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No.0464 SF・ミステリー 『ジェノサイド』 高野和明著(角川書店)
2011.10.10
『ジェノサイド』高野和明著(角川書店)を読みました。
今年、ものすごく話題となったエンターテインメント大作です。「本の雑誌」2011年上半期ベスト10の1位にも輝いています。
著者は1964年生まれで、もともと映画監督を志望していたそうです。2001年に死刑制度を扱った小説『13階段』で、第47回江戸川乱歩賞を満場一致で受賞しました。
世界水準の超弩級エンタメ小説!!
創薬化学を専攻する大学院生・古賀研人のもとに、死んだはずの父親から1通のメールが届きます。それを発端に、研人は隠されていた父の私設実験室に辿り着きます。ウイルス学者だった父は、そこで何かを研究していたようです。
同じ頃、特殊部隊出身の傭兵であるジョナサン・イエーガーは幼い息子は不治の難病に冒されていました。イエーガーは、息子の治療費を稼ぐため、ある極秘の依頼を引き受けます。暗殺任務と思しき詳細不明の作戦ですが、事前に明かされたのは「人類全体に奉仕する仕事」ということだけでした。暗殺チームのリーダーとなったイエーガーは、アフリカ大陸に渡って戦争状態にあるコンゴのジャングル地帯に潜入します。
ここから息もつかせぬ波乱万丈のドラマが展開するのでした。
一読して、瀬名秀明の『パラサイト・イヴ』や貴志祐介の『天使の囀り』を連想しました。
いわゆる最先端の科学的知識を駆使したサイエンス・ホラーといった感じです。
それにしても、新薬開発の問題をはじめ、アメリカ政治、米中関係、インテリジェンス、情報セキュリティ、傭兵、アフリカの民族紛争、少数部族、カニバリズム、そして人類進化まで、じつに幅広いテーマが散りばめられ、かなりのリアリティを持っています。
もちろん、タイトルにもなっている「ジェノサイド」というメインテーマにしても。
この小説を書くために、著者が膨大な本を読み、専門家から話を聞いたことがよくわかります。ストーリーに詳しく触れることはネタバレになる恐れがあるので控えますが、本書に登場するさまざまなウンチクが非常に面白かったです。
たとえば、日本社会において理系の研究者がいかに恵まれていないかという話が次のように興味深く書かれています。(以下、引用)
厚木の家で晩酌をしながら、父はよくこぼしていた。文系と理系では、生涯獲得賃金に5千万円もの開きがあると。つまり約40年間の就業期間を通じて、年に100万円以上も安い賃金で、理系は働かざるを得ないのだ。
「ロクな報酬も与えないで、何が科学立国だ、馬鹿」と、酔っぱらった父は政治家を罵倒していた。「文系の奴らは、俺たちの業績をかっぱらって生きてるんだ。電話にテレビに車にパソコン。全部、科学者が作ってやった物じゃないか。小狡いだけの文系の奴らが、文明の発展に寄与したか?」
当時、まだ10代だった研人には、父親の不平不満は鬱陶しいだけだった。
しかし後になって、その恨み言ももっともではないかと思わせる事件があった。
青色発光ダイオード開発をめぐる裁判である。
不可能と言われていた青色LEDの発明をめぐり、開発に成功した技術者と、彼を雇用していた会社の間で法廷闘争が繰り広げられた。結果、会社側が挙げた1200億円の利益のうち、発明の対価として技術者に支払われたのは、わずか6億円だった。
1審では200億円の対価とされたものが、2審で覆ってしまったのである。
司法が独立を棄て、企業経営者の顔色を窺ったとしか思えない判断だった。
科学技術界の失望は大きかった。全世界で数兆円規模の市場を生み出した大発明の報酬は、メジャーリーガーの1年分の給料ほどにしかならなかったのである。そして、多くの科学者たちが、この裁判を転回点として日本の国際競争力は衰退に向かうと予測した。科学技術力こそが国力に直結する時代に、科学者や技術者を冷遇していては発展は望めない。日本が中国や韓国、インドに追い抜かれる日も、そう遠くはないだろう。「文明が一度、滅びちまえばいいんだ」と、研人の父は陰湿な笑みを浮かべて毒づいていた。
「科学文明を再興できるのは理系だけだ。文系の連中は、いつまで経っても電気すら持てんだろう」
研人も成人する頃になると、父親の言い分にも一理あるのではないかと思うようになってきた。学部生として過ごした4年間、時間のやりくりがつかず、英語サークルに顔を出すだけで精一杯だった研人に比べ、文系の連中は講義にも出ずに遊んでばかりいた。少なくとも研人にはそう見えた。大学を出た後、彼らのほうが5千万円も多く稼ぐというのは、容認し難い差別に思えた。社会というのは汗水垂らして物を作る人間よりも、その上前をはねる連中のほうが儲かるようになっているらしい。しかし、そう考えること自体が、研人にとっては居心地の悪いものだった。父親から受け継いだひがみっぽい遺伝子が発現したかのようで、生まれ持った肌と同じく、脱ぎ捨てようにも脱ぎ捨てられないのだった。(『ジェノサイド』P.90~91)
また、主人公・研人の友人で新薬開発のパートナーである韓国人の正勲が、韓国特有の感情について説明するくだり。研人は、日本人と韓国人の感情の違いについて、次のように語り合います。(以下、引用)
「1つ挙げると」と言って、正勲の視線が研人に戻った。「僕たち韓国人だけが見つけた、特別な感情があるんだ。これはアメリカ人も、中国人も、日本人も知らない不思議な心の動きだよ。韓国語で”ジョン”っていうんだ」
「ジョン?」
「うん。漢字だと、情って書く」
「そらなら日本人にもあるよ。情、だろう?」
「いやいや、日本語の情とは違うんだ。説明が難しいな」
研人は好奇心をそそられた。「そこを何とか説明できない?」
「無理に説明すると、人と人とを結びつけてしまう強い力だよ。僕たちは、一度でも関わった相手とは、好き嫌いとは関係なく”ジョン”で結びついてしまうんだ」
「それはつまり、友好的とか博愛ってこと?」
「そんなに美しいものじゃない。”ジョン”は厄介でもあるんだ。どんなに嫌な相手とも”ジョン”で繋がってしまうから。つまり僕たちは、他人を100パーセント拒絶することができないんだ。韓国の映画とかテレビドラマは、ほとんど全部、この”ジョン”を描いているよ」
「え、そうなの?」研人はこれまで、韓国映画を何本か観ていたが、そんなことにはまったく気づいていなかった。同じ作品を鑑賞しながら、見えているものが人によって違うというのは驚きだった。
「もっと言うと、”ジョン”は人と物も結びつけるけど・・・・・・こんな説明で分かってもらえたかな」
研人は”ジョン”なるものを心情的に理解しようとしたが、胸の奥にはどんな感情も芽生えなかった。「分からないや」
「だろう?」と正勲は笑った。「”ジョン”という言葉の意味は、”ジョン”を知っている人にしか分からないよ。言葉っていうのは、言葉が指しているものを知っていないと理解できないんだ」
科学の専門用語と同じだと研人は思った。分からない人には、いくら説明しても分かってもらえない。それが、その人の理解できる世界の限界なのだ。「ただ、日本よりも韓国のほうが、人と人との距離が近いような気がする」
「うん、そうかも」
普段、正勲が漂わせている柔らかい雰囲気は、”ジョン”に起因するものだろうかと研人は考えた。
「さて」と、正勲が腕時計を見た。「そろそろ『GIFT』の計算が終わる頃だ」
研人は椅子から腰を上げながら、是非とも”ジョン”の分かる人間になりたいものだと考えていた。(『ジェノサイド』P.312~314)
さらには、人類進化の秘密を説いた「ハイズマン・レポート」の作成者であるハイズマン博士と、彼を訪ねたアメリカの政府要人ルーベンスが人類の存続について交わす次のような会話。(以下、引用)
「人類史を辿れば、妥当な仮説だと思うがね」とハイズマンは続けた。
「南北アメリカ大陸に進出したヨーロッパ人は、戦闘や疫病で先住民の9割を殺した。ほとんどの民族が絶滅させられたのだ。さらにアフリカ大陸では、1000万人の奴隷を狩るためにその何倍もの人間が殺された。同じ生物種であっても、この有り様だ。現生人類が、他の人類を厚遇したとは思えない」
コンゴ民主共和国の歴史を思い出して、ルーベンスの気分は塞いだ。あの国を襲った災厄は、奴隷狩りだけではない。ベルギー国王レオポルド2世の私有地とされたコンゴでは、暴政に抵抗した現地人は手首を切り落とされて殺された。そのうちベルギー人の人種差別意識は歯止めが利かなくなり、手首のコレクションのために赤ん坊から老人まで、1000万もの人々が虐殺されたと言われている。20世紀に至るまで、アフリカ大陸だけが発展から取り残されたのは、奴隷貿易と苛酷な植民地支配によって、人間というもっとも重要な資源を奪われたからなのだ。
「人間は、自分も異人種も同じ生物種であると認識することができない。肌の色や国籍、宗教、場合によっては地域社会や家族といった狭い分類の中に身を置いて、それこそが自分であると認識する。他の集団に属している個体は、警戒しなければならない別種の存在なのだ。もちろんこれは、理性による判断ではなく生物学的な習性だ。ヒトという動物の脳が、生まれながらにして異質な存在を見分け、警戒するようになっているのさ。そして私には、これこそが人間の残虐性を物語る証左に思える」
ルーベンスは、博士の主張を理解した。「つまり、その習性は生存に有利な方向に働き、種全体に保存された。逆に言えば、異人種を警戒しなかった人間は、異人種によって殺された」
「そうだ。蛇を恐れぬ動物が、毒蛇に咬まれて個体数を減らしたのと同じ理屈だ。結果、蛇を恐れる個体が多く生き残り、子孫である我々の多くが、蛇に対して本能的な恐怖を感じるようになった」
「しかし我々には、平和を希求する理性も具わっているのでは?」
「隣人と仲良くするよりも、世界平和を叫ぶほうが簡単なのさ」と、ハイズマンは嘲るように言った。
「いいかね、戦争というのは形を変えた共食いなんだ。そして人間は、知性を用いて共食いの本能を隠蔽しようとする。政治、宗教、イデオロギー、愛国心といった屁理屈をこねまわしてな。しかし根底にあるのは獣と同じ欲求だ。領土をめぐって人間が殺し合うのと、縄張りを侵されたチンパンジーが怒り狂って暴力を振るうのと、どこが違うのかね?」
「それならば、利他的な行為をどう見ます?我々が善行と呼ぶもの、それを為す人間もいるでしょう」と問いかけた時、ルーベンスの脳裏に貧相な日本人の姿が浮かんだ。
DIAの報告書に添付されていた、ケント・コガの写真だ。
あの、いかにも異性にはもてそうもない、冴えない風貌の若者は、どうして身の危険を承知で新薬を開発しようとしているのだろう?
「善なる側面が人間にあるのも否定はしないよ。しかし善行というものは、ヒトとしての本性に背く行為だからこそ美徳とされるのだ。それが生物学的に当たり前の行動なら賞賛されることもない。他国民を殺さないことでしか国家の善は示されないが、それすらもできないでいるのが今の人間だ」(『ジェノサイド』P.408~409)
このハイズマンとルーベンスとの会話を読みながら、わたしはキリスト教のことを考えました。「大虐殺」や「民族皆殺し」を意味する「ジェノサイド」は、意外にもキリスト教に縁が深い言葉です。この原点は、『旧約聖書』の「ヨシュア記」に見られます。
このことを、わたしは小室直樹氏の名著『日本人のための宗教原論』(徳間書店)で知りました。小室氏によれば、神父も牧師も、日本にキリスト教を伝える人々は、パウロの「ローマ人への手紙」をはじめとした都合のいい箇所を中心に教えるけれども、「ヨシュア記」は教えないといいます。
しかし、この「ヨシュア記」にこそ「宗教の秘密」は隠されているというのです。
神はイスラエルの民にカナンの地を約束しました。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていました。そこで、「主はせっかく地を用意して下さいましたけれども、そこには異民族がおります」と言いました。
すると、神はどう答えたか。「異民族は皆殺しにせよ」と言ったのです。
神の命令は絶対に正しい。となれば、異民族は皆殺しにしなければならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたこととなり、大きな罪となる。したがって、「ヨシュア記」を読むと、老若男女を問わず、一人残さず殺したという場面がやったらと出てきます。
それはもう、殺すわ殺すわ、王とその町の住民を一人残らず皆殺しにします。
女も男も、生まれたての赤ん坊からヨボヨボの老人まで、例外はありません。
「皆殺しにせよ!」というのが神の命令だからです。
かくして、31人の王とその町々が完全にジェノサイドされたのです。
神に対して敬虔であればあるほど、異教徒は殺さなくてはなりません。
この意味において、小室氏は「キリスト教は殺人宗教である」と述べています。
かの十字軍の遠征にしても途方もない殺人遠征でした。
1096年から始まる十字軍そのものは、教皇ウルバヌス2世の政治的意図から発しており、当初は聖地エルサレム奪回という意図は希薄でした。
しかし、中世のカルト集団ともいえる千年王国主義者の目には、十字軍は、サタンと反キリストに支配されているイスラム勢力を滅ぼし、セルジューク朝に支配されている聖地を奪回して千年王国を実現する「聖戦」(ジハード)ととらえられたのです。
そこでは、「イスラム教徒をジェノサイドせよ!」と唱えられたのでした。
キリスト教勢力は、その後も大規模なジェノサイドを展開します。
15世紀から17世紀にかけての大航海時代、コロンブスやマゼランといったヨーロッパ人たちは「未開の地」である新大陸に上陸しました。そこで彼らは、冒険家も宣教師もみな、罪もない原住民を殺しまくりました。別に原住民たちがこの侵入者たちを襲ったわけでも何でもないのに、彼らは殺戮に次ぐ大殺戮を繰り返したのです。
スペイン人のピサロがペルーに渡ったときも、彼とその一行はインカ帝国を滅ぼし、その財宝を略奪したばかりか、そこに暮らす先住民を無慈悲に殺戮しました。また、生き残った女たちをレイプして、純粋な血が残らないようにしたといいます。
北米に移住してきたキリスト教徒たちも、ピサロに遅れじとばかりに先住民を殺しまくりました。移民当初は100万人はいたと推定されている先住民は、19世紀末にはわずか1万人足らずに減りました。カリブ海に浮かぶ島々の先住民は、マルティニーク島をはじめ島によっては、1人残らず殺戮されています。
まさに極悪非道の行いですが、キリスト教の教義に従って異教徒を殺したまでなので、殺戮者たちには後ろめたさなどなかったのです。
その後、20世紀にも人類史に残るジェノサイドが行われました。
第二次世界大戦において、ヒトラー率いるナチスが組織的かつ計画的にユダヤ人を迫害し、最終的にはユダヤ人そのものの殲滅を図って未曾有の大弾圧を行ない、600万人ともいわれるユダヤ人を虐殺したのです。
この大規模なジェノサイドは、「ホロコースト」とも呼ばれました。
そして、ここでもキリスト教は無関係ではありませんでした。
ヒトラーによるユダヤ人大虐殺を知りながら、バチカンは無視を決め込んでいました。
さらには、ヒトラー自身が熱心なカトリック信者であったことは有名です。
まさに、キリスト教は殺人宗教であると言える側面を持っています。
しかし、キリスト教は「隣人に対する無条件の奉仕」を説きます。
この教義通りに、多くの人々が無報酬で、まったく見知らぬ他人にかぎりない奉仕を行なってきました。これも神の命令だからです。
その一方で、無条件にジェノサイドする者もいるのです。神の命令であるかぎり、隣人にかぎりなき奉仕をする人が同時に大虐殺を行なっても矛盾しないのです。だからといって、わたしはキリスト教や宗教そのものを否定しているわけではありません。
たしかに、宗教は恐ろしいです。しかし、それだけが宗教のすべてではありません。
宗教は、また優しいのです。たしかにキリスト教は、殺人宗教の一面を持ちますが、まったく価値のない者に対する無条件、無制限の愛の実践を教えているのも、キリスト教に限られています。貧しき者に救いの手を差し伸べたアッシジの聖フランチェスコ、戦場で負傷者の看護をしたナイチンゲール、アウシュビッツで青年の身代わりになり刑死したコルベ神父たちの高貴な人生は、万人を感動させます。
また、わたしはマザー・テレサを心の底から尊敬しています。
「死を待つ人の家」に代表される、彼女の無償無限の献身は他に類を見ません。
「慈悲」を説く仏教徒もこれほどの無私の奉仕には思いも及ばず、多数のインド人は困苦のなかに放置され、絶望を心に抱きながら野垂れ死にするのみでした。
キリスト教に見られる「天使」と「悪魔」の2つ顔は、キリスト教徒のみならず、わたしたち人間すべてが持ち合わせているのかもしれません。
そんな善悪の二面性を持った人間が狂気に陥ったら、どうなるか。特に、人類社会の命運を握るような超大国の最高指導者が狂気に陥ったら、どうなるか。
そんな恐怖を、著者は本書『ジェノサイド』の中で見事に描いています。
熱心なクリスチャンであり、またアル中でもあるアメリカ大統領。
彼は、独善的な判断から人類を滅亡の危機に陥らせかねません。
そんな大統領に対するルーベンスの心の内が次のように書かれています。
「ルーベンスは、歴史の転換点に立ち会った気がした。人類社会の危うさが、この一瞬に凝縮されていると思った。政治的指導者に宿る、ほんの一瞬の狂気が、数億人の生命を危機に陥れてしまう。未来に起こり得る核戦争も、たった1人の狂った権力者によって決断され、実行されるのだろう」
最後に、本書のラストシーンで研人に残された「お前は人類の役に立ったか?」という亡き父親からのメッセージにもグッときました。
しかし、アマゾンなどで多くのレビュアーが指摘していますが、ストーリーの所々に散りばめられた著者の「歴史観」に明らかな偏りがあるように感じました。
特に、「関東大震災後の朝鮮人虐殺」や「南京大虐殺」やのくだりに関しては、都市伝説を鵜呑みにした観があり、著者は最新の研究成果をご存知ないのかと思いました。
たとえば、関東大震災の朝鮮人虐殺に関しては『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』工藤美代子著(産経新聞出版社)、南京大虐殺に関してなら『「南京事件」の探求――その実像を求めて』北村稔著(文春新書)などの名著があります。ぜひ、ご一読を。
また、研人の親戚が中国人や朝鮮人を毛嫌いする極端な差別主義者だったり、たった1人の日本人傭兵が使い捨てキャラとして描かれている点など、反日的な表現の数々が気になりました。 でも、物語としては非常にワクワクドキドキさせられるスケールの大きなエンターテインメントでした。イデオロギーの問題さえなければ、もっと完成度の高い作品になったでしょう。「玉に傷」の傑作というところでしょうか。
いつか、著者の他の作品も読んでみたいと思います。