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2010.03.12
本書『先祖の話』は、敗戦の色濃い昭和20年春に書かれました。柳田は、連日の空襲警報を聞きながら、戦死した多くの若者の魂の行方を想って、本書を書いたのです。日本民俗学の父である柳田の祖先観の到達点とされています。
先祖とは何か
現在の日本で行われている葬式は、ほとんどが仏式葬儀です。しかし、「仏式」という言葉から100%の仏教儀礼かというと、そうではありません。 清めの塩のルーツは神道であり、位牌のルーツは儒教です。
このように、仏式葬儀の中には、実は神道も儒教も入り込んでいるのです。 なお、日本人の先祖供養の代名詞ともなっている「お盆」のルーツもじつは仏教ではありません。日本固有の「先祖祭り」がもとになっており、そのルーツは神道なのです。
日本人の「こころ」は、なんといっても神道、仏教、儒教の三本柱から成り立っています。この三つの宗教は、かの聖徳太子の計らいによって今日まで平和的に共存してきました。
わたしは、さらに神道・仏教・儒教を貫く共通項があると思います。それは、「先祖崇拝」です。
聖徳太子も「先祖崇拝」という共通項があったからこそ、三つの宗教を平和的に共存させることができたのかもしれません。では、「先祖」とは何か。
結論から言いますと、なんと「先祖」とは「子ども」です! 驚かれた方も多いかと思いますが、それはこういうことです。日本人は世界的に見ても子どもを大切にする民族だそうです。そして、子どもを大切にする心は先祖を大切にする心とつながっています。
柳田國男は『先祖の話』の中で、輪廻転生の思想が入ってくる以前の日本にも生まれ変わりの思想があったと説いていますが、その特色を3つあげています。
1.日本の生まれ変わりは仏教が説くような六道輪廻ではなく、あくまで人間から人間への生まれ変わりであること。
2.魂が若返るためにこの世に生まれ変わって働くという、魂を若くする思想があること。
3.生まれ変わる場合は、必ず同じ氏族か血筋の子孫に生まれ変わるということ。
柳田は「祖父が孫に生まれてくるということが通則であった時代もあった」と述べ、そういった時代の名残として、家の主人の通称を一代おきに同じにする風習があることも指摘しています。
柳田の先祖論について、宗教哲学者の鎌田東二氏は著書『翁童論』(新曜社)で次のように述べています。
「この柳田のいう『祖父が孫に生まれてくる』という思想は、いいかえると、子どもこそが先祖であるという考え方にほかならない。 『七歳までは神の内』という日本人の子ども観は、童こそが翁を魂の面影として宿しているという、日本人の人間観や死生観を表わしているのではなかろうか。柳田國男は、日本人の子どもを大切にするという感覚の根底には、遠い先祖の霊が子どもの中に立ち返って宿っているという考え方があったのではないかと推測しているが、注目すべき見解であろう。」
子どもこそが先祖である! この驚くべき発想をかつての日本人は常識として持っていたという事実そのものが驚きです。しかし、本当は驚くことなど何もないのかもしれません。
自分自身が死んだことを想像してみたとき、生まれ変わることができるなら、そして新しい人生を自分で選ぶことができるなら、見ず知らずの赤の他人を親として選ぶよりも、愛すべきわが子孫の子として再生したいと思う。これは当たり前の人情というものではないでしょうか。
いま、わたしが死んだとしたら、二人いる娘のどちらかの胎内に宿る確率は非常に高いように思います。またしても、ものすごく有難い気分になってきました。