No.0649 死生観 | 民俗学・人類学 『災害と妖怪』 畑中章宏著(亜紀書房)

2012.08.10

『災害と妖怪』畑中章宏著(亜紀書房)を読みました。

著者は、1962年生れの著述家・編集者です。中沢新一氏が所長を務める多摩大学芸術人類学研究所の特別研究員で、日本大学芸術学部写真学科の講師だそうです。

本書には、「柳田国男と歩く日本の天変地異」というサブタイトルがついています。また帯には、「河童や天狗は、私たちのうしろめたさの影なのか?」と書かれています。さらに帯の裏には、「地震、飢饉、干ばつ、洪水などの災害の記憶は、河童、座敷童、天狗、海坊主、大鯰、ダイダラ坊・・・・・おどろおどろしい妖怪に仮託され、人々の間に受け継がれてきた。自然への畏怖、大切な人を失った悲しみ、自分だけ生き残ってしまったうしろめたさ・・・・・が妖怪たちを生んでいるのか」と書かれています。カバー折り返しには、次のような内容紹介があります。

「柳田国男の『遠野物語』『妖怪談義』『山の人生』を繙くと、日本列島は、大地震だけでなく、飢饉、鉄砲水、干ばつなど、繰り返し災害に見舞われている。そこかしこで起こる災害の記憶は、河童、座敷童、天狗、海坊主、大鯰、ダイダラ坊・・・・・おどろおどろしい妖怪に仮託され、人々の間に受け継がれてきたのだ。遠野、志木、柳田の生まれ故郷の辻川(兵庫)、東京の代田などをたどり直し、各地に残る妖怪の足音を取材しながら、ほそぼそと残る『災害伝承』を明らかにする」

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」
一章:河童は死と深く結びつくものであるという事
二章:天狗が悪魔を祓うといまも信じられている事
三章:洪水は恐るべきものでありすべての始まりでもある事
四章:鯰や狼が江戸の世にもてはやされたという事
五章:一つ目の巨人が跋扈し鹿や馬が生贄にされた事
「あとがき」

「はじめに」の冒頭では、柳田国男が書いた『遠野物語』(明治43年・1910年)の序文が「詩情溢れる遠野郷の描写と来るべき民俗学への布石を示す主張がないまぜとなった魅力的な文章」と表現されています。
また、この序文の中にはとても大切な言葉がちりばめられていると述べられています。
それは「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」という有名な一節であり、「これは目前の出来事なり」「要するにこの書は現在の事実なり」という言葉です。これらの言葉を受けて、著者は次のように述べています。

『遠野物語』一巻を、数かずの妖怪が登場する怪異譚集としてみた場合、『平地人を戦慄せしめよ』と呼びかけられているのは、河童や天狗、山男に山女、そしてザシキワラシといった妖怪や小さな神々であるだろう。そして『目前の出来事』『現実の事実』という言葉に着目するとき、こういった怪異はいつまでも実在したかに思いをめぐらさずにおれないのである」

2011年3月11日に発生した大地震と大津波により、東北地方には甚大な被害がもたらされ、大量の犠牲者が生まれました。その中で、岩手県の中央に位置する遠野市は、内陸と沿岸部を結ぶ地の利から、災害に対する後方支援の拠点として機能したそうです。著者は、「復興に携わる多くの人々を受け入れることができたのは、遠野が『遠野物語』で知られる観光地として、宿泊施設が充実していたからにほかならない。柳田国男がわずか350部あまりを自費出版した本が、101年後に予想もしなかったであろう機能を果たしたのである」と書いています。

日本民俗学の幕を開けたとされる『遠野物語』について、わたしは、これまでにも『水木しげるの遠野物語』『幽霊記』『遠野物語と怪談の時代』『遠野物語と源氏物語』などの書評を書いてきました。

『遠野物語』といえば、震災以降、第99話が注目を浴びています。遠野出身の北川福二という人物が、三陸沿岸の田の浜に婿入りしましたが、そこで明治三陸大津波(明治29年・1896年)に遭います。福二は大津波で妻と子を亡くし、残された2人の子どもと小屋を建てて住んでいましたが、ある夜、浜辺で妻の幽霊に遭遇するという話です。
「サロンの達人」こと佐藤修さんが、ご自身のブログで「福二の願望」という記事で、この99話について書かれています。以下に、『遠野物語』の原文を引用いたします。

「土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字火石に在り。代々の山臥にて祖父は正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為に尽くしたる人なり。清の弟に福二と云ふ人は海岸の田の浜へ婿へ行きたるが、先年の大津波に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。
夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたる。
男はと見れば海波の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてあると云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。
追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。」
『遠野物語』第99話より)

福二と同じく、津波で亡くなった犠牲者の幽霊を目撃したという報告が被災地で相次いでいます。2012年1月18日付の「産経新聞」には、「水たまりに目玉、枕元で『遺体見つけて・・・』『幽霊見える』悩む被害者」という見出しの記事が掲載されました。それによれば、「お化けや幽霊が見える」という感覚が、東日本大震災の被災者を悩ませているというのです。震災で多くの死に直面した被災者にとって、幽霊の出現は「こころの傷」の表れだという見方もあります。

行政でも対応できる部署はありませんし、親族にも相談しづらいため、宗教界が教派を超えて取り組んでいるという内容でした。「水たまりに目玉がたくさん見えた」「海を人が歩いていた」という被災者の目撃談も絶えません。遺体の見つかっていない家族が「見つけてくれ。埋葬してくれ」と枕元に現れたという報告もありました。

宮城県栗原市の曹洞宗寺院の住職は、お化けの悩みに関する講話の際に、「多くの人が亡くなり、幽霊を見るのは当然。怖がらないでください」と語ったそうです。さらに住職は「幽霊について悩むことは、亡くした家族のことから少し離れて生と死を考えるきっかけにもなる。そこから生の世界で前に進む姿勢を示せるようになることにつながればいい」と語ったとか。

著者は、「はじめに」の最後に、柳田の『妖怪談義』の序文の一節を紹介しています。

「化け物の話を一つ、できるだけきまじめにまた存分にしてみたい。けだし我々の文化閲歴のうちで、これが最も閑却されたる部面であり、従ってある民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。私の目的はこれによって、通常の人生観、わけても信仰の推移を窺い知るにあった」

これにならって著者も、本書において、災害にまつわる妖怪や怪異現象について「できるだけきまじめに」考えていきます。

本書での著者の主張は、「妖怪は私たちのうしろめたさの影」であるというものです。
柳田国男といえば日本民俗学の祖ですが、彼の『遠野物語』『妖怪談義』『山の人生』などを繙くと、日本列島は、大地震だけでなく、飢饉、鉄砲水、旱魃など、始終、災害に見舞われました。そして、河童、座敷童、天狗、海坊主、大鯰、ダイダラ坊といった妖怪たちは、災害の前触れ、あるいは警告を鳴らす存在として、常に日本人の傍らにいたのです。 安政の大地震をはじめ、毎年そこかしこで起こる災害の記録は、おどろおどろしい妖怪に仮託され、人々の間に受け継がれてきたのでした。

特に、河童のイメージは津波や洪水などでの水死者と重ね合わされました。「水」がもたらす災いは現実に、いまも豪雨などであります。地方によっては水害の要因を河童に求めるために、その部分だけが強調されて伝わってきてしまったというのです。

著者は、遠野、志木、生まれ故郷の辻川(兵庫)、東京の代田などをたどり直し、各地に残る祭りや風習などを取材します。そこで、細々と残る「災害伝承」、民俗的叡智を明らかにしていくのでした。妖怪たちの背後から、自然への畏怖、親しい人の喪失、生き残ってしまったうしろめたさ、言葉にならない悲しみが漂ってきます。

本書には、わたしが知らなかった多くのことが書かれていました。たとえば、柳田国男の後継者の1人である民俗学者の早川孝太郎が「海坊主」を目撃していていたこと。早川が見た「海坊主」は、水死者の幽霊ともUMA(未確認生物)とも推測されますが、いずれにしても驚きました。また、遠野地方が何度も飢饉に遭っていたこと、関東地方が巨人伝説の宝庫であったことも初めて知りました。「巨人伝説」について、著者は次のように書いています。

「『巨人伝説』は世界各地に分布し、『遠い過去の存在』は人並みはずれた体で、標準を超える姿と想像するとともに、異常な存在として畏怖や蔑視の対象にしてきた。そして、世界の秩序を揺るがしたり世界を創造するといったように、この世の成り立ちにかかわる役割を果たすことが多いとされる。日本でも鬼・天狗・英雄などの異人や神、またはその使者が巨人とされることがあり、池や湖沼を巨人の足跡や腰をかけた跡、山や島をその持ち物や排泄物などと説く例は少なくない。地形創出伝承の主人公は、ダイダラ坊や大人のほかに、鬼八、金八、弥五郎などと呼ばれるものもいた。ダイダラという名前の系統では、ダイダラ坊、ダイダラ法師、ダイダラボッチ、デエラボッチ、ダイラ坊、大太法師、大道法師、デーデーボなど各地でさまざまな呼び名がある」

なんとなく漫画『進撃の巨人』を思い出してしまいますが、ダイダラボッチとかデエラボッチという名前を聞いて、アニメ映画「もののけ姫」に登場する「シシ神」の別名である「ディダラボッチ」を思い浮かべる人もいることでしょう。著者は、このシシ神について次のように書いています。

「宮崎駿によるスタジオジブリの長篇アニメーション『もののけ姫』の舞台は、室町時代の日本とされる。この物語で、山林を開拓して鉄をつくるタタラの民と対立し、森を守ろうとする『もののけ』の長は『シシ神』、あるいは『ディダラボッチ』と呼ばれる巨大な森の神である。制作ノートによると、このシシ神=ディダラボッチは、『生命の授与と奪取を行う神。新月に生まれ、月の満ち欠けと共に誕生と死を繰り返す。その首に不老不死の力があると信じられている。夜の姿はディダラボッチで、独特の模様と半透明な体を持つ。体内で青い光を放ちながら、夜の森を徘徊する』ものだとされる」

本書の終わりには、柳田の『一目小僧その他』の最後に置かれた「熊谷弥左衛門の話」が紹介されます。各地に点在する稲荷の小祠の由来について考察した文章ですが、この一篇は「そこでたった一言だけ、私の結論を申し上げます。曰く、およそこ世の中に、『人』ほど不思議なものはない」という言葉で締めくくられています。この言葉を受けて、著者は次のように述べます。

「人は大きな苦難も小さな不思議もほかの人に伝えようとして、あまりうまくいかなかったかもしれない。でもそういう営みを丹念に見ていくと、なにか未来への手がかりが得られるのではないか。柳田国男の民俗学は、そんな野心に満ちたものだったはずだ。不思議な存在である『人』がいるかぎり、災害と妖怪は生み出されるのであり、それらとの葛藤をささやかな文化にしていくのもまた『人』なのであった」

本書は、現在構想中の『唯葬論』(仮題)にインスピレーションを与えてくれました。
ただ、「柳田国男」という人物はいませんので、表記を「柳田國男」と正確にしてほしかったです。本書を読んでいる間、そのことがずっと気になって仕方がありませんでした。

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