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No.0637 宗教・精神世界 『傷ついた日本人へ』 ダライ・ラマ14世著(新潮新書)
2012.07.20
『傷ついた日本人へ』ダライ・ラマ14世著(新潮新書)を読みました。
著者は、チベット仏教の最高指導者にして宗教界における最重要人物の1人ですね。1989年には、世界平和への活動などが評価され、ノーベル平和賞を受賞しています。著者の本は多いですが、本書は「日本の地で・日本人のために」語られています。
帯には、祈る著者の写真とともに「今こそ日本は『次の段階へ』―震災後の日本で語られた渾身のメッセージ」と書かれています。また、表紙カバーの折り返しには、次のような内容紹介があります。
「東日本大震災後、ダライ・ラマ14世は来日を強く望み、霊山・高野山や東北の被災地などで多くの日本人に語りかけた。困難や逆境を克服するにはどうすべきか、豊かになっても幸福を感じないのはなぜか、孤独や嫉妬から抜け出す方法はあるのか、あの震災は私たちに何を問いかけているのか―。日本人が「次の段階」へ移行するために、自らも苦難と激動の人生を歩んできた法王が語る渾身のメッセージ」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「本書のなりたち」
第一章:自分の人生を見定めるために
第二章:本当の幸せとはなにか
第三章:私はどこに存在しているか
第四章:苦しみや悲しみに負けそうになったら
第五章:心を鍛えるのはどうしたらいいか
第六章:数式では測れない心というもの
第七章:この世で起こることには必ず理由がある
「ダライ・ラマ法王を迎えて」
「チベットと日本の絆」
2011年10月29日、著者のダライ・ラマ14世は日本を訪れました。高野山大学創立125周年の記念講演を行うため、そして東日本大震災の被災地で犠牲者の慰霊と法話を行うためです。第一章「自分の人生を見定めるために」で、著者はまず最初に、なぜ自分が仏教の教えを伝えるのか、その理由を語ります。そして、仏教のことを知らずに仏教徒になる日本人が多いとして、次のように述べます。
「仏教がどのような教えかを知ることで、信仰するべきかどうか、初めて自分で考えることができます。その結果、仏教を選んだ人こそ真の仏教徒といえるでしょう。
仏教の教えがどうして自分に必要なのか。信仰によってどのような人生を歩みたいのか。そして何を実現したいのか。
宗教を学ぶことは、自分の人生を見定めることなのです。
日本のみなさんの多くは、せっかくご両親や先祖から仏教を受け継いでいるのですから、一度きちんと仏教を学び、考えてみてはどうでしょうか。仏教国という環境から言っても、日本人の価値観に合うことが多いでしょう」
また、著者はけっして仏教だけが唯一無比の宗教ではあるとは言いません。次のように、「宗教多元主義」とも受け取れる発言をしています。
「世界にはたくさんの宗教があり、それぞれ信じている神様も教義もバラバラです。時には互いが対立し、いがみ合ったりもしています。
でもどの宗教の根本にも『幸せになりたい』『よく生きたい』『苦しみから逃れたい』という共通の願いがあります。この願いをどうやって実現させるか、それを説くのが宗教の本質的な役割であり存在意義なのです。ただ、ひとくちに幸せや平和といっても、国や文化、両親や家族、またその人自身の性格や関心によって様々です。人によって幸福の定義が違う以上、それを説く宗教も色々な種類があって当然です。
そしてそれぞれが自分に最もあった宗教を選ぶことが大切です」
この著者の考え方は、わたしが求めている「心学」の考えにも通じます。石田梅岩の心学では神道・仏教・儒教のそれぞれの良い部分を取り入れた「人間主義」をもって、日本の商人哲学の基本を作りました。
「分けていく 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という心学の歌があります。「山に登る麓の道は多いけれど、登ってみれば峰から見える月は同じだ」という意味ですが、これが心学の理想なのです。さらに、著者は次のように述べています。
「自分にあった宗教が、その人にとっての『最高の宗教』です。だからこそ、自分が信じていない宗教のことも認め、理解し、尊重しあわなくてはいけません。私も仏教を信仰している仏教徒ですが、他の全ての宗教に敬意を払い、関心を抱くようにつとめています」
しかし、世の中には宗教を持たない人もいます。そのような人が心と向き合うには何を基準にすればいいのでしょうか。著者は、それは世間一般の「倫理」であるとして、次のように述べます。
「1人の人間として正しくあろうとする『倫理』こそ、宗教の代わりとなるものです。たしかに宗教のようなわかりやすい教義や儀式はないでしょう。しかし『よき人間であろう』と常に意識することは、確実に人間性を高め、他人を思いやる礎になります。そして、豊かな人間関係を構築できるのです」
それでは、「宗教」と「倫理」はどうのように違うのか。常にグローバルな視点で思考する著者は、次のように述べます。
「世界の平和や幸福の追求は、世界全体で考えなくてはいけないこと。そのためにも異なる宗教や社会を横断するユニバーサルな基準が必要ではないでしょうか。
私はそれこそが『倫理』だと信じています。宗教は観念的であるものが多いのですが、倫理は常識や論理に基づいています。人としてなぜそうしなければいけないのか、この世界はなぜそのようなものなのか、それをきちんと説明付けることができる。だからこそ世界全体・人間共通の指針となりうるのです」
著者は、世界の仏教界のリーダーですが、「仏教はたしかに宗教の1つですが、実は他の宗教と比べて『哲学』や『科学』の要素がとても強いのです。そのため、仏教の教義を学ぶことは哲学や科学を学ぶのと同じようなことだといえますし、哲学や科学として捉えれば各々の宗教の教義を横断することができるのです」と語っています。
著者は、仏教には特に「科学」に非常に近い性質があるとして、次のように述べます。
「仏教も科学も、この世界の真理に少しでも迫りたい、人間とはなにかを知りたい、そういった共通の目標を持っています。
たとえば、宇宙はどうして生まれたのか、意識はどのようなものか、生命とはなにか、時間はどのように流れているのかなど、仏教と科学には共通したテーマがとても多いのです。しかも、それらは現代の科学をもってしても、解き明かされてはいません。概念を疑ったり、論理的に検証したり、法則を導き出したりする姿勢も、仏教と科学は驚くほどよく似ています。科学はそれを数式や実験でもってアプローチし、われわれ仏教は精神や修行でもって説く。用いる道具は違いますが、目指している方向は同じなのです」
仏教と科学は同じ夢を見ている、というわけですね。仏教とは「法」を求める教えですが、これは宇宙の「法則」にも通じます。
仏教も科学も「法則」を求める
わたしは、かつて『法則の法則』(三五館)に、仏教も科学も「法則」を追求する点で共通していると書きました。同書では、「幸せになる法則」についても考察しました。そこで行き着いたものこそ、仏教の「足るを知る」という考え方でした。けっして、キリスト教の「求めよ、さらば与えられん」ではないのです。
それでは、人はどうしたら幸せになれるのでしょうか。人間の「幸せ」について、著者は次のように述べています。
「私たちが普段『幸せ』だと思うことの多くは、快感による身体的反応に過ぎないということに気づきます。『幸せ』と言うとなんだか精神的なもののように思われていますが、非常に即物的、肉体的なものなのです。
この類の幸福感の怖いところは、『自分にとって好ましい状況』であるかどうかで、自分の幸福感が左右されてしまうということです。美味しいものを食べて『幸せ』を感じている時はいいのですが、それが続くのはその時その一瞬だけ。食べ物がなくなればたちまちその幸福感は消え失せてしまいます」
つまり、こうした幸福感は、外的要因によって決められてしまうわけです。それでも、人類は、これまでひたすら物質的な幸福感を追い求めてきました。
特に、20世紀において、物質的な幸福感の追求が頂点に達したと言えます。
なぜ、人間の欲望は止まらないのでしょうか。著者は、「それは幸福感が『外部からの刺激』によるものだからです。幸福の源が外にあるので、常にそれを求めずにはいられません。逆にいえば、欲しがらなければ幸せになれない。つまり自分ひとりでは幸福感を感じることができなくなってしまったのです」と述べています。さらに、著者は次のように「欲望」の正体について明かします。
「欲望の肥大化は、人間を利己的で短絡的にもします。
多くのものを手に入れれば幸せで、手に入れられなければ不幸になるというしくみである以上、限りある富を周囲と争い、他人から少しでも多く奪わなくてはなりません。他人に優しくしたり何かしてあげたりするのは自分の損につながります。そうしていつも誰かと争った結果、途方もなく疲弊してしまうのです」
そして、行過ぎた欲望とエゴが極限まで達すると「戦争」が起こるわけですね。著者が言うように、結局、欲望やエゴは自分の得になるどころか、自分を苦しめ悪い結果を生み出すものです。この事実に気づき、今こそわたしたちは正反対の考え方へと転換すべきであるとして、著者は次のように述べます。
「他人に思いやりを持ち、広い視野で物事を見つめる。
利他的な行動をとり、自分が今持っているもので満足する。
人を信頼して正直に生き、他人への思いやりや優しさを人間関係の基本にする―。
そうすれば渇きや争いから解放され、心が平穏になることを感じるでしょう。他人への恐れや後ろめたい感情は消え、自分のことを自分で信じられるようになるはずです。
このとき心の中には、これまでと別の種類の幸福感が生まれてくるはずです。刺激による心の高まりとは違う、静かで穏やかな『心の平和』です。これこそが私たちが追い求めてきた『幸せ』の本当のありようだったのです」
仏教とはどういう教えなのか
『傷ついた日本人へ』という本書のタイトルは、「東日本大震災で被災した日本人を慰めて、力づける」本といったニュアンスがあります。実際、わたしも最初はそのような内容を想像して、読み始めました。
しかし、世界の仏教界を代表する著者が、非常にわかりやすく仏教の基本から説いていることに驚くとともに、深い感銘を受けました。わたしは拙著『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)を書きましたが、本書『傷ついた日本人へ』は非常に優れた仏教の入門書であると思います。
もちろん、本書には被災者へのメッセージも書かれています。
たとえば第四章「苦しみや悲しみに負けそうになったら」では、次のように言います。
「被災者のみなさんがずっと落胆し、嘆き悲しんだまま生き続けることは、とてももったいないことだと思います。あの危機から幸運にも生き残ったのですから、その人生を無駄にしていただきたくありません。また、悲しみにつぶされたままずっと動き出さなければ、新しい変化やプラスへの転換は決して起こりません。
亡くなった方がもしそんな様子を見たら余計悲しまれることでしょう。
もちろん深い悲しみや辛い記憶を消し去ったり忘れたりすることはできません。
そうではなく、そのまま記憶に留めながら、前へ進む力に変化させるのです。
もし尊い人を亡くされたなら、その死の悲しみをしっかり胸に刻みつつ、その人のために自分はどう生きるべきか、これから何ができるかを考えましょう。
その人の存在をこれからの人生の『軸』とし、記憶や意志を受け継ぐ者として『生きる決意』を強くし、前向きに生きていくのです」
非常に説得力に富んだ、誠意のあふれたメッセージであると思います。
また、仏教の最高責任者らしく「カルマ(業)」という言葉を用いて、このたびの震災を語りました。そのことについて、わたしは深く考えさせられました。
石原慎太郎・東京都知事は著書『新・堕落論』において「我欲」と「天罰」という言葉で東日本大震災を語りましたが、著者は次のように述べています。
「これほどの震災となると、その大きさと複雑さゆえ、因果関係を単純に読み解くことは大変難しいことです。カルマは長い時間をかけて積み重なって巨大化し、因や縁が非常に複雑に絡まりあいながら、様々な条件がついに揃ってしまった。
それがあの3月11日だったのです。ある因は津波の被害となり、ある因は原発事故となり、そうやって様々な被害が次々引き起こされてしまいました。
だからといって、被災者の方が特別に悪いカルマを抱えていたかというと、決してそうではありません。このように強大でめったに発生しない出来事は、個人のカルマで引き起こされるレベルではなく、社会全体としてのカルマ、世界共通のカルマのレベルの出来事です。大勢の方が一度に同じ類の苦しみを味わったということがその現れでしょう。
その因は、規模が大きいだけではなく、はるか昔何世代も前から積み重なっていたものでもあります。そう考えれば人類全体の因果応報といえます。
たとえば、自然を破壊し、コントロールしようとしたことが影響しているのかもしれないし、物質的に豊かな生活を求めすぎたことが影響しているのかもしれない。ただどれだけ考えたところで、何が因であるかを私たちの頭で理解することは不可能です」
また、第七章「この世で起こることには必ず理由がある」の中で、「人間が起こしたことは人間が解決できる」として、著者は次のように述べています。
「震災を元に戻すことはできません。悲しいことですが、すでに起きてしまったことです。もちろん震災に限らず、みなさんの周りにはたくさんの苦難や困難があふれているでしょう。でも、その事実に悲しんだり怒ったりし続けるのではなく、この苦難を必ず乗り越えようという意志に変えていってください。そしてその決意や自信をもって苦難に立ち向かってください。その姿勢によって現実的なビジョンを見通すことができ、問題解決の糸口にたどりつけるでしょう」
そして日本人へのメッセージの最後に、著者はこう語りました。
「地球全体からみれば、同じ人間同士というのはもはや兄弟のようなものでしょう。
本物の家族のように心を開き、何でも語り合い、本当の信頼関係を築いていきたいと思っています。私たちはこの惑星に一時的に滞在しているに過ぎません。
ここにいるのはせいぜい90年か100年のことでしょう。
その短い間に何かよいこと、役に立つことをして他の人々の幸福に寄与できたなら、それが人生の意味であり、本当のゴールだといえます」
この著者の言葉に、わたしは深く共感しました。
わたしは、ダライ・ラマ14世をリスペクトしています。単なる宗教家としてだけではなく、政治家としても卓越した人物だと思います。そのことは、「祈りだけでは問題は解決しません。私たちは教育システムを直視しなければなりません」という本人の言葉にもよく表れています。
わたしは、一度だけダライ・ラマ14世の肉声を聞いたことがあります。2008年11月4日に北九州市を訪れた彼の講演会においてでした。
福岡県仏教連合会の主催でしたが、わが社はパンフレットの広告などで協力させていただきました。午後からは一般向けの講演会もあったのですが、佐久間進会長とわたしは午前中に行なわれた宗教者向けの講演会に参加し、多くの僧侶の方々たちと一緒に「現代の聖人」の話を聴きました。まことに貴重な体験となりました。
ダライ・ラマ14世は、これまで世界各地の行ってきた講演と同様に、「思いやり」というものの重要性を力説していました。そして、人を思いやることが自分の幸せにつながっているのだと強調したうえで、次のように述べました。
「消えることのない幸せと喜びは、すべて思いやりから生まれます。思いやりがあればこそ良心も生まれます。良心があれば、他の人を助けたいという気持ちで行動できます。他のすべての人に優しさを示し、愛情を示し、誠実さを示し、真実と正義を示すことで、私たちは確実に自分の幸せを築いていけるのです」
これと似た言葉を、かつてあのマザー・テレサも次のように語っています。
「私にとって、神と思いやりはひとつであり、同じものです。思いやりは分け与える喜びです。それはお互いに対する愛から小さなことをすることなのです。ただ微笑むこと、水の入ったバケツを運ぶこと、ちょっとした優しさを示すこと。そういったことが思いやりとなる小さなことです。思いやりとは人々の苦しみを分かち合い理解しようとすることで、それは人々が苦しんでいるときにとてもいいことなのだと思います。私にとっては、まさにイエスのキスのようなものです。そして思いやりを与えた人が自分の思いを分け与えながらイエスに近づくというしるしでもあります」
ホスピタリティが世界を動かす
ここで注目すべきなのは、ダライ・ラマ14世はブッダの教えを、マザー・テレサはイエスの教えを信仰する者であるということです。異なる宗教に属する二人が、「思いやり」という言葉を使って、まったく同じことを語っています。
キリスト教の「愛」、仏教の「慈悲」、儒教の「仁」なども含めて、すべての人類を幸福にするための思想における最大公約数とは、おそらく「思いやり」の一語に集約されるでしょう。そして、その「思いやり」を形にしたものが「礼」や「ホスピタリティ」です。
ダライ・ラマ14世とマザー・テレサのメッセージについては、『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の中の「ホスピタリティが世界を動かす」に書きました。ダライ・ラマ14世の言葉に接するたびに、ハートフル・ソサエティが垣間見れるような気がしています。