- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
No.0032 コミック 『水木しげるの遠野物語』 原作:柳田國男 画:水木しげる(小学館)
2010.03.27
『水木しげるの遠野物語』(原作:柳田國男 画:水木しげる・小学館)を読みました。
日本民俗学の原点ともいわれる柳田國男の『遠野物語』を、あの水木しげる大先生がマンガにしました。
柳田國男×水木しげる!こんな豪華な顔合わせはめったにありません。
前世の記憶がよみがえる
『遠野物語』は、岩手県の遠野出身の研究者である佐々木喜善の記憶の中にある民話を、柳田國男がまとめたものです。
遠野地方において親から子へ、先祖から子孫へと代々語り継がれてきた昔話、民間伝承、説話、怪異譚などをそのまま聞き書きしたもので、必ずしも起承転結などにはとらわれていません。その幻想的な『遠野物語』を水木大先生が見事にビジュアル化してくれました。山男、山女、サムトの婆、オシラサマなど、よく知られたキャラたちが、ユーモラスな造形でよみがえります。
わたしは、『遠野物語』のような民俗的口承文化とは、「共同知」の問題に関わっていると思います。伝統的共同体においては、「共同知」は、まず儀式というものに表れます。しかし、儀式のみではありません。
しきたり、言い伝え、あるいは老人の知恵、民話や童謡、そして祭りというかたちで蓄積され、伝承されてきたのです。かつてグリム兄弟が採集し、われらが柳田國男が調査してきたのは、このような「共同知」の全貌だったと思います。
そこには、昔話のようでいて、実はコミュティを維持し運営するための問題解決の方法や、利害対立が起こったときの対処のノウハウなどがたくさん語られています。
逆に、そのような意図があることを忘れてしまった地域や都市において、祭りも伝説も形骸化してしまったのだと言えるでしょう。
本書の終わり近くで、水木大先生は柳田翁の幻影と会話をします。
そこで、柳田翁に対して、「自分は前から遠野に関心があったんです」とか「『遠野物語』は避けて通れないと思っていたね」などと語りかけます。
なぜかというと、『遠野物語』にはあまり妖怪の名前は出てこないけれども、みんな妖怪の話に他ならないからだというのです。
『遠野物語』の最終話は、第119話です。そこで、柳田翁は遠野郷に古くから伝わる「獅子踊り」の歌を書きとめています。実際に、五穀豊穣を願う遠野の「獅子踊り」を初めて見た水木大先生は、「これは凄いじゃないのッ!!」と大変コーフンします。
獲物を狙う山の獣を獅子に見立て、それが人間と激しく格闘する様子を表現した郷土芸能ですが、見ているうちに大先生は、前世に遠野にいたような気がしてきます。
そして、「人間ていうのは生まれ変わっているのかも分からん・・・・・心っていうのは浮遊して体に入り込むんじゃなかろうか?」「前世の魂は血縁(肉体)とは違う別の所からやって来るのかも試練・・・・・想像を絶するようなやり方で・・・・・」と言うのです。
柳田翁は『先祖の話』で、先祖の霊が子孫に生まれ変わるという祖霊観に共感を寄せていますから、生まれ変わりは血縁によるものだという考えのようです。
柳田翁と真っ向から意見が対立した水木大先生ですが、最後にぽつりと、こうつぶやきます。
「いや、前世 遠野に存在していたのは確かなようだ」と。
88歳になって、だんだんあの世に近づいてきた大先生には、「魂のしくみ」がわかってきたのかもしれません。
今年は、『遠野物語』の発刊から100周年です。
多くの記念イベント、記念出版が予定されているようです。
わたしは一昨年、遠野を初めて訪ねました。
かねてから聞いていた通り、ちょっと観光化され過ぎている観もありましたが、そこかしこに無性に懐かしい空気を感じました。
『遠野物語』を求めて
それと、遠野では不思議な経験をしました。記念館の座敷わらしを紹介した部屋で写真を撮ったのですが、そこに不思議な光の玉が写り込んでいたのです。
わたしの左肩の上方に二つの玉が見えます。奇しくも、その場にいた人が「座敷わらしの部屋では、よく光の玉が写るんですよ」と言っていました。
このことをずっと忘れていましたが、天河での光の玉の一件で思い出しました。
本当に何なんだ、この光の玉は?!
光の玉は座敷わらし?