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No.2318 宗教・精神世界 『亜宗教』 中村圭志著(インターナショナル新書)
2024.04.22
『亜宗教』中村圭志著(インターナショナル新書)を読みました。「オカルト、スピリチュアル、疑似科学から陰謀論まで」というサブタイトルがついています。著者は1958年、北海道小樽市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。宗教学者・編集者・翻訳家。昭和女子大学非常勤講師。一条真也の読書館『教養としてよむ世界の経典』、『聖書、コーラン、仏典』で紹介した本をはじめ著書多数。
本書の帯
本書の帯には、「なぜ、信じるのか?」という言葉を中心として、「妖精写真」「動物磁気」「エスパー」「反進化論」「臨死体験」「シンクロニシティ」「千里眼」「Qアノン」「ニューエイジ」「UFO」「ポストモダン」「コックリさん」「爬虫類人」といったオカルトのキーワードが並んでいます。
本書の帯の裏
帯の裏には、「本書では、近現代に生まれた非科学的で宗教めいた信念や言説を便宜的に『亜宗教』と呼ぶことにする。(中略)昔の流行現象は珍妙にも思えるが、現代の我々だって多少話を複雑化しているだけで、やっていることにさしたる進歩はない。だから、19世紀の千里眼騒動からも、20世紀後半のヒッピー文化や、観念的な言葉に溺れて自滅したポストモダン言説からも、教訓を得ることができる。歴史旅行を楽しみながら、これをやってみようというのが本書の試みである。――序章より、一部抜粋」と書かれています。
本書のカバー前そでには、「・あ‐しゅう‐きょう【亜宗教】近現代に生まれた、非科学的で宗教めいた信念や言説。」という定義の後に、「人間とは、なにかを信じていたい生き物である。伝統的な宗教が退潮し、冷徹な合理主義にさらされるうち、人間の心の空白には『亜宗教』が棲みつきはじめた。19世紀から現在まで、西洋・日本のオカルト、スピリチュアル、疑似科学、陰謀論の数々をたどり、人間の非合理な“妄想力”の系譜を明らかにする」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章 宗教と科学の混ざりもの
第1部 西洋と日本の心霊ブーム
19→20世紀
第1章 19~20世紀初頭の心霊主義
第2章 コックリさんと井上円了の『妖怪学講義』
第3章 動物磁気、骨相学、催眠術
ーー19世紀の(疑似)科学
第4章 明治末の千里眼ブームと新宗教の動向
補章 伝統宗教のマジカル思考
第2部 アメリカ発の覚醒ブーム
20→21世紀
第5章 ファンダメンタリストとモンキー裁判
第6章 UFOの時代
ーー空飛ぶ円盤から異星人による誘拐まで
第7章 ニューエイジ、カスタネダ、オウム真理教事件
第8章 科学か疑似科学か?
ーーESP、共時性から臨死体験まで
終章 陰謀論か無神論か? 宗教と亜宗教のゆくえ
序章「宗教と科学の混ざりもの」の「『亜宗教』とはなにか?」では、「亜宗教」というのは私が便宜的に与えた呼称だとして、著者は「宗教によく似ているが、伝統的な意味での宗教そのものではないような現象あるいは言説のことだ。伝統的な『宗教』は概ね、(1)神仏や先祖の霊や精霊などの超越的な存在を信じる、(2)マジカルで奇跡的な出来事を信じる、(3)信者たちは人生の意味や救いを感じる、(4)そうした世界観を通じて信者たちの間に規律や連帯感が生まれる、などの特徴をもっている」と述べています。また、人間はなにかを信じていたい生き物であると指摘し、著者は「宗教の権威を頼れなくなった人間の心の空白には、疑似科学やナショナリズム的な偽史、異星人から陰謀的な幻魔大戦のドラマまで、なんでも棲みつくようになった」とも述べます。
「裏の思想史」では、本書では、亜宗教的な言説の鳥瞰図を得ることを目標としていますが、オカルト的な主張に対しては基本的に「それが真実である蓋然性は限りなく低い」という立場で扱っているとして、著者は「それは、そうした現象のブームが歴史的に一過性のものであり、長い歴史のなかで万人に納得のいく形で実証された内容を概ね含まないからである。これらの亜宗教は、その時々の社会心理や諸々のイデオロギーとの関数だと割り切ったほうがずっと筋が通る」と述べるのでした。
第1部「西洋と日本の心霊ブーム 19→20世紀」の第1章「19~20世紀初頭の心霊主義」の「心霊主義のバリエーション」では、心霊主義は、今日の言い方ではオカルトということになりますが、当事者たちはオカルトだとは思っていなかっただろうとして、著者は「というのは、オカルトは『隠された』という意味のラテン語occultusに由来する言葉で、一部の人にしか教えない秘密の教え、秘教ないし密教を意味する言葉であり、交霊会のような「公開実験」を通じてあらゆる人々に参加可能であるような心霊主義ないし交霊術は決して秘教ではなかったからだ」と述べています。
当時、心霊主義と並んで、マダム・ブラヴァツキーが創始した神智学が世界的に流行していました。妖精写真の発掘者であるエドワード・ガードナーも神智学協会の役員でした。神智学は、古来の錬金術やカバラなどの秘教、東洋の仏教などの修行者の教えに基づくと称していたので、こちらはオカルトであったと指摘し、著者は「ともあれ、秘密の教えなるものはだいたい非科学的なものであり、そうした非科学的なもののことをいまではオカルトと総称するようになった。そういう意味では、心霊主義や神智学といった当時の亜宗教は、今日的な視点からは、みんなオカルトだということになる」と述べます。
「心霊主義台頭の背景――科学の勃興と宗教の弱体化」では、心霊主義が盛んになる一方で、宗教すなわち教会の権威は衰えを見せるようになったことが紹介されます。科学が具体的成果を見せてくれているというのに、宗教にはハッとするほどの「奇跡」は起こせないからです。また、科学の理論なんぞわからない人でも、電磁波、X線、進化論、遺伝、となんだかすごい発見があったり、すごい理論が現れたということをニュースとして聞いています。一方で教会の理論といえば、相も変わらず、我が主キリストが贖罪して死んで復活した、主はやがて再臨して最後の審判に臨むであろう、悔い改めよ、というようなことばかりで、そうしたドグマの真実性と実効性を証明するようなニュースは何もなかったことも大きな理由でした。
おまけに、19世紀を通じて人々の感性は教会の説く「罪」「悪魔」「地獄」といった観念に抵抗を覚えるようになってきたと指摘し、著者は「そもそも教会はしばしば不合理に世の『罪びと』を断罪したり、異教徒を『地獄』で脅して改宗させたりしてきたものだが、いったん教会の実力に疑念が起こると、牧師や神父のそうした強権主義そのものが罪深くも感じられるようになる(そういう批判を受けたため、教会は次第に表立って『悪魔』や『地獄』を説かなくなり、むしろ慈善活動に力を入れるようになった)」と述べています。
教会の斜陽は、自然科学と並んで考古学や歴史学が発達してきて、聖書の内容を文字通りに信じることが難しくなったことにもよると指摘し、著者は「ノアの洪水があった証拠はどこにもなく、イエスを生んだ単性生殖も、水上を歩いたり死者を蘇らせたりする奇跡も、死んで復活することも、科学の時代にはストレートに信じることが難しくなった。牧師や神学者はもともと知識人であり、博物学にくわしい人も大勢いたから、生物学的進化論の知見と創世記の記述(神は天地創造の5日目と6日目に全生物をおつくりになった!)との間に調整が必要であることは痛感されるようになった。つらい立場だ」と述べるのでした。
「こころの空白を埋めるもの」では、教会が教え込んでいた神という重しを失った世界には、安定したアンカーがないように思われたことが紹介されます。そして地獄のみならず天国すら保証の限りでないとなると、死後の霊魂の状態があやふやになってしまうとして、著者は「死んだら自己がゼロになることを意味する『唯物論』を空恐ろしいことのように感じる感性がまだ十分に生きている時代だった。ここに心霊主義、すなわち死者の霊との交流が可能だという信仰が台頭する心理的条件があったわけだ」と述べています。
「唯物論に反対して」では、心霊主義は、宗教で確信が得られなくなった「魂の永生」を保証するものであったとして、その対極にあるのは自然科学やマルクス思想が代表する唯物論であると指摘します。物質のみを実在と考える唯物論によれば、精神現象は身体の作用のようなものであり、身体の死ののち「魂の永生」があるなどとは考えられないとして、著者は「心霊主義(spiritualism)と唯物論(materialism)はきっちり対概念をなしていたのである」と述べます。
妖精写真を信じ、心霊主義を信じた作家のコナン・ドイルは「心霊主義という新たな啓示は『唯物論』――これはそれなりに真摯な探究であった――に致命的な打撃を与え、『因習的なキリスト教』を大幅に書き換えることになるが、しかしそれは宗教にとって『完全な衝突ではなく、むしろ解明と発展をもたらす』ものとなるだろう」と述べました。著者は、「宗教から鬱陶しい教説を抜きつつ魂の永生を確保する――心霊主義の言説は、実験だの証拠だの理論だのと、新時代の『科学』のスタイルを模していたが、心情的には、旧時代の宗教の延長上にあったと言える。科学の実証性と宗教のありがたみとのいいとこ取りを狙ったのが心霊主義だったのだ」と述べるのでした。
コラム①「心霊の使い手たち」では、古典的心霊主義の代表的顔ぶれが紹介されています。その中には、【ウィリアム・マムラ―】もあります。そこには、「いわゆる心霊写真はウィリアム・マムラー(1832~84)によって発明された。彼は霊ではなく写真師として幽霊を写してしまうのだ。彼のカメラを使うと、どんどん心霊写真が撮れた。(中略)マムラーの心霊写真は現代の心霊写真とは少し趣が違っている。現代の心霊写真は、ふつうの人が何気なく撮った写真のなかに偶然霊やら不思議な光やらが写ったりしているものだ。しかしこの時代の心霊写真はちゃんと意図をもって、指定された故人の姿を写し込むものであった。コナン・ドイルが心霊主義の虜になったのは、死んだ息子の姿が――死んだときよりも若く見えるとドイルは言っている――写り込んだ写真を見たのがきっかけだった」と書かれています。
心霊主義とは違った流れではありますが、神智学の開祖である【ブラヴァツキー夫人】についても、同時代のインド学の泰斗であるマックス・ミュラー教授の「ブラヴァツキー夫人の思想はあくまでも誤解や曲解に満ちた怪しげな仏教理解に基づくものである」という言葉を紹介し、著者は「当時の欧米ではインド思想が何やら深遠そうだという噂が立っていたので、その奥義めいたものを開陳してみせたのが神智学協会だったようだ。ブラヴァツキー流神智学の教えによれば、人間の霊魂は死後も輪廻空間における長い修行の旅を続けて、いやが応でも解説あるいは進化していく。輪廻や解脱の修行など、基本的な発想は大乗仏教のビジョンに似ているので、オルコット大佐が日本で講演したときには、日本の仏教界は好意的な反応を示したと言われる」と書いています。
第2章「コックリさんと井上円了の『妖怪学講義』」のコラム②「井上円了と『妖怪学講義』」では、「妖怪博士」と呼ばれた井上円了について、「世の迷信を打破するために尽力した円了博士は、じつは浄土真宗の僧侶なのであった。彼の思想体系においては、仏教のような大宗教それ自体は迷信でも妖怪でもない。西洋的合理性と仏教の真理が両立すると考えるのは、明治以来の日本の仏教学者の伝統だ。円了の思想体系においては、まず妖怪学で迷信を追い払って科学と哲学に目覚めるべく学生たちを導き、より高度な次元においては、西洋の唯物論や観念論をはるかに突き抜けて、万物に真の実在(真如)が表裏一体的に顕れているとする仏教哲学の世界観へと誘おうというものであったようだ。ともあれ、円了においては科学的啓蒙と仏教的真理は対立するものではなかったという点を押さえておきたい。キリスト教的西洋の思想世界と比べて、こうした融和性はどこか楽天的である。それは現代の仏教界でも変わっていない」と書かれています。
第3章「動物磁気、骨相学、催眠術──19世紀の(疑似)科学」の「磁気から心理へ」では、英国で、1830年代にジョン・エリオットソンという医師が動物磁気現象を大々的に支持したことが紹介されます。さらに1841年にジェームズ・ブレイドという外科医がこの現象を完全に観念の働きと捉えなおして、「神経催眠neurohypnotism」という言葉をつくりました。患者自身の注意の集中により、身体部位の機能が変化するというのです。この言葉はそのまま「催眠術・催眠法hypnotism」となって今日まで使われていることを紹介し、著者は「メスメリズムの見世物的な側面はそのまま奇術のショーとして生き残った。ショーの観客の一人か二人に奇術師が催眠術を施し、暗示をかけ、妙な行動をとらせたりするのである。当時の催眠術入門教書の類には、催眠術をものにすると自己暗示で病気も治せるかのように書いてある。かなり妄想が膨らんでいる」と述べています。
「心という最後の開拓地」では、「考えてもみてほしい。電磁気とか放射線とかが論じられていた時代に、交霊術や催眠術や人の心理的傾向を頭蓋の形から占う骨相学なるものが時の話題となっていたり、相対性理論とか量子論が現れた『現代科学』の時代になっても、フロイトのエディプス・コンプレックス論とか、ユングの錬金術的深層心理学とか、占いっぽい言説が人気を保ち続けてきた――いまでも保っている――というのが、『心』ないし『無意識』をめぐる言説空間の霊妙にして妖怪なるところなのだ」と述べています。この著者の考えには、わたしも賛成です。
ヒステリーとか神経症とかの日常性を超えた心理への注目は、人間の心を倫理学や神学を離れた視点で研究するのを促しました。また、動物磁気や催眠術や骨相学の類も、曲がりなりにも人間心理を「科学」的研究対象にしようという気運の醸成に役立ちました。死者の霊と対話する降霊術や心霊写真でさえ、人間観の科学的進展の役に立ったかもしれません。ちなみに、psychology(心理学)という言葉は、ギリシア語のpsyche(プシューケー)が心から霊魂までを表すことから、ほとんど心霊研究との区別がつきがたく、今日的な意味での人間心理の研究だということが世間に認知されるのにだいぶ時間がかかったと言われています。著者は、「人間の心が、科学的探究の最後のフロンティアであったことを教えてくれるエピソードである」と述べます。
「20世紀に続く疑似科学の系譜」では、宗教が退潮に向かう19世紀において、科学の周縁にありつつ民衆的願望に沿う形で再組織された亜宗教・疑似科学的営為という形で、さまざまなものが芋づる式に存在していたことが指摘されます。そこには主流派の「宗教」に対しても「科学」に対しても批判的な目を向けるという側面もあったとして、著者は「この構図には時代を超えた普遍性があるので、20世紀後半に、ニューサイエンスやポストモダン言説、さらに各種の疑似科学の百花繚乱という形で反復されることになる」と述べるのでした。
コラム③「動物磁気、骨相学、同種療法、水療法」では、そもそも交霊会=心霊主義にはいろいろな流儀があり、なにかオーラのような「流体」の存在を唱える人も、テレパシーの働きを説く人もいたことが紹介されます。さらに心霊主義の出し物の1つであるテーブルターニングは「磁気」をもって説明される場合もあり(井上円了によるとコックリさんの現象には「電気」によるものとする説明があった)、動物磁気が催眠術へと変わっていった流れを紹介し、著者は「動物磁気と心霊主義とをひとつながりのものと捉えてもよさそうである」と述べています。
第4章「明治末の千里眼ブームと新宗教の動向」の「実験の信憑性」では、千里眼ブームの立役者であり、映画「リング」の貞子の母親のモデルにもなった御船千鶴子と彼女を実験した福来友吉博士について、著者は「私が千鶴子の透視を虚構ないし虚偽と考えるのは、第一に、この100年を見ても封印された文字をばっちり読むといった派手な透視能力が実証されたケースが皆無であるので、千鶴子ばかりが特別であったと考える理由がないからだ。第二に、もしそれでも千鶴子のケースが福来博士を筆頭とした研究者たちによって十分に実証されたのであれば、まじめに受け止めなければならないが、実際のところそれらの実験はきわめて不備なものであったからである。そんなわけで、私たちは、千鶴子がそういう超能力を『もっていた』『もっていなかった』を五分五分の確率と見ることはできない。とりあえず『もっていなかった』と考えて、もっていたと主張するならその確たる証拠を出せ、と言うしかない。そして千鶴子にフレンドリーな福来先生たちは、あとで述べる不幸も重なって、確たる証拠を挙げることができなかったのである」と述べます。
千鶴子への実験がかなり手ぬるいものであることは福来も承知していたといいます。著者は、「心理学者である先生の言い分としては、人間は物理学者の実験対象である物体や物質ではない。精神統一が必要だと言われればそれをとりあえず信用してあげるしかない。そして実験そのものに慣らしてやることで、そのうちに徐々に厳密な検査に移行していくというやり方でいいではないか? つまり、これはちょうど、物わかりのいい医師が、薬を飲みたがらない患者に対して、『それでは治療を打ち切ります』とは言わず、『今日のところはこれでけっこうですよ。そのうちに頃合いを見て、半分だけ薬を試してみましょうか』とか猫なで声で言ったりするのに似ているわけだ」と述べます。
このような甘さは19世紀の西欧の心霊研究者にも見られたもので、これはまだ人間を実験の対象にするということに、学者の側も市民の側も慣れていなかったことが背景にあるとして、著者は「人をつかまえていきなり厳重な実験を施すのは、まるで犯罪者の尋問のようだからだ。だから福来先生の悠長なやり方にも同情できるのである。問題は、徐々に厳密な実験に変えようと思っている間に、千鶴子が死んでしまったことだ。これによって、この実験は永遠に完成しないままに、実質的な価値を持たないままに、終わってしまったのである」と述べます。
「不幸な結末」では、千鶴子の詐術を疑う者も、福来先生の実験管理能力を疑う者も、学術界には現れていたことが指摘されます。マスコミでの千鶴子の評判はまだ保持されていましたが、同時期に起きた後述の長尾郁子のほうではかなり鋭くつっこまれていたのです。そんななかで、なんと、千鶴子は服毒自殺してしまいます。1911年1月18日、彼女は染料用の重クロム酸カリを服用し、翌日には帰らぬ人となりました。享年24。著者は、「これには福来も驚いたことだろう」と述べています。
千鶴子の自殺は透視の詐術の罪の意識からではないかとも言われましたが、地元ではむしろ、知名度が上がった千鶴子の能力を本格的に金儲けに利用せんとした父親との確執にその原因があったという意見が強かったと言われます。著者は、「ともあれ、自殺してしまえば、これはどうしても印象が悪くなる。『詐欺師』だと書き立てる新聞もついに出現した。思えば、千鶴子のケースも、コティングリーの妖精写真のケースも、パターンとしては似たようなものであった。内輪の話が外部にひろがり、やがて抜き差しならぬ事態となる、という話だ」と述べています。
千鶴子のケースの特徴は、あまりにスピーディに悲劇的結末を迎えたことだという著者は、「武家の娘は覚悟するのが速いとも言えそうだし、熱しやすく冷めやすい日本の世論について一席ぶつこともできそうだ。千里眼ブームは鳴り物入りではじまり、あっという間にブーイングに転じた。千鶴子の千里眼の評判は、あたかも2014年のリケジョ・小保方晴子氏のSTAP細胞騒動のように、1年ももたなかったのである」と述べます。その後、福来博士は長尾郁子という超能力者と出会って、彼女の実験を行いました。「日本における心霊主義の影響――一般社会と新宗教」では、御船千鶴子や長尾郁子らの千里眼騒動が起きていた時期というのは、催眠術が流行していたばかりでなく、欧米の心霊主義(spiritualism)の情報ないし書籍の紹介やら翻訳やらのラッシュが続いた時期でもあったことが指摘されています。
20世紀後半にも、超能力だの超常現象だのがテレビを通じてお茶の間でブームを呼ぶと同時に、アカデミズムにおいても「知」の新たな「パラダイム」だの「脱構築」だのといったものが過度に流行しました。そんな時代を潜り抜けた著者自身の印象から逆算して考えてみると、おそらくは当時においても、とくに人文系の人々の間に「いまや科学の体系の大きな転換が起きようとしている」という漠然とした認識あるいは期待が広まっていたのではないかと思うとして、「たとえば、柳宗悦という名の若き宗教哲学者――のちに美学的な民芸運動で有名になるあの柳宗悦だ――は、まさしく1911年に『科学と人生』という本を刊行し、現代科学は死者の霊の存在を実証した、科学思想の画期的新時代が訪れたと主張している。20世紀後半風に言えば『パラダイムの転換が起こった!』のだ」と述べます。宗悦は弁証法ふうに三段階で話をまとめています。(1)死後の生を独断的に説いた宗教の時代、(2)それを否定した科学の時代、(3)それを実証的に明かした「新しき科学」の時代、という具合です。著者は、「この『新しき科学』という言葉は20世紀後半にポストモダン系の人々が夢想した『ニューサイエンス』を思わせておもしろい」と述べるのでした。
「心霊主義と保守的思想」では、一神教的な西洋と異なる日本など東アジア社会の特徴として、もともとが死者の口寄せをする霊媒が活躍する、多神教・アニミズム的な宗教環境を挙げています。著者は、「心霊主義の勃興は東洋の民俗宗教の復権としても受け止められたことだろう。密教の加持祈禱にせよ、先祖供養の法事にせよ、輪廻信仰にせよ、さらに民間のイタコ式の口寄せから、霊や神が出てきて優雅に舞う夢幻能にせよ、大雑把にアニミズム的と言える日本的宗教世界は、そもそも心霊主義めいたものだった。むしろ死んだご先祖が草葉の陰から子孫を見守っている日本的幽冥界こそが、心霊世界の老舗だ、本家だという意識が現れても不思議ではない」と述べます。
ちなみに、幽冥界を説いた国学者・平田篤胤の学風を受け継ぐ柳田國男が、神々や妖怪や死者の霊の登場する民俗誌、『遠野物語』を世に問うたのは、1910年のことでした。民俗学の勃興の背景には、明治期より続く怪談噺の流行など、さまざまなものがあったとされていますが、19世紀後半に勃興した西洋各国の民俗学と並んで、西洋発心霊主義もまた、影響力をもった可能性があります。新宗教団体教団・大本(皇道大本)で活躍した英文学者の浅野和三郎はすでに1910年代に著述で心霊主義や神智学への言及を行っています。彼が死の3年前の1934年に著した『神霊主義』がこの方面の総合的な記述ということになります。ここでいう「神霊」とはスピリチュアリズムの氏特有の訳語であり、それは西洋式の心霊の世界を日本多神教式の神々の世界にするりとつなげるための工夫だったのでしょう。
西洋の心霊主義者の言説と同じく、浅野の論考も、あれこれの超常現象の「科学的」事例報告にはじまって、一足飛びに死後の世界をめぐる形而上学に向かっていきます。死後の霊の進歩向上、霊のヒエラルキーの頂点に立つ汎神論的な神といったものからなる神学だ。最終的な結論としては、神霊主義は次の4つの方面で発展すべきだということになります。
●哲学的に
老子や神道の大自然主義
●科学的に
宇宙全体が一大生命の流れであるという大生命主義
●道徳的に
万世一系の皇室を中心とする国体すなわち大家族主義という世界的模範
●宗教的に
日本宗教の敬神崇祖主義という世界的模範
補章「伝統宗教のマジカル思考」の「伝統宗教もまたマジカルである」では、「マジカルな」とは、非合理的な因果の推理に基づくという意味であると説明され、「がらがらと天が鳴ると雨が降る。だからがらがらとドラを鳴らすと雨が降るのではないか? そう考えるのがマジック(呪術、魔術、魔法)で、伝統社会の迷信はこうしたマジックから成り立っている。これが近現代においては次第に手の込んだものになってきて、いわゆる疑似科学というジャンルをつくっている」と書かれています。伝統的な宗教は、神仏や霊の超越的な権威を土台とすることで、世界観を築きあげた。神仏や霊は高度に思想的な意味で「超越的」あるいは「絶対的」な存在であるとされますが、それだけのものではないとして、著者は「それはたとえば聖書に書かれているような人間めいた個性をもち、特異なエピソードに満ちたローカルな歴史を司っており、伝えられる事蹟の大半はマジカルなものである。奇跡と神話の世界だ」と述べています。
マジカルで粗野な神のイメージが歴史を通じて次第に洗練されたものとなり、愛や慈悲や平和の神へと成長しました。思想や倫理の発展において宗教が果たした役割は大きいですが、神を神として崇める意識の根にあるのがマジックであることには変わりがありません。キリスト教徒でも、イスラム教徒でも、民衆の多くはいまでも奇跡への期待ゆえに神を信仰しています。さらに言えば、絶対者、全能者としての神の概念そのものがマジックの一形態ではないのかと疑うことが可能であるとして、著者は「東洋宗教の場合も、やはり根にあるのは呪術的思考である。仏教では死後の転生を信じる。悟りをひらいたブッダのみは転生の煩わしさを免れているが、彼には神通力が生じて、他人の転生の歴史をつぶさに透視することができるとされる。儒教は道徳めいているが、本質にあるのは祖先祭祀である。先祖供養の儀式をきっちりおこなうことが基本で、ここには非科学的な血縁信仰がある。道教では養生術や練った薬の服用などを通じて不老長寿が可能になると信じられていた。東洋宗教は、煩悩を断つ覚醒(仏教)や、仁愛のある生き方(儒教)や、無為自然の道(道教)など道徳的な教えをもっているが、それらが発動する舞台装置はマジカルなものに満ち満ちた世界観なのだ」と述べます。
「伝統宗教と亜宗教の比較」では、亜宗教の場合は、歴史が浅く、体系が不安定で、信奉者たちの熱狂やリーダーたちの思いつきに振り回されやすいと言えます。そのため、伝統宗教の場合よりもマジックやオカルトへの免疫力が低いように見えます。著者は、「要するに『ヒヨッコ』なのである。伝統的な意味で宗教らしい形式を整えた『新宗教教団』の場合も、実態としては常に不安定である。最初の世代の熱狂が冷めて『宗教二世』の時代が来ると、信仰を救済ではなく親に負わされた不条理な負担と感じる者が増えてきた。もっとも、伝統的な仏教やキリスト教も、今日では信仰のメリットがあまり感じられなくなっており、少なくとも先進国においては、著しく退潮している」と述べています。
とはいえ、伝統的大宗教は文化の語彙や習俗としていまも文化や社会のなかに影響力をもっています。たとえば仏教的な思考や儒教的な思考は日本人や中国人の行動様式に刻印されており、キリスト教的な思考は欧米人の行動様式のなかに今日でも組み込まれているとして、著者は「日本人が先輩後輩の秩序を重んじるのは、仏教式の修行の伝統や儒教式の長幼や主従の身分秩序の伝統の名残だろう。欧米人が寄付に熱心なのはキリスト教的習慣の影響だろう。『宗教』は、こうした文化的余韻のようなものまでも含めた概念である。『亜宗教』のあれこれの運動は通常それほどの広がりをもっていない」と述べるのでした。
「終末意識について」では、もともとキリスト教は終末待望から生まれた宗教であったことを指摘し、著者は「キリストの出現そのものが『終末の訪れ』のように解釈されたのだが、開祖の死後はその再臨が待望されるようになった。終末の日にはまことの信者は天国での永生が確証されると信じられるようになった。さらに、キリストが王となる地上のユートピア(千年王国)の出現を期待する者もあった。正統教会はあまり夢想に走らないことにしているが、しかし時折出現する過激な教派のなかには、キリスト再臨の時を細かく予言したり、千年王国を夢見たりするものも多かった」と述べ、さらに「宗教を離れても、欧米人の意識には終末論的時間意識が現れやすい。人権問題から地球温暖化まで、共産主義からAIの未来まで、欧米人が未来設計に打ち込もうとするのは、キリスト教的終末観とパラレルな思考だと見ることができる」と述べます。
第2部「アメリカ発の覚醒ブーム 20→21世紀」の第5章「ファンダメンタリストとモンキー裁判」の「ハリケーンはボーイング747を組みあげられるか?」では、ファンダメンタリストたちが反進化論を唱える際によく使い、ニューエイジ界隈でも目にするボーイング747の比喩が紹介されます。ガラクタ置き場をハリケーンが襲うとします。「ばらばらの金属片や機械部品が嵐に巻き上げられて首尾よくボーイング747として組みあがるなんてことがあると考えられるか?」と、比喩の語り手は言います。著者は、「当然、考えられない。それと同じように、複雑極まりない生物の体が偶然によって組み上がったものだとは到底考えられいではないか? ――彼らが言いたいことは、進化論は神の働きを認めない『偶然』説に属するものであるから、したがって進化論がナンセンスであるのは明らかだ、ということだ。ボーイングが設計者なしには誕生しえないことがわかる人間であれば、生物が神あるいは知的設計者なしには誕生しえないことが理解できるだろう……!」と述べます。
「クレーンとスカイフック」では、論じ手がファンダメンタリストであろうとなかろうと、とにかく「神」という言葉を語り出すときには、そこには「奇跡」にも似た形で途中のプロセスをすっ飛ばして説明してまいたいという、大衆一般の呪術的な願望が現れていると疑うことができると指摘し、著者は「実際、ドーキンスやデネットは、聖書を字義どおり信じることを提唱する原理主義のみならず、ふつうのリベラルな宗教信者の神信仰も含めたあらゆる宗教を、一種の呪術的信念として科学に対峙させ、科学と宗教の相容れないこと、もっと言えば、宗教の説明がすべて『妄想』であることを主張する。このドーキンス式の科学的無神論は、21世紀になってとくに欧米のZ世代の間で急速に広がりつつある。じつは『亜宗教』の流行と並んで、それとは真逆の『無神論』の拡大も、いまの時代の特徴的な動きなのだ」と述べるのでした。
第6章「UFOの時代――空飛ぶ円盤から異星人による誘拐まで」の「戦後のアメリカ社会が生み出したUFO言説」では、UFO言説の特徴は、次々と性格を変え、次第にカルト化していったことが指摘されます。最初人々が言っていたのは、空中に奇妙な飛行物体を見たということでした。やがて空中を飛んでいるのは異星人の宇宙船だという話になり、異星人との接近遭遇を申し立てる者たちが出現するようになりました。さらにこれに、アメリカ政府が真相を隠しているという陰謀論が付着し、そちらの方面の話題が増殖しはじめます。やがて、異星人による誘拐(アブダクション)の報告が話題の中心を占めるようになり、「前世の記憶」や「抑圧された幼児期の記憶」などとともに、虚偽記憶戦争の主戦場の1つとなりました。著者は、「空中になにかが見えたという話は、メインの話題ではなくなっていったのだ。(1)空中の事象、(2)異星人の乗り物、(3)政府の陰謀、(4)アブダクション――こんな順番である」と述べます。わかりやすい説明です。
③【政府の陰謀】では、円盤騒動がはじまってすぐに空軍が設置した専門の調査機関プロジェクト・サインは、「空飛ぶ円盤は実在する」「たぶん外宇宙から来た」とずいぶん前向きな結論を出しましたが、空軍の上層部は判断が拙速すぎるとし、却下したことが紹介されます。著者は、「いまから思えば妥当な采配だと思われるのだが、『現場の判断を上層部が握りつぶした』という噂は、のちのちUFOビリーバーの間に陰謀論を広める原因の1つとなった。思うに、証拠の曖昧さと社会的意味合いの重大さを併せ持った問題があるとき、そこに陰謀論が生まれるのはほとんど必然的である。証拠の曖昧さのゆえ、慎重派と急進派との意見の対立がはじまる。影響の大きさを考えると、責任者としては慎重な判断をしないわけにいかない。するとそれが陰謀的な抑圧と解釈されるという具合だ」と述べています。60年代後半以降、ベトナム反戦運動や公民権運動を通じて、反体制の姿勢が一般化しました。そうしたなかで、UFOをめぐる政府陰謀説がしっかり定着します。スティーヴン・スピルバーグの有名な『未知との遭遇』(1977年)も、一応政府には隠し事があるという線で描かれていました。
④【アブダクション】では、やがてUFO言説は「なんでもあり」の様相を呈するようになり、ストレス多き現代社会、とくにアメリカ社会の心理的歪みの投影としての様相を濃くしていきました。著者は、「コンタクティ言説はアブダクティ言説――異星人にアブダクト(誘拐)され人体実験を施されたという報告――を派生させたが、ここには民間療法としての催眠セラピーによる記憶汚染が関わっている。つまり単に精神が不調だったという人が、セラピストの催眠の暗示によって異星人の誘拐の記憶を自らつくり上げ、自ら信じていくようになる、ということが繰り返し起こっている」と述べています。
著者は、このUFO言説と前章で眺めたファンダメンタリストの反進化論言説には似たところがあると思っているそうです。どちらも圧倒的にアメリカ合衆国を主要な舞台として展開したものです。どちらも新時代が生み出した論題――進化と宇宙――を触媒として展開しています。どちらも社会の支配層に対する不信感を大きな動機付けとしています。ただし、ファンダメンタリストが少数ながらも政治を動かすほどの勢力となっているのに対し、UFO運動のほうは概ねサブカルチャーに留まっているとして、著者は「前者は一応キリスト教という伝統的な文化の根幹に関わっているのに対し、UFO言説にはそういう共同体的基盤がなく、信者はオタク的個人の漠たる集合体にすぎないからだ。それでも陰謀論的ロジックの先駆として十分注目に値するものをもっている」と述べます。
「ケネス・アーノルド事件」では、すでに半世紀前(1896~97)にアメリカ中西部で飛行船のようなもののちょっとした目撃ブームがあったことが紹介されます。いまだ実用的飛行船が就航していない時代ですから、この19世紀末の飛行船騒ぎがいったい何であったのかは不明です。20世紀に入ってからは、今度は世界各地で飛行船騒動が――実際には飛んでいないにもかかわらず――起きたのだが、こちらも正体不明です。戦争恐怖とかそういうものによる集団ヒステリーかと言われています。2次大戦の前後には、幽霊飛行船は幽霊飛行機に変わった。さらに「フー・ファイター(foofighter)」と呼ばれる球体や円盤状のものの目撃もはじまりました。「フー・ファイター」とは奇妙な名前ですが、戦前にあった漫画作品にちなむそうです。戦後の1946年にはヨーロッパ中で幽霊ロケットが目撃され、ソ連の秘密兵器かと言われるようになります。1947年に入ると北米において飛行物体の目撃が数十件も続きます。その流れの中で、6月4日にアーノルドの目撃事件が起きるのでした。
「平和の使者か、侵略者か」では、、UFO言説は早い段階で異星人の乗り物説に支配されたが、やがて異星人に遭ったというコンタクティや、異星人に誘拐されたというアブダクティのレポートが話題をさらうようになったことが紹介されています。「ヒル夫妻誘拐事件」では、「60年代にはじまりのちのち90年代ごろにはかなり社会に信奉者を拡げるようになったアブダクション(誘拐)言説では、基本的に宇宙人の態度はかなり暴力的である。地球人をつかまえて矢神させ、奇妙な人体実験をおこなうというのがその定番パターンだ。典型的アブダクション・ストーリーの最初のものとして有名なのが、1961年に起きた『ヒル夫妻誘拐事件』である」と書かれています。
黒人男性のバーニー・ヒルと白人女性のベティ・ヒルの夫妻が宇宙人に誘拐されたという「ヒル夫妻誘拐事件」は大きな話題になりましたが、著者は「ベティはもともと空飛ぶ円盤が大好きだったとのことで、本も読み、異星人が出てくるSF映画のファンでもあったと伝えられている。バーニーのほうは円盤の話などには懐疑的だったが、妻の影響を受けており、セッションで思い出した自分のアブダクションについても虚構だとは思わなかった。また、夫妻は夫が黒人、妻が白人という、当時としては珍しい組み合わせのカップルであり、その心理的ストレスがアブダクションの虚偽記憶につながっているという説もある」と述べています。
1966年にはこの事件に取材した本(フラー『宇宙誘拐』)が公刊されました。催眠療法から10年たった1974年には、ベティが異星人に示されたという簡単な星図のスケッチから、ある教師が「ゼータ2レティキュリ」という星を特定したという雑誌記事が現れました。これはコジツケと論証されましたが、マニアはその後も信じ続けています。1975年には有名俳優がヒル夫妻を演ずるドキュメンタリー風のテレビ映画(『UFOとの遭遇』)が放映。そしてそこで描かれた異星人の姿が、これ以降の異星人のイメージに大きな影響を与えるようになったと言われます。映画『未知との遭遇』の大きな吊り目をもつ裸形の宇宙人たちも、この系統です。このテレビ映画を境に、アブダクションの報告が飛躍的に増えたといいます。
「なぜ人は異星人に誘拐されたと思うのか」では、アブダクティ言説は異星人が地球人を誘拐するという内容のSF映画が出現したあとに現れており、作品の虚構と人々の体験とがフィードバックしあっていることは間違いないという心理学者スーザン・A・クランシーの指摘を紹介し、著者は「真夜中に異星人が出現し、人を金縛りにし、人体に妙な痕跡を残す。被害者はその後不安症を抱えたり、失われた時間があったと気づいたりする――クライアントはこの物語パターンを自己の人生の大事な一フェーズを説明してくれるものして、自己暗示によって受け入れてしまう。要するに彼らは、この物語によって人生の不調の原因を理解してしまったのだ。とんでもない筋書きであり、論理の飛躍を数々含んでいるとしても、これが彼らの心の琴線に触れてしまった。そもそも『そのような事実はなかった』という立証は誰にもできないので、それが奥深くにそのまま定着するようになる」と説明します。
「アブダクションとアイデンティティ」では、クランシーの報告内容は、宗教、疑似科学、偽史、フェイクニュースの信者のケースによく似ているとして、著者は「彼らはいずれもテコでも自らの信念を曲げようとしない。議論を持ち掛けたところで水掛け論(神学論争?)が待っているだけである。どうやら人間とは、事実やら『不都合な真実』なんかのために生きている動物ではないのだ。自分という存在に深い満足を感じたいがために生きている。思い入れ、アイデンティティ、自己満足、安心立命――なんでもいいが、そういった「実存」的なもののために生きているのである」と述べます。
コラム⑥「L・フェスティンガー『予言がはずれるとき』」では、「認知的不協和」理論という社会心理学の学説が紹介されます。自分の信念と事実とが互いに矛盾するとき、人間は事実を棄て、信念のほうを取るという選択をしばしば行います。なぜそんな自滅的なことをするのかというと、人間にとって主観的な信念も、客観的事実のデータも、要するに自分の心という舞台に現れた認知的要素であるにすぎないからだとして、著者は「認知A(信仰など)が認知B(現実からの情報など)と不協和音を立てるとき、Aを引っ込めBに合流するのが合理的なやり方だが、心理的にはその逆もありうる。現実の情報に対して当面蓋をしておくことができるのであれば、人間は信仰の強化にいそしむほうを選ぶ。外から見れば恥の上塗りだが、当人は勝った気になる。そんなのが人間心理の現実なのだ」と説明します。
こうした認知的不協和のようなパターンは、宗教史上よく見られるといいます。信者が世直しの救世主だと思っていたナザレのイエスがローマ帝国によって処刑されたとき信者の間に起きた反応も、同種のものだったのかもしれません。信者は、キリストが人類の罪のために犠牲となったと考え、その福音を知る自分たちは世界中に宣教しなければならないとおおいに盛り上がりました。あるいは、異民族に征服された古代イスラエル人が、自分たちが奉じていた神をあらゆる民族の神々を超えた唯一絶対神へと格上げし、一神教を発明したときも、似たような心理が働いたのかもしれません。
「認知的不協和」というとなんだかものものしいですが、人間は悔しいときにはどんな神学だって生み出すということの一例として理解すればいいだろうとして、著者は「病気になったとき『神に祈りましょう』と言い――この時点では祈れば病気が治ることになっている――いつまでも治らなければ『これは神の試練です』と言い、ついに身罷ってしまえば『天国で永遠の平安を得た』と言い出すということは、正統派からカルトまで、宗教の定番の論理パターンだ。信者たちの主観において、こうした思考の働きこそが慰めの源泉なのである」と述べるのでした。
第7章「ニューエイジ、カスタネダ、オウム真理教事件」の「ニューエイジとはなにか?」では、ニューエイジは1個の教団の名前ではなく、宗教のネーミングでさえなく、多種多様な宗教的・亜宗教的・呪術的な思想や運動の総称であることが指摘されます。基本的な特徴は、非キリスト教的、あるいは多くの場合、非一神教的であるということです。つまり、欧米において伝統的に正統とされてきたキリスト教や一神教に起源しない新宗教的な思潮ということになります。それは多様な流れを含んでいるのです。
たとえば西洋固有のものとしては、占星術やタロット、中世ユダヤ思想に由来するカバラ、18世紀にはじまるスヴェーデンボリ主義、また、(東洋的伝統が混ざっているが)神智学などがあります。いずれも伝統的にはオカルトや異端という扱いだったものです。いわゆる東洋(インドや東アジア)から移入されたものとしては、禅やヨーガなどの各種の瞑想・精神統一法、易経、輪廻思想などがあります。東洋のみならず北米先住民文化も、自然崇拝、呪術、幻覚性植物の使用などの形で影響を与えています。新規にはじまったものとしては、超心理学系のもの、心理セラピー系のもの、代替医療系のもの、UFO信仰に類するものなどがあります(代替医療系のものには鍼のように東洋医学に由来するものもある)。
キリスト教的伝統の「真逆」ということでは、ニューエイジは次のように特徴づけられています。
・多神教的、アニミズム的である
・神よりも、人間の悟りや覚醒のようなものを信仰のコアに置く
・個人的体験に力点を置き、心理学的、身体技法的、医療的である
・自分たちをreligiousというよりもspiritualであると捉える
「カウンターカルチャーと『意識の変革』」では、ニューエイジの運動家は世に向かって「意識の変革」を提唱したことが指摘されます。背景にある動機としては、60年代当時のアメリカ社会に勃興中の、政治的・社会的な反体制の機運がありました。60~70年代当時、米国の主流の体制文化に対抗するような文化の動きはまとめてカウンターカルチャー(対抗文化)と呼ばれました。そのなかには、反戦、反人種差別、反帝国主義という政治的意識やヒッピー的ライフスタイルのみならず、当時芽生えつつあったフェミニズムないし男女同権の意識や、当時の科学界に急浮上した生態学ないし生態系(エコロジー)に対する認識なども含まれます。同性愛に対する解放の意識も含まれていましたが、これが結実するのは20世紀末に持ち越されました。
こうした意識変革の流れのいわば形而上学的部門として、70年代を通じて次第に声高に叫ばれるようになっていったのが、ニューエイジの標榜する宗教的な「意識の変革」ないし「意識の進化」です。著者は、「というわけで、ニューエイジの大事な指標として、非キリスト教、組織的なユルさと並んで(あるいはその一側面として)、この意識の変容の提唱があるのであった。当事者に言わせれば『意識の変革・進化』こそが、運動のいちばんのポイントである。それを旗印にするからこそ『ニューエイジ(新時代)』と呼ばれるわけだ。占星術では20世紀末ごろに(キリスト教に代表される権威主義的な時代である)魚座の時代から(神秘と友愛をモットーとする)水瓶座の時代へと天界の体制そのものが変わるとされる。一種のパラダイムシフトだ。60年代末のヒッピーは『水瓶座の時代(エイジ・オヴ・アクエリアス)』を標榜し、これをテーマにした歌も流行った。そうして70年代を過ごすうちに、もっと簡単な『ニューエイジ』という呼び名が一般化した」と述べています。
「政治運動からサブカルチャーへ」では、ニューエイジには多様な流れがありますが、アイコン的シーンとなったのが、あぐらを組んで自然に対面して瞑想をする長髪の男女の姿であることが指摘されます。著者は、「意識変革には瞑想が必要である。さらにアメリカ先住民文化に根付いていたように、幻覚性植物の摂取による超越体験も意識変革の引き金となるに違いない。ついでに、占いや超常現象やマジカルなもの、オカルト(秘教)的なものへの進行や実践も、そこにカルチャーショックがある限り、意識変革の第一歩となるに違いない……。という次第で、標榜される意識の変革には、一方には政治的・社会的批判という側面が、他方には宗教的な回心の側面が、さらにその裏には、呪術的な奇跡待望(オカルト志向)の側面があるのだった。悟りのようなものが呪術のようなものと連動しているのは、密教などの場合と同じだ。意識の変革はしばしば『意識の進化』として捉えられたが、この場合の進化は神智学や心霊主義で説かれる輪廻転生による魂の進化の形をとった。そこにはダーウィンの生物進化論に対する疑似科学的な曲解の要素もあった」と述べます。
教会の体制を離れたニューエイジ流の宗教的個人主義は、やがて露骨なアメリカンドリームないし新自由主義流の上昇志向へと再編されていきます。セレブが書いた輪廻転生体験の本がヒットしたりする80年代ごろになると、いったいどこからどこへ意識変革しようというのか、正体不明のものになっていきました。著者は、「いわゆる自己啓発はニューエイジ運動の派生物の1つだが、ここでは多くの場合合『ビジネスで成功できる私』『勝ち組の私』への意識変革のようなものになっており、初期の左翼的体制批判のニュアンスは雲散霧消してい」と述べ、さらには「かくしてニューエイジは、思想的な力は失ったが、文化のスタイルとしては主流文化に十分入り込むことができたし、キリスト教会や一神教の懐疑、瞑想系の東洋宗教や自然崇拝系の原始宗教の再評価というレガシーにも巨大なものがある。いまの時代は、欧米のみならず日本も含め、薄められた広い意味でのニューエイジ文化のなかにとっぷり浸っていると言っていい」と述べるのでした。
「ビー・ヒア・ナウ」では、ニューエイジのガイドとドとしてよく売れたほんとして、リチャード・アルバートという元ハーバード大学心理学教授が回心してラム・ダスとなって著作・編集した『ビー・ヒア・ナウ』が紹介されています。同書の内容は、基本的にはニューエイジのなかのヒンドゥー教(および仏教や道教などいわゆる東洋宗教)の系統を代表するものであり、ニューエイジ運動全体のなかの一角ということになりますが、それでも時代精神を教えてくれるものとして際立っているといいます。v輔車は、「このヒンドゥーっぽい部分を、坐禅修行に変えたり、ブラヴァツキーの神智学やルドルフ・シュタイナーの人智学に変えたり、超能力の練習や後述のカスタネダ流の人類学的フィールドワークに変えたり、アダムスキー流の金星人や火星人の説教に変えたりすると、ニューエイジを構成するさまざまな流派のバリエーションが現出するだろう」と述べています。
「カルロス・カスタネダ――マジックのレトリック」では、ニューエイジを語るにあたって忘れることのできない人類学者カルロス・カスタネダの著作、ドン・ファン・シリーズが取り上げられます。著者は、「1つにはアメリカ先住民文化への注目を高めたものとして、1つにはドラッグ文化に影響を与えたものとして、1つには当時の呪術・オカルト的な流行を助長したものとして、また1つには当時のポストモダンと呼ばれる人文系の学術的言説に刺激を与えたものとして、大きな存在感を放っているのだ。『千のプラトー』を共著したポスト構造主義の論客ドゥルーズとガタリが注目したことでも知られ、日本でも社会学者の真木悠介(見田宗介)や宗教学者の中沢新一などの紹介を通じて、カスタネダは80年代には一種の思想的流行を呼んでいた」と述べています。
「優れた宗教的テキスト?」では、なぜオカルトがついて回らなければならないのかの理由について、著者は以下のように述べています。
「一般に、禅者などのいう『自分自身』の問題に気づくためには、自分自身の生存が脅かされたときがいちばんの契機となるだろう。たとえば病気や事故や犯罪や戦争で『死にそうだ』というときである。死を前にしたとき、他のあらゆる問題はフッ飛んでしまう。死こそが自己を極める契機である。ここで、ソクラテスが『哲学は死の練習である』と言ったとか、『葉隠』に『武士道とは死ぬことと見つけたり』と書いてあるとか、そんな言葉を持ち出す人もいるだろう。死の話題は重苦しすぎるというのであれば、なんでもいいから、びっくりするような『驚き』が自己に目覚めるよい契機となる。『哲学は驚きからはじまる』という言葉もあるくらいだ。で、超常現象や奇跡というのは、まさしく驚きを喚起するものである」と述べます。
「オカルトからカルトへ」では、1990年代に時代の雰囲気はガラリと変わったことが紹介されます。冷戦終結、イスラム主義台頭、パソコンとネットの情報革命、自然科学の急速な発展、新自由主義等々によって社会・経済的状況が大きく様変わりしました。著者は、「60年代に構想されたニューエイジのおそろしく牧歌的な『意識の拡張』の御伽噺などでは人々を統合できる時代ではもはやなくなったということが大きいと思われるが、90年代に連続的に起きたカルト集団の暴走事件が、人々の宗教熱・オカルト熱を一挙に冷やしたというのも大きかった(そうしたカルトはニューエイジ系とは限らないのだが)」と述べます。80年代のポストモダン時代においてもてはやされたオカルト的信仰が「洒落にならな」くなったのを実感させたものとして、オウム真理教事件があります。オウム真理教は日本の教団ですが、日本の伝統仏教と結びつかないチベット仏教系の密教修行を中心に据え、各種のニューエイジ系のオカルトやグル麻原彰晃(本名松本智津夫)の陰謀論的な教えが混然となったもので、その密教修行のあたりからしてすでにニューエイジ的に変容したものでした。
オウム真理教の殺人の言い訳として使われたポア(ポワ)という概念は、チベット仏教の一部における、他者を救うために――仏教では死ねば転生する――あえて殺害するという思想に由来するものでした。行くべき来世を浄土などへと格上げしてやるのです。この概念を麻原は便利に用い、本来は地獄に堕ちるべきであった者をもっとよい世界に転生させるという、最強の殺人正当化論理としたのです。著者は、「宗教の論理空間は物理的現実の制約を超えているから、現世的観点からはどんなに危険な主張だって生み出しかねない。それらを実行する集団をカルトと言うわけである(「カルト」の語源は「祭儀」だが、これが「特異な信仰」の意味に変わり、最終的に反社会的な教団を指す符丁となった。紛らわしいが、「オカルト」とはまったく別の言葉である)」と述べます。
ニューエイジの理想では、意識の拡大(悟り)とオカルト現象(超常体験)と科学テクノロジーとが美しく融合するはずだったのですが、オウムのケースはまさしくそうした未来図をディストピア的にひっくり返したものだと言えるとして、著者は「彼らは意識の拡大を目指す修行者集団である。オカルトを本気にするという点ではコリン・ウィルソンやカスタネダ信奉者の直系の子孫である。そして科学テクノロジーについては……こちらはひどく現世主義的に、物理学・化学をストレートに実行したからこそサリンだって製造できたのであった(まるでイスラムのテロリストが夢想だけは宗教的、武器に関してはまるっきり現世主義的であるのとパラレルである)」と述べます。
第8章「科学か疑似科学か?――ESP、共時性から臨死体験まで」の「超心理学とガンツフェルト実験」では、19世紀中ごろにはじまる心霊主義(spiritualism)あるいは交霊術のブームはやがて心霊研究(psychical research)すなわち心霊現象に関する科学的研究を生み出したことが紹介されます。そこでは、心霊のみならずテレパシーなど超能力の研究もおこなわれました。当事者たちの間では華々しい成果を収めたと信じられることもありましたが、20世紀に入ってしばらくすると科学界でも一般世間でもあまり話題に上らなくなり、過去のエピソードになってしまいました。
しかし1930年代に、超能力研究をめぐる新たな動向が現れました。米国はペンシルヴェニア州に生まれシカゴ大学で哲学、心理学、生物学を専攻したジョゼフ・バンクス・ライン(1895~1980)が「超心理学parapsychology」という学問を提唱したのだ。ラインはデューク大学に超心理学専門の研究室を開いたのです。超心理学においては、詐欺の行われる余地がたっぷりある交霊会の調査ではなく、大学の研究室における制御された実験を行いました。被験者も、自他ともに霊媒として名高い人間ではなく、ふつうの一般市民です。著者は、「見世物師としての霊媒の所業から離れて、人間という生物種一般の『隠れた能力』探しに徹するというふうに、研究のスタンスを定めたのだ」と述べています。
超心理学の扱う超能力現象は、テレパシー、透視、予知など認知関係のESP(extra sensory perception 超感覚的知覚)と、物体を動かす念力に相当するPK(psychokinesis 観念動力、サイコキネシス)の二大分野に分かれ、合わせてサイ(psi)と呼ばれます。第4章の御船千鶴子が得意とした千里眼(透視)は認知関係なのでESPであり、長尾郁子が得意とした念写は乾板に異変を起こすものなのでPKになります。また、転生など死後の(霊魂の)生存(『サバイバル』と術語化されている)をめぐる研究も、心理学の守備範囲に入っています。著者は、「超心理学の実験でよく知られているのは、テレパシー検出のためのガンツフェルト実験(Ganzfeld experiment)だ。ガンツフェルト(全体野=全体の視野)というドイツ語がなんだかいかめしいが、要するに完全なる目隠し、耳隠しの状態のことだ」と述べます。
「抑圧された記憶」では、19世紀末から20世紀にかけて、心霊研究や催眠術から脱却する形で心理学や超心理学が生まれてきたわけですが、そうした流れにあって、さらにもう1つ、人文系の重要な一分野が今日に至るまで独自の道を歩み続けていることが紹介されます。無意識をめぐって患者と対話を続けるという手法の一群です。これはいくつもの流派がありますが、もっとも有名なのがフロイト系の精神分析と、ユング系の分析心理学です。著者は、「超心理学は自然科学になろうとしてなかなか認知されずにいるが、エビデンスよりも主観的意味解釈に専心するフロイトやユングの学問のほうも、科学とは異質なものと見られ続けている。しかし人文・社会系の学問や文芸批評などの世界で、これらは非常に大きな影響がある。科学的ではないとしても、思想的な啓発力がおおいにあるということらしい」と述べています。
「共時性(シンクロニシティ)」では、シンクロニシティの話の要点は共時よりも類似にあるといいます。しかしこの類似とは、あくまで主観的印象です。著者は、「雲を眺めていたら天使の形になった! これは神の啓示だ!……というのは、類似による心象である。私たちはこれをふつう偶然の出来事として片づける。壁のしみに妖精を見出したり、隙間風に悪魔の囁きを聞き取ったり、火星の表面に人面岩を見出したり、ということをやたらとやる人は、精神に問題があるだろうと通常は判断される。そもそも人間の脳は、知覚したものに対して既存のパターンを読み込むようにできている(アポフェニアと術語化されている)。こうした傾向があるからこそ人間は自然のなかにさまざまなパターンを見出し、そこから推理を働かせ、文明を築き上げることができた」と述べます。
しかし、アポフェニアだけでは、オカルトやアートにはなっても科学にはなりません。類似のパターンを見出したあとで、本当に関係があるのかないのかを調べるところから科学がはじまります。PとQが似ているという主観的印象だけではだめで、「PとQが主観的に似ていることにはRという客観的原因があった」と因果関係をつきとめて、初めて科学になるのです。著者は、「類似性に関していかにも判断の甘いシンクロニシティ説は、やはり科学説とは異質なものだと思われる」と述べています。
「ユングのオカルト性」では、フロイトの文化的功績が、精神的に打ちひしがれている人の声に真剣に耳を傾ける伝統を生み出したことだとすれば、ユングの文化的功績は、宗教的な人々の心情に寄り添って話を聞く伝統を生み出したことであると指摘します。たしかに宗教的ビジョンの寓意的解釈において、ユングの著作には教えられるところが多いように思われます。宗教的思考と合理的思考とを橋渡しするような語り口で書かれ、著者は「ユングは古代の神話も、錬金術も、易も、占星術も深層心理的に有意味な現象だとしたので、今日のニューエイジないしスピリチュアル系の人々の間では、科学界から信仰にお墨付きを与えてくれた賢人というふうに受け止められている。宗教関係のみならずアート関係にも影響力は大きい。ニュー(エイジ)サイエンスに数えられるトランスパーソナル心理学というものがあるが――人間の発達段階を自我以前のプレパーソナル、自我が成立したパーソナル、自我を超える神秘体験や覚醒に開かれたトランスパーソナルに分ける――、ユングはこれにも影響を与えている」と述べます。
「ソーカル事件」では、1995年、米国の物理学者アラン・ソーカルが、あるポストモダン系社会思想誌に、でたらめな用語法とでたらめな論考を詰め込んだパロディ論文――「境界を侵犯すること――量子重力の変形解釈学に向けて」――を投稿したことが取り上げられます。これが受理されて出版後、ソーカルはその内容がまるっきりインチキであることを公表。すぐネタを公表したのでトリック(ペテン)というのは言い過ぎですが、読者にも、編集者にも、他の投稿者にも、ポストモダン系の論壇全般にも、たいへんなショックを与えたことは間違いないとして、著者は「こうしたショッキングなやり方をするのはのちの炎上商法などと似ていなくもないが、当時の文脈においてはむしろ、ポストモダン言説のなかでもてはやされていたトリックスターの役割を自ら演じてみせたというべきだろう。この悪ふざけのもう1つの目的は、当時流行中の極端な文化相対主義――事実とは文化や社会が政治的につくった構築物にすぎないという立場――がかなり矛盾したものであることを暴露することにあった」と述べます。
「臨死体験言説」では、臨死体験(NDE=near-death experience)を取り上げています。事故や病気でほとんど死にかけた人が生還したときに、あとになってから思い出して語る、その体験内容のことです。20世紀後半になって医学が格段に進歩することで、奇跡的な生還の例が増え、医師が懸命に蘇生術を施している間に多くの人が一種の神秘体験をしていることがわかったのでした。著者は、「結論から言うと、やはり臨死体験イコール死後体験と考えるわけにはいかないようだ。瀕死の状態における特異な主観的体験としての臨死体験そのものはある。しかし当事者は死んだわけではなく、ただ崩壊寸前の脳が見せるリアルな幻影を死後の世界と思い込んでいるだけである。体外離脱も、光の体験や恍惚感も、走馬灯も、リアルな感覚も、基本的には脳内現象として理解できてしまう。しかもそれらの不思議体験は『臨死』状態に限って起こることではない。体外離脱を普段の暮らしのなかで起こしてしまう人もいるのである」と述べます。
「日米の思い入れの差」では、臨死体験言説をめぐって著者の興味をひいたのは、そのオカルト的な内容ではなく、むしろアメリカ人がやたらと臨死体験にこだわっているということのほうだったそうです。キリストと三途の川とが違っているように、そもそも臨死体験に対する思い入れの強さがアメリカと日本とでは大きく違っているようだとして、著者は「70年代から臨死体験研究を大々的に推し進めた米国の医学者レイモンド・ムーディは、臨死体験を死後の生の存在を証明するものだと思いたがっていた。終末期医療の権威として有名な米国の精神科医エリザベス・キューブラー=ロスに至っては、死後の世界をめぐるオカルティスト的な確信を隠そうともしなかった。なお、少なくとも当時、基本的にキリスト教会は臨死体験に否定的な反応を示していた。死後にキリストが出てくるのだから教会は喜ぶのかと思えば、さにあらず。臨死体験者の語る死後の世界には、基本的に地獄がなく、キリストの審判すらなく、きわめて楽観的なのだ。これは教会の教義とは矛盾している。聖職者としては、体験者は悪魔にたぶらかされたにちがいないと考えたくなるのだ」と述べます。
19世紀の心霊主義ブームも、20世紀のニューエイジブームも、背景には審判だの地獄だのと教理的にうるさいキリスト教への反発がありました。ニューエイジと時代的にかぶる臨死体験研究ブームもまた、ある意味でキリスト教への反発のようなところがあるとして、著者は「数々の臨死体験報告から得られた知見の1つは、人間は死の瞬間に至福状態にあることが多いということだ(たぶん脳内の化学物質のせいである)。臨死体験イコール死後体験と信じたい人は、これによって伝統的な審判思想を否定できると思いたい。アメリカにおいては保守的なキリスト教の文化的パワーが大きいので、そのプレッシャーをはねのけるためにも、ぜひとも臨死体験イコール死後体験でなければならない……。そういう意味では臨死体験ブームはキリスト教への抵抗を示すものであるが、しかし、その体験内容にキリストが出てくるのがキリスト教文化の影響であることは間違いなく、さらに言えば、こうやって臨死体験をめぐる事実は何なのか白黒をはっきりさせずにはいられないメンタリティそのものが、神や来世をめぐって論争を繰り返してきたキリスト教神学の影響であるとも、おそらく言えるだろう」と述べます。
「類似の効用と曖昧性」では、超心理学のテレパシー実験が、被験者の語るイメージがもとの写真とどこまで似ているかに依拠していたことを指摘。ユングのシンクロニシティの本質も類似の直観でした。ポストモダン言説では自然科学用語をかなりいい加減に使っていましたが、これもイメージ的類似(アナロジー)による一種のレトリックでした。文化の違いによって主観的臨死体験は異なるのではないかというのも、たとえばアメリカ人の体験内容を類似によってひとまとめにし、日本人の体験内容を類似によってひとまとめにするという、類似による分類作業の結果だといいます。
著者は、「類似によって語るのは、自然科学的に見れば疑似科学に陥りかねない危険要因である。だが、人文・社会科学的な議論においては、極めて複雑な情報を仮初にもまとめあげていくには、アナロジーの働きというのは馬鹿にできないものがある。実証性が乏しいとしても、文系の議論においては、ある程度認容していくしかない。比較文化論というのは、そういった類のものだ」と述べます。アナロジーの力でまとめられたマクロな文化論は、ある程度あてになるのかもしれませんし、全然あてにならないのかもしれません。著者は、「精神分析やユング共時性論のようなものがそこそこ容認されているのは、文系の知そのものが自然科学に比べたらそもそも星占いや亜宗教に近いあたりにあるからなのである」と述べるのでした。
コラム⑧「神秘思想を比較する?――井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』」では、仏教思想からイスラム思想まで東西の哲学に通じた知の巨人、井筒俊彦が取り上げられます。彼もまた、華厳思想の縁起論的なものの見方に世界を知る鍵のようなものがあることを期待していました。彼の特徴は東西の類似する神秘思想の比較を通じて新しい世界展望をもたらそうとするところにあったようです。と思われる。彼の『コスモスとアンチコスモス――東洋哲学のために』の第I部では、仏教の華厳思想とさまざまな古代・東洋思想が比較されています。井筒は華厳に似たものとして、12世紀イランのスフラワルディー「光の殿堂」のイメージ(光源の光が無数の光輝として重々に展開)や、新プラトン主義者プロティノスの「光が光を貫流する」というイメージ(いっさいのものがいっさいを映しだすという意味で世界は透明であり光が貫流している)、またイブン・アラビーの「存在一性論」、荘子の「渾沌」、ライプニッツの「モナド論」に言及しています。
どうやら井筒は、東西の神秘主義思想に似たところがあるのは、いずれも世界の真相に触れているからだと考えているようなのですが、著者にはむしろ、いつも内に引き籠って自己と世界とを対峙させることだけを考え、物理や社会という外界に興味を示さない神秘思想家の考え――というか独り言――が文化の違いを超えて似たものになるのはむしろ当然ではないかと感じられるそうです。宗教というものに懐疑的であった哲学者バートランド・ラッセルは、神秘主義思想の中にある智慧には耳を傾けるべき要素があるものの、神秘主義者は「実在」を論理的な意味では使っていない、神秘主義は「事実」ではなく「情緒」を表現していると評しています。
終章「陰謀論か無神論か? 宗教と亜宗教のゆくえ」の「20世紀の諸言説の陰謀論的傾向」では、ファンダメンタリストや福音派は、聖書を絶対の真理と考えない主流のリベラル文化そのものが嫌いであることが指摘されます。彼らは政治的には保守・右翼を形成しています。ニューエイジは聖書の伝統的権威を認めず、性や性指向の自由を認めるなど個人主義的な主流文化に親和的ですが、近代科学を含む産業文明のあり方にかなり急進的な形で疑念を投げかけています。政治的にはリベラル・左翼型です。著者は、「異星人とのコンタクトにこだわるUFO信仰の場合、不満の種はUFOの『真実』を政府や空軍が認めないことである。それは政府陰謀論の強力な推進者であり続けた。陰謀と言えば、宗教保守もニューエイジも大なり小なり陰謀論的な性格を帯びている」と述べています。
他方、ニューエイジの瞑想的スピリチュアリティは、2つの異なる論理回路によって陰謀論に接近する傾向を見せています。第1に、もともとマジカルな思考の彼らは、物事の真偽を主観的な効果の感覚によって測る傾向があります。迷妄に満ちている世界に覚醒をもたらすには、カスタネダやライアル・ワトソンがやってみせたように、トリックスター的な虚構を演出することも厭いません。第2に、21世紀に入ってニューエイジの系統から被害妄想的で攻撃的な陰謀論が出現するようになりました。その典型例として知られているのが英国のニューエイジ系陰謀論者デーヴィッド・アイク(1952年~)です。
「レプティリアンの陰謀」では、アイクのめまぐるしい履歴が紹介されます。まずサッカー選手からはじまって、スポーツ番組キャスターとなり(70年代)、マスコミの裏事情に違和感を覚えてからは環境運動家になり(80年代)、緑の党のスポークスマンとして活動したのですが、やがて政治にも愛想を尽かしてニューエイジ的な覚醒をとげ(90年代)、人々に受け入れられずにいると次にはイルミナティによる世界の陰謀的支配を説くようになりました(21世紀)。イルミナティは古典的陰謀論によく登場する秘密結社ですが、彼の場合、異次元空間上に生息するレプティリアン(爬虫類人)なるものに操られているのだと言います。アイクの言う「爬虫類人」は日本語的にはかなり浮いて聞こえますが、英語のレプタイル(爬虫類)が「破廉恥漢」を意味し、そのイメージの源泉に、エデンの園でエバを誘惑したヘビや、黙示録の世界で大天使ミカエルがやっつける竜があることを思えば、欧米キリスト教圏ではそれほど突飛な発想ではないのかもしれません。
もう1つ補足すれば、ニューエイジは東洋宗教の影響を濃厚に受けているとはいえ、やっている当事者たちは西洋文化に育った者たちなのですから、やはり聖書的イマジナリーのなかに生きています。著者は、「そもそもニューエイジ信奉者がやたらと覚醒を求めるのは、やたらと回心を迫る宣教師の伝統を受け継ぐものだ。アメリカ史では独立戦争前、独立戦争後、南北戦争後の3回ほどキリスト教系の『大覚醒 The Great Awakening』運動が起きているが、70年代の福音派もニューエイジも、4回目の大覚醒運動と呼べるようなところがある。なお、意識の覚醒と言えば明るく楽天的であるが、キリスト教の信仰復興運動には終末の戦いと神の審判の匂いが漂っている。宗教右派も左派系スピリチュアルもともに陰謀論に似た暗い情念を潜在させているのだ」と述べています。
「無神論は(亜)宗教か?」では、無神論者で知られる進化生物学者リチャード・ドーキンスの説が取り上げられます。彼の論点の第1は、「科学は自然の事実を扱い、宗教は人生の意味や倫理を扱う」という分業は成り立たないということです。祈りや奇跡と切り離せない概念である神なるものは、必ずや物理的世界に干渉する(信者によってそう主張される)。それゆえドーキンスは科学を生業としつつも、神概念とそれに伴う奇跡概念や教典信仰の妥当性・非妥当性について堂々と口を挟むのです。著者は、「これは筋が通っているだろう」と述べます。彼の論点の第2は、科学的な事実関係をめぐるフィールドに引き出された神の振る舞いは筋が通らないものであるがゆえに、その存在自体の蓋然性が低いということです。この確率論的思考が無神論の論点であり、蓋然性の低いものに頼った世界理解をしないのが科学のモットーです。科学が下から積み上げて実証していくのに対し、信仰は神の存在やその奇跡や戒律を空中から引き出してきます。著者は、「この議論も筋が通っている」と述べています。
「『不信』という信仰」では、現代の無神論について言及。「リチャード・ドーキンス(進化生物学者)、ダニエル・デネット(哲学者)、サム・ハリス(神経科学者)、クリストファー・ヒチンズ(ジャーナリスト)、アヤーン・ヒルシ・アリ(政治家)、スティーヴン・ホーキング(物理学者)、ダニエル・ラドクリフ(俳優)、アーミン・ナヴアビ(活動家)、ユヴァル・ノア・ハラリ(歴史学者)といった著名人と足並みを揃えるように、21世紀の欧米の若い世代において無神論がかなり急激な速度で成長してきている」と書かれています。著者は、「最初から宗教に関する知識もなく、自分のなかの宗教的願望にも気づいていないような人が、ただ、トレンディだから、権威者が言っているから、自らのアイデンティティのよすがにしたいからというだけで『無神論』をやっているのなら、それはどちらかというと『宗教』的な態度である。そのように曖昧な姿勢であれば、いざ自分が人生に挫折して、それまで死のことなんて考えたこともなかったのに急に死の強迫観念にとらわれたとき、手もなく天国や輪廻や交霊術を信じるようになるかもしれない」と述べています。
あくまでも暫定的な結論だとしながらも、著者は「現在拡大中の無神論は、ロジックとしては『宗教』とは真逆の立場である(したがって無神論は宗教でも亜宗教でもない)と言えるかもしれない一方で、それをただ感情的に支持するだけの人々のケースに焦点を当ててみる限りは、やっぱり宗教・亜宗教の部類と言えてしまうところが残るだろうと思う。無神論の世代が自らの抱える盲点によって、今後、『ニューエイジ』『ポストモダン』『ポストトゥルース』に次ぐ新たな『亜宗教』を構成することは考えられるし、それが漠然たる信仰に頼っている旧世代との間に知の分断をつくるということも考えられるかもしれない」と述べています。欧米発の無神論は、今後の日本や東アジアに感化するところがあるのかについては、「東洋宗教の影響を受けた19世紀のオカルトから20世紀のニューエイジまでの亜宗教的動向から占うならば、欧米と日本・東アジアの間の影響関係は、今後も引き続き相補的なものとなる公算が高いとして、欧米はすでに禅や密教や輪廻やアジア的なアニミズムをかなりの程度受容している。この傾向は今後も続くだろう」と述べています。
欧米の若い世代の間で日本の漫画・アニメ文化が受け入れられていることはよく知られています。コロナで引き籠りながら日本の学園漫画をおもしろく読んだ若い世代は、「Senpai」「Moe」「Kuuki Yomenai」などといった英訳できない日本語までも楽しんで味わえるようになっているらしいとして、著者は「そんなサブカルに含まれる微妙な心理や秩序感覚――そこにはアニミズム的なものも仏教・儒教的なものも含まれる――は、キリスト教の神学論争にも似たイデオロギー対立やキャンセルカルチャーが今や空回りしつつあるように見える欧米社会に対し、新たな亜宗教的インパクトを与えることが十分あり得ると思う」と述べるのでした。本書は、宗教・オカルト・スピリチュアルを縦断し、横断する画期的な内容で、興味深かったです。わたしの関心テーマと多く重なっているので、いつか著者にお会いしたいと思いました。