- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
No.0452 宗教・精神世界 『祈る力』 対本宗訓著(角川oneテーマ21)
2011.09.21
『祈る力』対本宗訓著(角川oneテーマ21)を読みました。
東日本大震災以降、<祈り>がキーワードのようになっています。
<祈り>は医療の現場でもそのパワーが注目されており、<癒し>とつながっているとされます。本書は、その<祈り>のメカニズムについて見ていきます。
人が生み出す〈癒し〉のエネルギー
著者は、京都嵯峨天龍寺僧堂で修行僧として過ごし、ヨーロッパなどの諸外国で禅指導に携わっています。1993年、臨済宗佛通寺派管長に就任。
2000年、帝京大学医学部に入学して、佛通寺派管長を辞任。
同大学医学部を卒業後は、心や魂に寄り添う僧侶と、身体を科学的視点で診る医師を兼ねた「僧医」として活躍中です。
本書の目次は、以下のような構成になっています。
序章 祈るだけでは何も解決しないのか
第一章 祈る力
第二章 <祈り>のメディテーション
第三章 癒す力
第四章 <祈り>はヒーリングである
第五章 <祈り>は人を癒し地球を癒す
「あとがき」
「一日一回、毎正時の祈りを」
「原発危機への緊急メッセージ」
現在はイギリスに在住している著者は、渡英の直前、日本で「臨床僧の会」を組織しました。生老病死が集約した医療や福祉の現場に立つ僧侶の会ですが、「臨床僧」について著者は次のように述べています。
「『臨床僧』は作務僧です。作務とは一心に肉体労働に打ち込む禅の修行をいいます。とくに医療や福祉の現場では、額に汗して身体を動かし、手足を労して患者さんに奉仕する作務僧の活躍が期待されます。患者さんやご家族、お年寄りや身体の不自由な方々の傍らに寄り添い、涙と笑顔を分かち合う生老病死の伴走者となることを目指しています。いまや説く宗教の時代は終わり、まさに身をもって行動する宗教の時代です。僧侶として掲げている『衆生済度』『為人度生』『利他の行』などの言葉が本物であるならば、実際の行動で示していきましょう。―このような私の呼びかけは仏教界に徐々に浸透していきつつありました」
宗教者として発信した著者のメッセージの核心となっているものは<祈り>だそうです。そして祈りこそが、「身体を使わずに行動する仏教を示してみよ」という公案に対する著者の見解でもあったとか。著者は「現代はある意味で、祈りを失った時代なのかもしれません」と述べ、続けて次のように書いています。
「科学技術の飛躍的な発展で、昔なら祈ることしかできなかったさまざまなことが、人間の力によってかなりのところまで解決可能になりました。病気の治療などがその最たるものといえるでしょう。『自然を征服する』という言葉が端的に示しているように、人間の外なる自然も、また人間の内なる自然も同様に、私たち人間の力であるていど意のままに操作し改変できるようになったのです。このことが、今日の祈りなき時代を招いてしまったのかもしれません」
現代は、祈りを失った時代であるという。では、その<祈り>とは何でしょうか。著者によれば、<祈り>は「思い」だそうです。わたしたちが何かを願って「思い」を向けるところに<祈り>があるというのです。著者は述べます。
「古来、私たちの祖先はさまざまなかたちで祈りをささげてきました。飢饉や戦の危機に直面して祈り、あるいは長雨や旱魃の困難に際して祈ったことでしょう。また、豊作や大漁に感謝の祈りをささげたこともあったでしょう。越年の祈りなど、現在でも世界中の国々で広くひとしく行われているものもあります。そのほか、個人的にささげられる祈りについては挙げて詳しく論じるまでもありません。実に人間は祈る動物です。それほどまでに<祈り>とは人類に普遍的な営みなのですが、そのいっぽうで、今は<祈り>を忘れた時代であるとも言われます。一般の人たちはおろか、宗教者までもが<祈り>に信を置けなくなってしまっているのではないかというのです」
多くの人々は<祈り>だけでは、現実は何も変わらないと思っています。ただ祈るだけではだめで、実際に行動しなければならないと考えているのです。
<祈り>は基本的に無力というわけですが、それは「思い」が無力であると考えることに他ならないとして、著者は次のように述べます。
「『思い』は決して無力ではありません。『思い』は空虚なものではありませんし、これから述べるように、むしろ『思い』には確固としたリアリティーさえあります。
『思い』は力をもちます。微細で幽かな力から強靭で洪大な力にまで、『思い』はさまざまな力として発現します。『思い』は影響力でもありますが、より本質的には創造力です。つまり、『思い』はあらゆるものを生み出す源泉であり、自己実現の主体という意味で、私たちそのものでもあるのです」
著者いわく、「思い」は「思い」を生み、言葉を生み、さらには行動を決定づけます。わたしたちはまず「思い」を持ち、それに基づいて行動するわけで、「思い」として描かれない行動はありません。描かれた「思い」は何らかの形で表出されることを願っているというのです。
<祈り>に似た言葉として、<願い>があります。著者は、この両者の違いについて次のように述べています。
「<祈り>とは本来、神などの超越者に向けて念じるものでした。つまり、特定の”聖なる”崇拝対象に「思い」をささげることが祈りです。その”聖なる”対象とは、神などの絶対者であったり、仏や菩薩などの救済者であったり、あるいは歴史上の聖者や教祖であったりするかもしれません。また、太陽や山などの自然物がその対象になることも珍しくはありません。つまり、人知を超えた畏敬すべき存在に額ずき、人力を超えた畏怖すべき現象に打たれるところに、自ずからなる<祈り>という行為が生まれてくるのです。そしてその<祈り>には、超越者を前にした自己の有限さと無力さの自覚があると言われます。いっぽうで<願い>があります。これはどちらかというと個人的な望みを表出したものです。したがって必ずしも神様のような聖なる超越者の介在はありません。
実はこれら<祈り>も<願い>も、そこにはたらいているのは私たちの「思い」です。「思い」の力をどうはたらかせているかの違いで<祈り>と<願い>が分かれてきます。簡単に言うならば、<祈り>は「思い」が神仏をとおしてより普遍的なものに向いていますし、<願い>は「思い」がシンボルをとおして個人的な願いに向いています」
さらに著者は、<祈り>と<願い>について次のように述べます。
「ささげる<祈り>も、かける<願い>も、どちらも大切な人間の営みです。どちらに優劣があるわけでもありません。その時その時にしたがって、その状況その状況に応じて、私たちは<祈り>をささげたり<願い>をかけたりします。
ただ、<祈り>は個人を超えた「思い」がはたらきます。つまり多数の人々が共有できる普遍性があります。それに対して<願い>はどちらかというと個人的な「思い」のはたらきとなります。大まかではありますが、<祈り>は神に通じ、<願い>は人に通じると言い換えていいかもしれません」
わたしは、多くの著書で「夢」と「志」についての違いを説いています。よく混同されますが、夢と志は違います。「自分が幸せになりたい」というのが夢であり、「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志である。すなわち、夢は私、志は公に通じているのです。本書『祈る力』で説かれる<願い>と<祈り>の関係は、まさに夢と志の関係そのものであると感じました。
本書では、<祈り>はヒーリングであるという考え方が示されています。ヒーリングにはスピリチュアル・ヒーリング、レイキ・ヒーリング、セラピューティック・タッチなどがあります。患者の身体に手をかざしたり、身体の一部に触れたりして行うハンド・ヒーリングですが、「古今東西、いずれの民族や文化においても共通して見られますので、きわめて原初的な医療行為に発するものといえます」と著者は述べています。
わが社では、もう20年以上も前から気功を朝礼に取り入れています。この気功は「氣」というものの存在を前提にしていますが、これも一種のヒーリングといえます。著者は、次のように述べています。
「補完代替医療の多くはあるていど共通した身体観や生命観を基盤にして成り立っています。生命エネルギーにしてもサトル・エネルギーにしても、中国伝統医学では『氣』、インド伝統医学では『プラーナ』、ホメオパシーでは『ヴァイタル・フォース』、メスメルは『動物磁気』などと呼称は異なりますが、大まかなところでは同じものを指していると考えられます。これらはいずれも体験的に把握された生命エネルギーであって、思想体系としては後から整理されたものに他なりません」
本書を読んでいて興味深く思ったのは、著者が<祈り>は遠隔ヒーリングであるととらえている点です。著者は、次のように述べています。
「<祈り>は言葉で行うこともあればイメージやヴィジュアライゼーションを使う場合もあります。第1章で述べたように、言葉には「思い」の裏付けがあります。イメージや視覚化も「思い」の作用です。もし<祈り>が「思い」という思念のエネルギーに他ならないとすると、<祈り>がヒーリングに結びつくことは容易に頷けるのではないでしょうか。
実際、<祈り>とヒーリングとは時にほぼ同義と考えてよいでしょう。
<祈り>のヒーリング、と言えばわかりやすくなります。
まさに<祈り>はヒーリングであり、ヒーリングは<祈り>です」
著者によれば、現代のヒーリングは、神などの超越者が介入してくるものではないそうです。超越者の存在は必ずしも必要ではなく、たとえば宇宙の理法や生命エネルギーの根源として認識されうるというのです。著者は、現代のヒーリングについて次のように述べます。
「宇宙意識、無償の愛、高次の自己、内なる自己など、さまざまな表現がとられますが、ヒーラーは常に受容的態度で、これらの”より高きもの”に向けて心がオープンになっています。つまり、神様に祈りをささげて神の御業を期待することと、ヒーリングで宇宙に遍満する高次の生命エネルギーを導入することは、私はほぼ同義であると受け止めています。そしてそこにこそ、祈る力と癒す力の接点があるのではないでしょうか」
本書の「あとがき」で、著者は次のように<祈り>についての考えをまとめています。
「<祈り>は万物を癒すエネルギーです。しかも愛と同様、これほど強力で、これほどクリーンなエネルギーは他にありません。生命体にも自然や地球そのものにも、自己回復力や自己調整能力として高次の治癒システムがそなわっていると考えられます。とすれば、それを誘発し賦活する方法も与えられているはずです。
そこで医療ヒーリングを手がかりに、<祈り>が治癒システムにはたらきかけることにより、医学的治癒という現実的な力を発揮することを私たちは驚きをもって知りました。
<祈る力>と<癒す力>をなかだちするものはメディテーションです。世界の多くの人々がともに<祈り>のメディテーションを実践することで、この祈りなき時代に真の<祈り>と霊性を回復していくことが可能であると信じます」
さらに、巻末の「原発危機への緊急メッセージ」の中でも、<祈り>の重要性が次のように説かれています。
「祈りは無力だと思えるかもしれません。しかし祈りが無力なのではありません。祈ることを忘れた心が無力なのです。祈るだけでは何も解決しないと思えるかもしれません。そうではなくて祈りを欠いた行動が何の解決ももたらせないのです。
祈りは人間の篤く真摯な営みです。祈りは深き願いであり、無雑の直感から立ち現われてくる明確なビジョンです。思念のエネルギーであり、すべての言葉と行動を生み出す源泉です。祈りによってこそ言葉や行動に不屈の力と霊性の輝きがそなわることを、先人たちにおいて私たちはすでに実証ずみではないでしょうか。不調和の連鎖を繰り返さないためには、研ぎ澄まされた祈りの輪を世界に広げ、私たちの内なる声にしたがって力強く行動することが大切です」
果たして、<祈り>は未曾有の国難を救うことはできるのか。東日本大震災後の「緊急出版」として急いで書かれた感もありますが、<祈り>に対する著者の深い思い入れはひしひしと感じました。
いま、原子力に代わる新しいエネルギーの必要が叫ばれています。太陽光エネルギーなどがその最有力候補なわけですが、わたしは人間の心のエネルギーというものも忘れてはならないと思います。
そして、<祈り>とは心のエネルギーに他ならないのではないでしょうか。