように私には見える。誰かを重要視する時、その人のことを気にかけるようになり、その結果その人の安全や幸福により関心を抱くようになる」と述べています。

「意図⇒動機⇒注目⇒慈愛&慈悲⇒親切な行動」を唱える著者は、慈愛と慈悲の連鎖を訴えます。仏教の慈悲瞑想では、誰か大切な人に対する愛情を想起する訓練をするとして、「切な存在となっている人物を選び、その人への感情を確認できたら、対象となる人をどんどん増やしていく。そして最終的にはすべての生きとし生けるものに対する愛情を抱く訓練をする。そして愛と慈悲がすべてのものに対する基本姿勢となるまで続ける。この訓練のわかりやすいメリットは、心が開かれることだ。自分の外側に働きかけ、外界が自分に反応し、触れる――これが人であるということだ」と述べます。

「毎日を開かれた心で生きる」では、西洋では少なくともアリストテレスの時代からの長きにわたり、人間は主として理性の生き物だと定義してきたと指摘し、著者は「近年になって、人間は芸術性やスピリチュアルな感性を併せ持つ、感情の生き物でもあるということが認識されるようになった。私に言わせれば、他者の優しさに触れ、心を動かされることのない人生など、人生の影に過ぎないと思う。人は他者や周りの世界に触れ、感動する時、そして他者との絆を感じる時、生きることに意味や目的を見つける時、…要するに自分よりも大きなものを大切だと感じられた時に、一番生きている実感を感じるものだ。このように自分以外の存在を気づかうことで人は人として完成する。それは私たちを前進させる原動力だ。月並みな表現ではあるが、人はつくづく他者とつながるようにできている」と述べています。

著者は、インド南部の町バンガロールで、リチャード・アッテンボローの映画「ガンジー」を初めて観た時のことをよく覚えているそうです。「気分が高揚し、別次元を生きているような感覚が数日間続いた。まるで五感を通じてではなく、開かれた心から直接経験しているかのように、現世を生きることが質的に変化した」と述べています。これを文学作品を通じて経験する人々もいるとして、著者は「映画『いまを生きる』(私の一番のお気に入りの一つ)の印象的なワンシーンで、ロビン・ウィリアムズが演じた主人公の教師が、情熱を込めてこう言い放つ。『僕らが詩を読んだり書いたりするのは、それがかわいいからじゃない。僕らが詩を読んだり書いたりするのは、僕らが人類の一員だからだ。詩、美、ロマンス、愛。こういうものが僕らの生き甲斐、生きる目的なんだよ』」と紹介します。

あるいは個人の文化的背景や好みによっては、宗教的な文献、音楽、視覚芸術などに触れると瞬時に心が開かれるとして、著者は「私などはチベット僧院の詠唱音楽や、1970~80年代のインド映画音楽、特にモハンムド・ラフィとキショア・クマールとうい二大男性歌手が歌う曲を聴くと効果てきめんだ。私はこれら二種類の音楽を聞いて育ったからだ。しかし数年前、エストニアの作曲家、アルヴォ・ペルトのスピーゲル・イン・スピーゲル(鏡の中の鏡)という曲に遭遇した」と述べています。 この作品は 一条真也の映画館「ゼロ・グラビティ」で紹介したハリウッドの2013年の大ヒット映画(宇宙空間で遭難した二人の宇宙飛行士の話)の予告編でサウンドトラックとして使われていました。著者は、「2、3の簡単な旋律のリフレインにごくわずかなバリエーションがつけられて、あたかも合わせ鏡の中でお互いを際限なく映し続けて永遠の時間を表現しているような楽曲だ。これは今まで聴いたことがないような音楽だったが、優しい気持ちにさせてくれ、世界を我が家と感じさせてくれる」と述べます。

慈経 自由訳』(現代書林)

「慈愛&慈悲の瞑想を通じて心を解放する」では、慈悲を、慈しみという傘の元、苦しみに焦点を合わせた特定の形だと捉えてもいいといいます。これらはどちらも四無量心のうちの2つであり、人の幸福を願う二通りの手法だとして、著者は「これらの習慣の起源は2500年以上前のブッダ本人にまでさかのぼる。有名な慈経(慈愛に関する講話)では、心の一連の願望の形について指南している。(心そして脳――原始仏教の経典はパーリ語で書かれていて、パーリ語で両者は同一視されている)にはこんな傾向があるので、他者の幸福をこんな風に願う」と述べています。わたしは、ブッダ最初の教えとされている慈経を自由訳しました。拙著『慈経 自由訳』(現代書林)をお読み下されば幸いです。

仏教は伝統的に生きとし生けるものへの慈愛・慈悲の心を育てるための組織立った瞑想訓練を開発してきました。著者は、「これらの伝統仏教瞑想は通例自分自身を起点としている。つまり、私たちの誰もが生まれながらに持っている、幸福を求め、苦しみから解放されることへの願望だ。次に、愛する者に焦点を移し、この人物の喜び、幸福、平和を願い(慈愛)、苦しみからの解放を願う(慈悲)。その先は焦点の範囲を拡大していき、『中立的な』人(特に好きでも嫌いでもない人のこと)の喜び、幸福、平和を願う。その次には『困難な』人(たとえば私たちをイラつかせる人)、そして最後に範囲を最大限に拡大し、すべてのものたちの喜び、幸福、平和を願う」と述べます。

第八章「『私と同じように』 気づかいの輪を拡げる」の「親近感がもたらすパワー」では、著者は「コンパッションと他者との一体感が密接に関係していることがよく知られる分野に、慈善行為がある。『身元の分かる犠牲者効果』とは、人は身元不明の犠牲者より、どこの誰かがわかる犠牲者のほうに、より強くコンパッションを抱くという効果を指す。つまり対象となる犠牲者が特定できる時、その窮状に対するコンパッションが増すということだ。実際のところ、この現象はより広い慈悲の心理学分野の一部にもなっている。人は人類という抽象的な概念より、現実にいる人々に対して、また集団よりは1人に対して、コンパッションを抱きやすい。身元不明者より身元が分かる人に対し、苦しむかもしれない人より実際に苦しんでいる人に対して、よりコンパッションを抱く。何千人という人々が助けを必要としているという統計の数字を見せられるより、苦しんでいる1人の写真に対して、より強く心が動かされるのはこのためだ」と述べています。

第九章「さらなる幸福へ コンパッションの力でより健康で強くなる方法」の「倫理意識の錨を下ろす」では、コンパッションとは、人が生まれながらに持っている性質の一部だと指摘し、著者は「それを認識し育むことにより、コンパッションは同朋とともに道徳的動物として私たちを特徴づける、倫理の国際基準となるだろう。たとえばダライ・ラマは、その活動の多くを傾けて「コンパッションとは宗教なき時代の普遍的倫理」というメッセージを推進してきた。彼はその著書、『Ethics for the New Millennium(新しい千年紀の倫理)』、そしてその続編『ダライ・ラマ宗教を超えて』(サンガ)を通じて、倫理のそのようなとらえ方を力強く論証した」と書いています。

ダライ・ラマの議論によると、慈悲心、愛、親切さ、赦し、責任といった人の基本的な価値観とは、宗教によって強調されるかもしれませんが、それ以前に、宗教とは関係なく、人間性にもともと備わっているものだという前提に基づいているといいます。それらは人が持って生まれた普遍的価値観(他者とのつながりを必要とし、幸せを願い、本能的に苦痛を避けようとするなど)に深く根差しているとして、著者は「端的に言えば、これらの価値観とは、人が持つ基本的共感体質の表出だ。したがって、他の人の幸福を望む心と定義されるコンパッションは、いかなる宗教や哲学的信条ともかかわりなく、人類に共通する倫理観のよりどころとなることが期待されている。したがってコンパッションの育成は非常に大きな社会的・地球的影響を内包している。私たち一人ひとりがコンパッションを人生の行動規範として生きたら、世界がどんなことになるか、想像してみてほしい」と述べます。

第十章「勇気が増すほどストレスが減少し、自由が拡大する 慈悲心を基本姿勢にする」の冒頭を、著者は「コンパッションと利他心を行使するという意図を設定する(そして再設定を繰り返す)こと、そしてその練習をする(それを何度も繰り返す)ことでそれらを習慣にできるだろうか? 思考と感情の訓練により慈悲心を無意識領域に刷り込み、いわゆる直感思考の自動反応プロセスを確立し、慈悲と利他が本能的な人生での反応となるようにできるだろうか? コンパッションを一過性の気分ではなく、ものの見方、世界でのあり方にできるだろうか?」と述べます。

仏教の伝統では、慈悲の開発を主眼とした習慣が行動変容にもたらす価値を常に主張してきました。現代の神経科学から学べることがあるとすれば、人の脳は新しい経験に対して極めて従順に変化するということだとして、「新しいシナプス連携がつくられるだけでなく、外界とのやり取りによって新しいシナプスが生み出される。新しいニューロンの誕生はニューロジェネシスと呼ばれ、一生を通じて脳が変化する能力についてはより一般的に神経可塑性と呼ばれる。最新の研究では、経験が生み出す脳の後成的遺伝効果(遺伝子は環境因子によって変化するということ)までわかっている。これは一生涯にわたり失われることがなく、場合によっては子孫にも受け継がれる」と述べます。

ハートフル・カンパニー』(三五館)

第十一章「ひとつであることのパワー 世界をコンパッションで満たすために」では、世界に横たわる重大な問題について考える時、私たちの多くは無力感に苛まれるとして、著者は「戦争、テロ、気候変動、環境破壊、貧困、そして貧富の格差拡大など、私たちが抱える問題はあまりにも大きく複雑で、解決どころか理解すらできそうにない。コンパッションが何らかの役に立ちそうだという感覚はあるにしろ、その方法まではわからない。たとえば思いやりを持って家族に接することはできるが、思いやりのある企業をつくるとはどうことか見当もつかない」と述べます。「思いやりのある企業」については、拙著『ハートフル・カンパニー』(三五館)の中で詳しく述べました。

死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)

「社会に正義とコンパッションを浸透させる」では、チベットの古いことわざが紹介されています。それは、「人の精神の進化を測る最良の方法は、人生最後の日に死とどう向き合うかを見ることだ」という意味のことわざです。著者は、「その時が来たら、私たちはなるべく喜びを感じながら、少なくとも悔恨の念を残すことなく出発できるよう促される。さらには、人の命が有限であるという飾らない事実に気づくことにより、私たちの根源的欲求と日常の行動との整合性が促されると言われている。それはまた、私たちの日常に過酷な現実を、そして立ち向かう勇気をもたらす。その現実を前にすると、もう仮面をかぶったリ体面を取り繕ったりする暇など残っていないことや、エゴを満たすために多くのエネルギーを浪費する不毛さが露になる。それは荒涼とした話かもしれないが、有効な助言だと私には思える」と述べています。わたしも著者とまったく同意見ですが、人生最後の日に死と向き合うための考え方を示してくれる言葉を拙著『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)で紹介しました。

コンパッション!』(オリーブの木)

そして、最後に著者は「人生最後の日が来たら、私たちは皆単独で旅立つ。富や名声、教育をあの世に持っていくことはできない。持っていけるのは人生終盤の思考と感情のみだ。私は自分の人生で何かを成し遂げたか? 私は人々に愛されたか? 私は人々を愛し、いたわったか? 私は他者の人生に何らかの形で役立ったか? 私は他者の人生に喜びをもたらしたか? 私の存在は他者の幸福に必要とされただろうか? 人生の終末が近くなると、頭の中を占めるのはこのような問いかけだろう。いずれにしても、人としての幸福は他者との関係性によって決まることから、これらの問いかけはほとんどの人々にとって重要なはずだ」と述べるのでした。これまた、著者とまったく同意見です。本書は「コンパッション」を考えるための優れたテキストであると思います。わたしも『コンパッション!』(オリーブの木)を本名で出版したばかりですが、これからも「コンパッション」についての思索を深め、その実践を続けていきたいです。

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