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No.0822 読書論・読書術 『本よむ幸せ』 福原義春著(求龍堂)
2013.11.08
『本よむ幸せ』福原義春著(求龍堂)を読みました。
資生堂名誉会長である著者は「経済界随一の読書家」として有名な方ですが、著者の『だから人は本を読む』の続篇というべき内容です。帯には「私は本で育ちました。」というキャッチコピーに続いて、「毎日ご飯を食べるのと同じです。暇はなくとも本は読みます。雨でも晴れでも読みますし、明日は明日の本を読むのです。」と書かれています。
本書の目次構成は、以下のようになっています。
一章:視点をすえる
始まりは小さな思考から
二章:物語の醍醐味
文字の魔法に酔う
三章:英知を耕す
無限の学びが眠っている
四章:時の狭間をのぞく
人生は悟り得ぬものか?
五章:負への探求
見ざる聞かざるでは拓けない
六章:かけがえのないもの
まなざしが見いだす価値
「本をまたいだメッセージ」松岡正剛
それぞれの章には10冊~20冊ぐらいづつの本が並んでいて、その書評を著者が綴っています。全体では103冊の本が紹介されています。著者のコメントは非常に渋くて、たとえば『花の知恵』モーリス・メーテルリンク著、高尾歩訳(工作舎)の項の最後には次のように書いています。
「メーテルリンクのような自然への畏敬の念があれば、人間は今のような自然破壊の道は辿っていなかっただろうに。
この豊かな心がチルチルとミチルのストーリーを作り上げているのだ。
晩年のメーテルリンクはニースに大きな庭園を持ち、そこで虫や草たちを観察して暮らした。メーテルリンクにとって『青い鳥』の成功は人生の目標の実現ではなく、それ以降の日常の生活にこそ”青い鳥”がいたのではないか」
『幕の内弁当の美学 日本的発想の原点』栄久庵憲司著(ごま書房)では、幕の内弁当に集約されている日本人の美学について触れながら、最後は経済界の大物らしく次のようなまとめ方をしています。
「ある時期、外部での会議が毎週のように重なり、贅沢なことにその幕の内弁当にも飽きがきたように思えた。どうして盛り付けのスタイルを変えないのか、焼き魚は焼き魚でいつも同じところにあるのはなぜか、季節の食材をなぜ使わないのか、と吉兆の亡くなったご主人に聞いた。
その答えは、なるほどごもっともだが、今どの店でもやっているスタイルが最も美しくて、いつも使い慣れた食材を変えると食中毒のような事故が起きやすいのです、というものだった。
なるほどそれが『型』というものかと思わず納得したものだ。そういえば、どの幕の内弁当でも決まった場所に刺身があり、焼き魚があるというのも、その配置が一番美しく見える『型』なのかも知れない。
日本でいう型とは”紋切り型”の型ではなく、実用と美観の双方が一致する究極のスタイルであるのだ」
吉兆の弁当を毎週食べていたとは羨ましいですね。
『聊斎志異』蒲松齢著、柴田天馬訳(創元社)では、次のように述べます。
「孔子は<天は非情なものよ>と諦めたけれど、他方では理性に根ざした議論を好み、<怪力乱神を語らず>と言われた。そうした堅い議論はさておいて、蒲松齢は学問そっちのけで民間説話の採集に打ち込んだ。その頃までの民衆は絶えざる王朝の交代で、常に旧秩序の崩壊と新秩序が作られるまでの混乱に翻弄されてきたのだ。その中でこのような現実離れした説話が愛されたことを思うと、それに浸ったぼくも同じような状況に悩んでいたのかも知れない。
だからと言って決して現実から逃避したわけではなくて、現実に立ち向かうためのバランスを回復するための作用もあったようだ。
その後の人生で押し潰されるような感じを受けることも何回かあったが、その時もこの大冊に戻って神仙や幽鬼の世界に遊んだように思う。きっとそれは心身をリセットして再び立ち向かえるだけの力を蓄えるためだったに違いない」
この一文には、孔子をリスペクトしつつ、幻想文学をこよなく愛するわたしとしては大いに共感するものがありました。
『リーダーシップの真髄 リーダーにとって最も大切なこと』マックス・デプリー著、福原義春監修訳(経済界)では、以下の興味深いエピソードを読者に示します。
「この本の中でカール・フロスト博士の”語り部”の重要性についての話が紹介されている。フロスト博士が1960年代後半にナイジェリアの集落に住んでいた時のことである。集落の人々は夜になると焚き火を囲んで、長老の語り部から部族の歴史を聞き、それを語り継いで伝承する習慣があったが、待ちに待った電気が引かれ照明がつくと、人々は自分の家の裸電球の下で黙って座っているだけになり、部族の歴史は絶えてしまったというのだ。
実はこのショッキングな物語こそ、のちにぼくが会社の歴史や伝承を大切にすべきだという発想を推し進めるうえでの大きな弾みとなり、更に企業文化という概念を形づくるうえでの基となったものなのだ」
『挑戦の時 往復書簡1』『創生の時 往復書簡2』P・F・ドラッカー、中内功著、上田惇生訳(ダイヤモンド社)では、非常に通好みのドラッカー本を取り上げ、以下のようにドラッカーの思想的本質を鋭く指摘します。
「ドラッカーの著作は何れも素晴らしいものだ。それらは机上論でも観念論でもなく、現実に起きている現象をこのような教訓を背景とした、言わば哲学的理想に基づいて診断し処方しているからだと思う」
「全てのドラッカーの著作の中に流れる2つの大きな思想、問いがある。その1つは人材をいかに育てるか、人材がいかに育つかであり、もう1つは時代と環境が変化する中で、組織も人もどのように対応しなければならないか、である」
『史記』司馬遷著(徳間書店)では、この広大な歴史の記録に対して、次のように明快な分析を下します。
「『史記』のもつ最大の魅力はそこに『歴史』が凝縮されていることである。『史記』は中国四千年の歴史の中の一部の期間を扱っているに過ぎない。しかしそこには『新しい国が誕生し、発展して覇者となり天下を治めるが、必ずへつらう者が権力者のまわりに集まり、或いは帝王は妻妾に狂い、国は硬直化・官僚化して新興勢力に滅ぼされていく』という『歴史のパターン』が描かれている。これぞ世界の歴史に共通する『歴史の必然性』であり、また経営の世界にも通じる『人間の営みにおける原理・原則』なのである。人間の営みは押し並べて『史記』の中に収められたパターンの繰り返しであり、時代時代によって身にまとう衣装は異なっても、人間の持つ弱さや愚かさ、間違いというものが常に歴史を織り成しているのである」
『ラ・ロシュフコオ箴言集 佛蘭西文藝思潮叢書1』(白水社)では、多くの有名な箴言を残したフランソワ・ド・ラ・ロシュフコオ公爵について次のように述べます。
「東洋の孔子と違って、戦乱で失意の境遇に陥ったこのフランスのモラリストは、徹底した性悪論をそれも露悪的に吐露する。それが感受性の強かった頃の私には刺激的であった。しかも戦後の価値観の逆転の中で大人たちの偽善的な世渡りを見てしまった私は、ラ・ロシュフコオ公爵の考え方に深く共感した」
『逝きし世の面影 日本近代素描1』渡辺京二著(葦書房)では、この外国人による日本観察の集大成ともいえる名著を紹介しつつ、最後に述べます。
「勿論誰もが日本にパラダイスを見たのではなくて、そこには貧困と雑然さがある。しかしそれは工業化社会の到来以前の貧困なのだ。だから誰しもが調和と礼節とほほえみの印象を記録しているのだ。
筆者は、『幕末を語るためには徳川時代を概観せねばならず、徳川期を語るには室町期へ溯らねばならぬ』とあとがきで語って、近代化した日本について述べようとしない。そこはもう思想史で扱える世界でなくなっているのだ」
『プロタゴラス ソフィストたち』プラトン著、藤沢令夫訳(岩波文庫)では、ソクラテスに魅了された古代ギリシャの若者たちの知的好奇心に言及しながら、最後は現代日本の若者たちの姿に警鐘を鳴らしています。
「何れにしても、ひたすら知の高みを求めて人間と人間が議論した、いわゆるギリシャの社会では、その余裕で知が切磋琢磨され高度化したのではないだろうか。サッカーに勝ったといってツイッターの発信数が増えたことに喜ぶ社会とは、やはり違うのではないのか」
それは絶対に違うと、わたしも思いますね。ツイッター社会は、やはり薄っぺらです。
『木を植えた人』ジャン・ジオノ著、原みち子訳(こぐま社)という児童書を資生堂の社員たちに贈った話は、この読書館でも取り上げた著者の『だから人は本を読む』でも紹介しましたが、各国の言語で書かれた本の冊数は全部で2万冊を超えたそうです。著者のその偉業に対して、こぐま社の佐藤英和社長が次のように語っています。
「ヘンリー・ミラーが引用しているんですけれども、読書家には4種類あるっていうんです。ひとつは”海綿のような読書家”、読んだものを全部吸い取り、それをほぼ同じ状態で元に戻す、ただ少し汚れただけ。2番目は”砂時計”、なにも残さず、1冊の本を時間潰しのために読み通すことで満足する。3番目は”味噌漉し”、原語でなんて言っているんでしょうね、つまり読んだものの滓だけ残す。そして最後は”モガル・ダイヤモンド”、稀にして貴重、読んだものにより益を得、かつそれによって他を益する、というわけです。福原さんが今度なさったことは、いろんなものに影響を与え、他を益するモガル・ダイヤモンドのような・・・・・・」
最後に、本書の解説としての「本をまたいだメッセージ」で、当代一の「本読み」として知られる松岡正剛氏が次のように書いています。
「ラインアップを見て何度も唸った。
この背後に数百冊、数千冊がもぞもぞ動いているのはすぐわかる。
それを100冊前後に絞り切るのは、そうとう大変だ。
ぼくにも経験が何度かあるのでその台所事情が察せられるのだが、たとえばリストが150冊くらいになると、領域・時代・評価・好感度・バランスその他のありとあらゆる選考力が踵を接してきて、そのうちのたった数冊を入れ替えるだけでまるで茶事懐石のメニューを入れ替えているときのように、全貌の景色がガラガラと変わるのだ。その本の景色をなんとか保ちつつ、最終100冊に落着させるのは、けっこうな選書ゲームなのである」
この松岡氏の言いたいことはよくわかります。まさに1冊でも他の本と入れ替えると、全景が一変してしまうという感覚。わたしも実際に『死が怖くなくなる読書』(現代書林)というブックガイドを書いてみて、本当に選書の難しさを身をもって痛感しました。
それにしても、著者の本選びのセンス、そしてそれぞれの本へのコメントの鋭さ、深さには感服しました。著者は「経済界随一の読書家」というよりも「当代随一の読書の達人」であると思います。本書のタイトルは『本よむ幸せ』ですが、わたしは本書を読了して、幸せな気分になれました。アマゾンに大量の本の注文をしたことは言うまでもありません。