No.0772 民俗学・人類学 | 神話・儀礼 『日本人の一年と一生』 石井研士著(春秋社)

2013.08.06

 『日本人の一年と一生』石井研士著(春秋社)を再読しました。
 本書は著者の『都市の年中行事』を下敷きとして書かれた本で、同じ版元から出版されています。「変わりゆく日本人の心性」というサブタイトルがついています。
帯には「年中行事と人生儀礼」と大書され、「お正月やお盆、クリスマスなどたくさんの行事や、七五三、成人式、結婚式など人生を彩るさまざまな儀礼のはざまで揺れる日本人のこころが浮かびあがる」と書かれています。
 また帯の裏には、「日本人のクリスマスにもちゃんとある宗教性、逆転した神前結婚式とチャペルウェディングの割合――正月、お盆、七夕など伝統的な年中行事から、クリスマス、バレンタインデーなど新しい行事、さらに、七五三、成人式、結婚式、お葬式など日本人の一生を彩る儀礼のあまり知られていない起源と意外な現実を考察し、日本人の精神性のありかを示す。」とあります。

 「クリスマスやバレンタインはどうして日本人の生活に定着したか。」と書かれ、帯の裏には「日本人の人生に大きな影響を与えてきた年中行事とは? 伝統的行事の変貌と衰退、新たな行事の創出など、柔軟かつダイナミックな社会考察を通し、日本人の変容と〈宗教〉の意味を問い直す意欲作」と書かれています。

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

まえがき―「生活の中の宗教」の変貌
第1章 年中行事
はじめに
 正月―「めでたさ」の現在
 節分―「鬼は外」の声は響かず
 バレンタインデーとホワイトデー―日本人が創ったキリスト教行事
 雛祭り―聖性のゆくえ
 母の日と父の日―核家族化の中で
 七夕―短冊に願いをこめて
 お盆―ご先祖様のゆくえ
 クリスマス―日本人のキリスト教度
 [コラム]旧暦と新暦
第2章 通過儀礼
 はじめに
 出産と誕生日―幸せにつつまれて魂は付着したのか
 七五三―家族の記念日
 成人式―私たちはいつ大人になれるのか
 結婚式―私たちの幸せの形
 厄年と年祝い―延びる寿命と盛んになる年祝い
 変容する死の儀礼―「死にがい」を取り戻すことはできるのか
 [コラム]数え年と満年齢
最終章 現代日本の儀礼文化再考
「参考文献」「あとがき」

 「まえがき」において、著者は次のように今日の儀礼文化の変容について述べています。

 「儀礼文化の持続と変容と書けば、儀礼文化は変容した部分と変化せずに持続している部分があるということになり、持続と変容が同等の力なり均衡を保っているかのように見える。あるいは、伝統儀礼が衰微しても、それは表現様式や形式が変化しただけであって、本質的には変化がないという議論さえもみることができる。本質的な変化が生じないとすれば、それは『持続』である。そしてこの『持続』は未来永劫変わらないことを意味しているにちがいない。
 しかしながら、こうした一般論を離れて現代の儀礼文化を見ると、現状を理解するためのキーワードが『持続』ではなく『変容』であることは一目瞭然である。戦後の、とくに高度経済成長期以降の儀礼文化の変容は、我々の実体験から自明であり、しかも根本的なものであることが承知できるからである。文化が『持続』していることは確かだとしても、戦後の儀礼文化を理解するためのキーワードは明らかに『変容』である」

 本書を読んでまず興味を引かれたのは、バレンタインデーの記述でした。バレンタインデーには3つのポイントがあります。

 第1に、女性が男性にプレゼントによって愛を告白する日であること。
 第2に、プレゼントは多様化しているが、チョコレートが中心であること。
 第3に、年中行事として定着し始めたのはオイルショック以後であること。

 これらの点を見る限りでは、バレンタインデーに宗教性はないように思えます。しかしながら、著者は次のように述べています。

 「バレンタインデーの中核は、やはり聖バレンチヌスにあるように思えてならない。バレンタインデーを『本来キリスト教の行事』と考えるところに秘密が隠されている。バレンタインデーでイメージされているキリスト教は、チャペル・ウェディングと同様に、個人と個人の愛情による(家と家ではない)結びつきである。なによりも2人の愛を成立させるためには厳粛な儀礼が必要である。バレンタインデーはまさしくそのための儀礼として選ばれたのではないだろうか。女性が、長い時間をかけて入念にチョコレートを選択し、願いが叶うようにメッセージを書き込む姿は、神社に絵馬を奉納する姿を連想させる、といったら言い過ぎだろうか。こうした雰囲気を察知してデパートが、神職を呼んで入魂式などの縁結びのお祓いをさせるのはけっしてゆえなきことではない。願いが込められて男性に差し出されるチョコレートはたんなるチョコレートではない。それは『聖なるチョコレート』であって、聖バレンタインの遺物のように聖性を帯びている」

 『都市の年中行事』では、現代日本における年中行事の意味を考える上で「聖性」がキーワードとなっていました。本書でもそれを踏襲しているわけですが、さらに著者は次のように述べます。

 「バレンタインデーの隆盛は、オイルショック以降に見られた女性の占いや超能力への関心の増加と軌を一にするもののように思えてならない。女性誌のバレンタイン特集には必ずといっていいほど占いやおまじないが掲載されている。バレンタインデーは、消費社会に占める女性の位置の上昇を背景に、女性の持つ呪術性を中核として成立した年中行事と考えることはできないだろうか」

 なるほど、バレンタインデーが日本社会に定着していった根底に女性の持つ呪術性があったというのは納得できますね。

 バレンタインデーは新しい年中行事ですが、伝統的な年中行事はどのように変容しているのでしょうか。著者は「七夕」を例にあげて、銀座・有楽町が「ラブ・スターズ・デー」、新宿が「サマー・ラバーズ・デー」、池袋が「スター・マジック・デー」と、デパート業界などが消費者に購買意欲を起こさせるように言い方を変えていることを紹介します。こんな言い方をされては、本来の季節感は失われ、たんなるお中元商戦のひとこま、若者への販売拡大のための機会と化したように思えます。しかし、著者は次のように述べます。

 「もっとも、自然による生業への制約から大きく解放され、また自然との日常生活での関係が薄れた都市においては、どのような年中行事も、程度の差こそあれ、生産過程を基盤にした季節の節目とはなりにくい。毎年繰り返される年中行事が1年間の生産過程の節目に行われる社会的な『ハレ』の行事であるとすれば、これら行事は消費社会の中でいっそうの過剰消費によって『ハレ』を作りだし、人々に節目をもたらそうとしている。だとすれば、その場合の『社会の節目』が、全国規模で商戦を展開する企業によって作り出されるとしてもやむを得ないことなのかもしれない。そして生産の実感を失った都市民は、情報を頼りに、この世の幸福を求めて、消費に走ることになるのだろうか。消費が社会の基本であり続ける限り、新しい年中行事が都市民に一時の『幸せ』をもたらしてくれるかどうかが、行事定着の鍵であるように思われる」

 また、伝統的な年中行事といえば「お盆」を忘れることはできませんが、これも大きく変容しています。何よりも「祖霊の不在」すなわち「死者の不在」という一大変化が見られます。それを象徴するのが、何を隠そう「盆踊り」だというのです。著者は、次のように述べます。

 「盆踊りは現在でも団地などで賑やかに行われているが、これも従来の盆踊りとは意味を異にするだろう。山梨県の山村、丹波山村では、盆踊りは村の寺の狭い境内で行われる。丹波山は土葬なので、近親者が埋葬されているすぐ脇で、少し足を踏み外せば死者を踏みつけてしまいそうな近さで、盆踊りは行われる」

 『民俗学辞典』には「盆に招かれてくる精霊を慰め、またこれを送る踊」と書かれていますが、薄明りの下で行われる盆踊りはまさにその通りでした。続けて、盆踊りについて著者は次のように述べます。

 「都会での団地やホテルでの盆踊りがこうした盆踊りと決定的に異なる点は、死者の不在である。池袋にあるサンシャインシティでは毎年賑やかに盆踊りが行われる。あるいは高輪プリンスホテルでもホテル前の駐車上に櫓が組まれ盆踊りが行われている。しかしながら、こうした盆踊りには死者がいない。我々は死者を置き去りにして踊っていることになる。盆踊りの持つ娯楽性だけが肥大化し、先祖の供養的側面は脱落していったことになる」

 第二章「通過儀礼」の「はじめに」では、儀礼文化の衰弱と儀礼の未来について述べられており、著者は次のように書いています。

 「現代における人生のあり方は、多様性という言葉によって特徴づけられるのでないだろうか。たとえば、結婚することを選択しない女性や男性が存在する。あるいは、親にならないことを選択する夫婦が存在する。散骨や個人墓は、たんなる物珍しさから確実な傾向へと移っている。人生に関する多様性は、高度経済成長期以前と以後では格段と異なっている。儀礼を行う母体が、集団を基盤とするものから個人や、狭い個人の集団としての家族へと移行することによって、儀礼は、実施しないことも含めて多様性を示すことになったのである」

 ここで「多様性」というキーワードが出てきましたが、著者はさらに述べます。

 「この多様性は個人や家族が積極的に自らのライフスタイルを選択し構築するという積極的意味合いだけでなく、行動様式や生活様式の規範の崩壊と不一致という消極的な意味でも定義することができる。つまり、社会的儀礼でなくなった儀礼は強制力を持たず、個人は意味づけられることなく放置されるのである。子供から大人への儀礼は区切り目としての意味を喪失してしまった。行政の行う成人式は、大人であることの自覚を声高に叫ぶが、試練も社会的承認も存在しない儀礼は、青年を真の大人へと変容させる力を持たない」

 「社会的儀礼でなくなった儀礼は強制力を持たず、個人は意味づけられることなく放置される」という言葉は、至言ですね。また著者は、「伝統的儀礼の消滅は、たんなる儀礼の消滅を意味しない。儀礼は世界観を確認するものであり、儀礼の消滅はそうした伝統的な世界観の消滅へとつながる事実である」とも述べています。この「儀礼は世界を確認するもの」という定義には、心から共感しました。この定義そのものが明快かつ深遠な思想となっています。

 著者は、「誕生祝い」についても次のように述べています。

 「伝統的な意味での誕生祝いは、個人の誕生を祝う通過儀礼のひとつであると同時に地域社会への加入儀礼の意味を持っていた。他方現在の誕生祝いは、個人を中心とした家族や友人などの人間関係を確認するための重要な機会のひとつであり、いっそうの消費によるハレの時間となっているようだ」

 そして「結婚式」については、次のように述べています。

 「現在私たちが結婚式と呼ぶものは、かつて祝言、婚礼、嫁入りと呼ばれていた。その儀礼の形式や内容は現在のものとは大きく異なっている。これらをより包括的な言葉で表せば『婚姻』ということになる。『婚姻』とは夫婦となることであり、古代から現代まで続く社会制度である」

 著者は「結婚式の始まり」についても言及し、次のように述べます。

 「婿入り婚であれ嫁入り婚であれ、婚姻の式に宗教者が関わることはなかった。言い換えれば、現在のような宗教者の関わる挙式と披露宴の二階建ての儀礼になっていなかったのである。宗教者が関与する結婚式が成立するのは、明治になってからのことである」

 では、なぜ宗教者が関与する結婚式が生まれたのでしょうか。著者は、「幸せのゆくえ」で次のように述べています。

 「結婚式で注目すべきことは、戦後の価値観やライフスタイルの変化を考えたときに、脱儀礼化が進行してきたと考えられるにもかかわらず、結婚式は逆に儀式化か進んだ点である。披露宴の前に挙式が行われることが当たり前になった。ある時は神前式がまた別の時にはチャペルウェディングが望まれたわけで、宗教者の関与する儀礼が望まれたのである」

 本書の最後において、著者は「魂のゆくえ」として次のようにまとめています。

 「年中行事から生育や生命力の更新が失われていき、通過儀礼から魂の成長や再生が消えていったときに、私たち日本人の魂はどこへいってしまうのだろうか。めでたくなくなった正月やかろうじて残ったお盆の死者供養、愛情を確認するための装置としてのクリスマス、バレンタイン、そしてチャペルウェディング。個人と社会は、自らの意味を求めてあてどない自分探しの旅の途中である」

 本書を読んで、わたしは冠婚葬祭というものが「個人と社会に意味を与える」機能を持っていることに気づき、感銘を受けました。「個人と社会に意味を与える」なんて、まさにドラッカーの世界ではありませんか。社会を平和にするために、そして個人を幸せにするために、儀礼というものは存在しているのです。年中行事と通過儀礼の持つ真の意味を教えてくれる本書は、すべての冠婚葬祭人にとって必読であると言えるでしょう。

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