No.2357 オカルト・陰謀 | ホラー・ファンタジー 『怪談の仕掛け』 伊藤龍平著(青弓社)

2024.09.16

『怪談の仕掛け』伊藤龍平著(青弓社)をご紹介します。著者は1972年、北海道生まれ。國學院大學文学部教授。専攻は伝承文学。著書に一条真也の読書館『何かが後をついてくる』で紹介した本をはじめ、『江戸の俳諧説話』(翰林書房)、『ツチノコの民俗学――妖怪から未確認動物へ』『江戸幻獣博物誌――妖怪と未確認動物のはざまで』『ネットロア――ウェブ時代の「ハナシ」の伝承』(いずれも青弓社)、『怪談おくのほそ道――現代語訳『芭蕉翁行脚怪談袋』』(国書刊行会)、『ヌシ――神か妖怪か』(笠間書院)、共著に『現代台湾鬼譚――海を渡った「学校の怪談」』(青弓社)、『恋する赤い糸――日本と台湾の縁結び信仰』(三弥井書店)、編著に『福島県田村郡都路村説話集』(私家版)などがあります。

本書のカバー表紙の下部

カバー表紙には赤い牡丹の花と歯車のイラストが描かれ、「怪談を、恐がらせたい語り手と怖がりたい聞き手の関係性のなかで生成する怪異をめぐる話として位置付ける。悲話、笑い話、ネットロア、預言譚、実話など、様々な話を成立させる仕掛けと怪異的な要素の関係を読み解くことで、怪談のメカニズムを浮き彫りにする」とあります。

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「近年、怪談会や怪談イベントが人気を集め、怪談の動画コンテンツも盛んに配信されるようになっている。なぜ、今も昔も、恐怖を感じさせる怪談は人を引き付けるのか。そもそも、怪談を怪談たらしめているものは何なのか。怪談の基本を声の文化として捉え、怖がらせたい語り手と怖がりたい聞き手の関係性のなかで生成する怪異をめぐる話として怪談を位置づける。そして、悲話、笑い話、猥談、落語、童話、ネットロア、予言譚、実話など、様々な話を成立させる仕掛けと怪異的な要素の関係を読み解くことで、怪談のメカニズムを浮き彫りにする。話し手と聞き手の共犯関係や特定の感情を呼び起こさせる話の型・装置に着目して、『怪談とは何か』『怪談と恐怖の関係とは何か』を明らかにする。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序 章 怪談とは何か
第1章 子育て幽霊の気持ち
――悲話「夜泣きお梅さん」

コラム1 わが家の怪談
第2章 お岩さんと愉快な仲間たち
――笑い話としての「四谷怪談」と「皿屋敷」

コラム2 笑い話「牛の首」
第3章 逆立ちする狐狸狢
――猥談「下の口の歯」など

コラム3 コテボウズはいるか
第4章 人を溶かす草の話――落語「そば清」
コラム4 「リンゴ食べていい?」
第5章 優しい幽霊たちのいる墓場
――鄭清文の童話「紅亀粿」

コラム5 思い付き的「羅生門」論
第6章 スマホサイズ化される怪談
――ネットロア「きさらぎ駅」

コラム6 「小さいおじさん」考
第7章 流行神はコロナのなかに
――予言譚「アマビエ」

コラム7 ある「研究者」の会話
第8章 怪異は、解釈されたがる
――実話怪談集『新耳袋』

コラム8 「かさね」のその後
「あとがき」

序章「怪談とは何か」の1「怪談を語る/怪談を話す」の冒頭を、著者は「世間では、何度目かの怪談ブームだそうである。夏場に怪談の関連書籍や番組が増えるのは昔からだが、都市部でのトークイベントやインターネットでの動画配信が盛んになったのは近年の特徴だろう。現在の怪談ブームの1つの傾向としては、伝統的な怪談――例えば『四谷怪談』や『皿屋敷』など――よりも、いわゆる実話怪談(怪談実話とも)のほうが幅を利かせるようになっていることが挙げられる。人気の実話怪談の怪談師にはプロ・セミプロ・アマチュアの層があり、多くのスターが生まれてきた。実話怪談師たちには、それぞれに特有の『声』があり、それがこのジャンルを支えている」と書きだしています。

怪談は「語る」と言うか「話す」と言うか。この点について、『新版 漢語林』(大修館書店)では「談」の字義として「かたる」と「はなす」を併記していることを紹介し、両者は性質が大きく違うことを指摘し、著者は「経験的にもわかることだが、『語る』と『話す』には明確な区別がある。『語る』は声を発する以前に、頭のなかにすでに相手に伝えるべき、まとまった内容がある場合に用いる。それに対して『話す』はもっと広く、まとまった内容がない場合にも使用できる。そして『話す』が『喋る』に近いことは、その起源や方言の分布からわかる。また、『語る』は『話す』に比べて形式性が強い。加えて『語り物』という文芸ジャンルの様態から明らかなように、『語る』には韻律を伴うことがあり、ときにそれは旋律になり、しばしば楽器も用いられる。『語る』は『詠む』『誦える』『歌う』という語に通じる」と述べています。

つまり「怪談を語る」といった場合、そこで語られる怪談はすでにできあがったものであり、聞き手が参与できる余地は少ないとして、著者は「落語や講談などのプロによる怪談がそれで、あえていうならモノローグに近い。一方、『怪談を話す』といった場合、そこで話される怪談には比較的、聞き手が参与しやすい。動画サイト上には複数人で怪談をする形式のコンテンツがあるが、あれこそが話す怪談の典型例で、ダイアローグに近いといえるだろう。語られる怪談も魅力的だし、本書でも若干ふれるが、私が興味を引かれるのは話される怪談のほうである」と述べます。

さらに、著者は「思うに、怪談は語られたときよりも、話されたときのほうが怖いのではないだろうか。だから、織豊時代(16世紀後半、織田・豊臣政権期)から江戸時代初期にかけての怪談文化を支えたのが御伽衆(大名の話し相手をする役目の人)だったのである」と述べます。この点について考えるうえで示唆に富むのが、口承文芸研究者である高木史人氏の怪談論だといいます。一柳廣孝編著『「学校の怪談」はささやく』(青弓社)所収の「怪談の階段」において、高木氏は、柳田國男・折口信夫・今野圓輔らの怪談研究を概観したうえで、「『怪談』は、怪異・妖怪・幽霊などそのモノのコトではなく、それらのモノやコトがコトバに紡ぎ出される過程すなわち言説の織り成される動態である」と捉えています。

2「話し手と聞き手の共犯関係」では、「怪談」について、著者は「怖がらせたい話し手と怖がりたい聞き手の双方の意思の交点に生じる文芸」であると定義します。ここでの文芸とは言語芸術、すなわち、異化された言葉の束ぐらいの意味に受け取ってほしいとしながらも、著者は「怪談を話すとき、その話し方は日常会話の口調とは異なるトーンになっているはずだ。いまは口承説話の場合を想定して『話し手』と『聞き手』と書いたが、書承説話なら『書き手』と『読み手』、電承説話なら『送り手』と『受け手』になる。書承の場合でも電承の場合でも、怪談の言葉遣いは日常会話のそれとは異なっている。その言葉遣いは、怖がらせたい相手(聞き手・読み手・受け手)がいるからこそ発生するものだ」と述べます。

3「怪談と怪異」では、たとえ怖がらせたい/怖がりたいという意思があったとしても、話の内容が怪異――ひとまず「人に負の感情を抱かせる超常的な現象」とでもしておこう――に関わるものでなければ、それは「怪談」とは呼びがたいとして、著者は「例えば、殺人事件や人身事故、自然災害、重病などの話は、どんなに怖くても怪談とはいえない。もっとも、人の心の闇を描くタイプの話(最近では「人怖」と呼ばれるジャンル)が怪談と呼ばれる場合はある。あらためて怪談を定義すると、『怖がらせたい語り手と、怖がりたい聞き手の二人以上の人間がいて、その内容がおおむね怪異現象に関わる話』ということになる」と述べるのでした。

4「話の場の権力と、仕掛けがある話」では、怪談の場の権力は、話し手が最初の一言を発した瞬間に生じるとして、著者は「例えば、キャンプの夜、焚き火を見ながら馬鹿話をしていた友人が、ふと声を潜めて『そういえば聞いた話なんだけどねぇ、この先のトンネルで、むかし……』と話しだしたとき、声のトーンや表情の変化、身ぶりなどから、友人たちは、彼がこれから怪談を話そうとしていることを瞬時に悟る。そして、聞き手が話し手の企みに乗ったとき、そこに怪談の場は生じる。以降、話が終結するまで、聞き手は話し手の仕掛けにからめとられ、話し手は自身が仕掛けた言葉によって聞き手にからめとられる。怪談の場での話し手と聞き手の共犯関係は、こうして成り立つものである」と述べています。

ここで発揮される権力とは怪談という形式自体に内在するものであって、人間関係にはあまり影響されません。例えば、語り手が幼児で聞き手が大人だったとしても、怪談の場が形成されたとたん、そこには権力が生じます。著者は、「こうした仕掛けがある話は、何も怪談だけではない。笑い話、美談、佳話、哀話、悲話、猥談、秘話、内緒話、逸話、よもやま話、自慢話、ほら話、冒険譚、裏話……などの『――話』『――談』『――譚』には、いずれも話し手が聞き手に特定の振る舞いをさせる仕掛けが施されている。話し手が笑い話・猥談を始めたときにはおかしみを、美談・佳話を始めたときには感動を、哀話・悲話を始めたときには悲しみを抱かせるような仕掛けがあり、聞き手はそれにふさわしい反応を示すことを暗に要求される」と述べるのでした。

第1章「子育て幽霊の気持ち――悲話『夜泣きお梅さん』」の「はじめに――土地がもつ物語」では、幽霊という存在について、著者は「幽霊は怖ろしい半面、弱く儚く悲しい存在でもある。幽霊話が怪談になるか悲話になるかの岐路は、生前の彼女・彼への共感の有無による。幽霊も、もとは生きた人間だった。話し手がどの部分を強調するかによって、または聞き手がどの部分を欲するかによって、同じ幽霊話が、怪談にも悲話にもなりうるのである」と述べています。また、「おわりに」では、「日本の幽霊が本来、怖い存在ではなかったことを考え合わせてもいい。高岡弘幸の指摘によると、幽霊が怖い存在になったのは江戸時代のことで、それ以前の幽霊は、弱く儚いものだったという。しかし、江戸時代になって怖い幽霊が生じたとしても、それ以前の幽霊像が消滅したわけではない。『子育て幽霊』や、その流れをくむ『夜泣きお梅さん』の話などは、弱く儚い幽霊の系譜に連なるものだと思う」と述べるのでした。

第2章「お岩さんと愉快な仲間たち――笑い話としての『四谷怪談』と『皿屋敷』」の「はじめに――怪談と笑い話」の冒頭を、著者は「怪談と笑い話は、恐怖と笑いという、およそ対照的な感情を呼び起こすのが目的の話だが、その実、両者の相性は悪くない。怪談が笑い話に転じることもあれば、その逆もある。恐怖と笑いが同時に湧き出す場合もあるし、また、恐怖のあまりに笑えてくることもある。実際、恐怖で引きつった顔と笑顔は似ているのである」と書きだしています。また、妖怪・幽霊のパロディーがおかしい理由について、「型」の存在を指摘し、著者は「妖怪・幽霊たちの容姿や行動には、誰にでもわかる型があった。元になる作品に型がある場合、パロディーが成立しやすい。喜劇映画に造詣が深い小林信彦は、西部劇もののコメディーに外れはないとしている。西部劇には定まった型があるからだろう。その型を外せば容易にパロディーが作れる。日本でいえば、ひところの時代劇には明瞭な型があり、格好のパロディーネタだった」と述べます。

2「怪談の型と、型が生む笑い話」では、怪談には型があるとして、著者は「型は怪談を怪談たらしめる恐怖心を喚起することもあるが、逆に、型が怪談を殺すこともある。怪談の聞き手は型どおりの展開を欲しながらも、一方ではそれを拒む。いまどき、経帷子を着て井戸から出てくる女性の幽霊など失笑ものだが、それを現代風にアレンジすれば絶大な効果を生むことがある。映画『リング』(監督:中田秀夫、1998年)の白いワンピースを着て井戸から這い出てくる貞子は、『皿屋敷』のお菊さんを現代的にアレンジした姿だと捉えられる。さて、一口に怪談の型といっても、(1)ストーリーの型(話型)、(2)行動の型、(3)容姿の型の3種類があり、それぞれが密接に関わり合っている。そしていずれの型も恐怖心を生むもとだが、半面、そこから笑いに転じる可能性もはらんでいる。怪談にとっての型は、諸刃の剣だといえるだろう」と述べています。

欧米に目を転ずれば、ドラキュラや狼男、フランケンシュタインの怪物なども一目でわかる外見的な特徴があり、やはり笑いを生みやすいと言えます。その他、ミイラ男、半魚人、ジェイソン、フレディなどのムービーモンスターたちはいずれも特徴的な容姿をしていて、やはり笑いを生む場合があります。著者は、「オリジナルなモンスターを生み出すには、何よりも型を創出することである。そして、それが笑いの要素にもなる。ものまねという芸が成り立つのも、型が存在するからである。ただし、ものまねとパロディーは同じではないということには注意が必要である。最初からパロディーを含んだものまね(対象になる人物の言動を誇張したもの)も多いが、その人物の言動を忠実になぞっただけのものまねもある。そしてそうした忠実なものまねであっても、まさに忠実であるがゆえに、笑いを生むのである」と述べます。

3「新説・鬼ごっこ」では、ごっこ遊びのなかで最もポピュラーな「鬼ごっこ」について考察。鬼ごっこの「鬼」は日本語の鬼ではなくて、中国語の鬼のことではないだろうかと推測する著者は、「中国語の『鬼』は、狭義には日本語の『幽霊』の意味で、広義には日本語の『妖怪』の意味だが、私がいうのは狭義の『鬼』のほうである。鬼ごっこは台湾の怪談に多い『替死鬼』と発想が似ているのだ。替死鬼とは、こういうことだ――不慮の事故や事件で死んだ人の霊が、成仏できず鬼になってその場所に残り続け(いわゆる地縛霊)、たまたま、そこを通りかかった人に襲いかかり、命を奪う。命を奪った鬼は成仏できるが、奪われた人の霊はその場に残って鬼になり、次に通りかかる人を襲う――この繰り返しによって、呪われた場所が生じる。山中や廃屋など、どこにでも替死鬼は起こりうるが、とくに多いのが川や池などの水辺である。台湾では、水死した人の幽霊=鬼を『水鬼』という」と述べています。

4「ゾンビと遊ぶ、ゾンビを笑う、ゾンビに微笑む」では、肉体がない魂=幽霊と、魂がない肉体=ゾンビの対比が取り上げられます。この対比は面白いです。魂とは何かという問いにもなるし、ゾンビとの比較から人間とは何かという問いも生まれるからです。また、隠喩としてゾンビが用いられることから時代批評も可能だとして、著者は「魅力的なテーマではあるものの、すでにゾンビの研究は活況を呈していて、私の出る幕はなかろう……と思っていたが、怪談と笑い話の関係を考えるのに適切なので、少しだけ取り上げてみたい。創作作品のゾンビの行動や容姿には定まった型がある。福田安佐子は、ゾンビの型を次の4点にまとめている――(1)ノロノロと動く、(2)身体が腐敗している、(3)人間に襲いかかり、感染する、(4)理性がなく、言葉を話せない。これで、大体、大衆文化のなかのゾンビ表象の最大公約数になっているだろう」と述べています。

ゾンビ映画のパロディーは、早い時期から創られています。「皿屋敷」のお菊がそうだったように、ゾンビの行動や容姿、作品のストーリー展開に型があるからだろうと推測し、著者は「ベルクソンの笑い論の一節――『それはもう生の姿ではなく、生のなかに居座り、生の真似をしている機械の自動作用なのだ』を、ゾンビほど見事に体現している例はない。ゾンビは笑われるべくして笑われるようになったのである。だから、一連のゾンビの特徴は、ごっこ遊びに転じる可能性を秘めている。ゾンビは怖いが、動きがのろいので、気をつけていれば襲撃を回避できる。また、ゾンビは群れるとたちが悪いが、単体ではそれほど強いわけではない。むしろ人間より脆い存在だともいえる。作品によっては、頭をつぶせばよみがえらないという弱点が設定されている場合もある。こうした点はおのずとゲームのルールに通じていて、ゾンビごっこが生まれるもとになった」と述べます。

ゾンビごっこが生まれたのは、水鬼が遊びの対象になったのと同じでした。実際、ネットで検索してみると、すでに「ゾンビ鬼」なる遊びが生じていたと指摘し、著者は「ゾンビとゲームの親和性もここに起因するのだろう。『バイオハザード』(カプコン、1996年)が登場したのは必然的なことだった」と述べています。さらには、物語から切り離されることは萌え化の第一歩でもあるとして、著者は「『萌え』とは細部の肥大化、物語からの乖離によって発生するものだからだ。そして萌え要素はしばしば、グロテスクなものとしても表象される。怪談と笑い話、かわいいとグロテスクは、不即不離の関係にあるのである」と述べるのでした。

第6章「スマホサイズ化される怪談――ネットアロア『きさらぎ駅』」の「はじめに――ネットロアに向く話」では、「ネットロア」について、著者は「インターネットを介して伝承される話全般を指す。ある話が口頭で伝承されれば口承説話になるし、文字で伝承されれば書承説話になるし、ネットで伝承されれば電承説話になる。『桃太郎』もネットで伝承されればネットロアだし、『くねくね』も口頭で伝承されれば口承説話だ。話の出自は問題にならない。したがって、ネットロアに向く話はあってもネットロアに特有の話はないというのが、私の立場である」と明快に述べます。では、ネットロアに向く話とは何か。また、向かない話とは何か。著者は一条真也の映画館「きさらぎ駅」で紹介した2ちゃんねる発の都市伝説を取り上げ、「ネットロア『きさらぎ駅』は『2ちゃんねる』で生成したのち、いったんは廃れたものの、その後まとめサイトで人気になり、『Twitter』で話題になるなど、幾時代にもわたって電承されてきている。ネットと親和性が高い話といえるだろう」と述べています。

4「物語化への予感に満ちた言葉」では、「きさらぎ駅」はクトゥルフ神話を素材にした二次創作にもなっていることが指摘されます。主人公が異世界に迷い込むという設定もクトゥルフ神話に合っていますが、一人称で話が展開される点が、モノローグで叙述されるH・P・ラヴクラフトの小説と相性が良いといいます。ただ、「きさらぎ駅」はダイアローグ形式で記述されていますが、厳密には対話というものではありません。評論家の大塚英志氏は、「誰もが物語れるコンピュータ上の支援ソフトは、近代文学を支えてきた『作者』を根源的に無化します。つまり、『作者』とは『Dramatica』の存在によって、アプリケーションに還元しうるものなのだということが、はっきりしてしまったのですから」と述べ(「Dramatica」はソフトの名称)ています。

また、大塚氏は人類学者の川田順造氏が提唱した「シンローグ」「ポリローグ」という語でこれを分析。川田氏の論は、無文字社会(アフリカ・ブルキナファソのモシ族)の語りについて考察したものですが、それがネット文化論に援用できる点が興味深いとして、著者は「シンローグとは、その場に居合わせた人々が代わる代わる言葉を継いでいって、一つの物語を紡いでいく行為。この場合、語りが現出する以前に、そこにいた人々の頭のなかには共通の「見えないテキスト」が存在していて、それを再現したことになる。現在進行形の怪異である『きさらぎ駅』にこのケースは当てはまらない。ポリローグとは、同じ場にいる人々がめいめい勝手に話をしている喧噪状態のことで、シンローグのような方向性はないが、そこから物語が生成していく可能性はある。『きさらぎ駅』の場合、方向性は希薄なものの喧噪状態などではなく、トピックは絞られているのでこれも当てはまらない」と述べるのでした。

コラム6「小さいおじさん」の冒頭を、著者は「人の姿の妖怪の場合、なりやすい年齢と性別がある。端的にいえば、女性と老人、子どもが妖怪になりやすい」と書きだしています。だから、妖怪の名前には「〇〇女」「〇〇婆」「〇〇爺」「○○小僧」が多いといいます。その理由としては、女性・老人・子どもが社会の周縁にいるからと説明されます。著者は、「一概にはいえないが、妖怪はしばしばマイノリティーの暗喩から生じる。逆にいえば、妖怪になりにくいのは、社会の中枢にいる中年男性ということになる」と指摘します。中年男性の姿の妖怪といえば、「〇〇入道」「〇〇坊主」「○○座頭」などの例がありますが、こうした男性は中年ではあっても、社会の中枢にはいません。「入道」「坊主」は出家者のことであり、「座頭」は目が不自由な人の職階でした。一時期、流行した「人面犬」は中年男性の顔をしていましたが、社会からはぐれた、やさぐれた男性の姿に擬せられていたのです。

第7章「流行神はコロナのなかに――予言譚『アマビエ』」の2「妖怪、幻獣、予言獣、そして・・・・・・」では、現今のアマビエ現象を一言で表すなら、コロナ禍のさなかに現れた現代の流行神というのが最も適切であるとして、民俗学者の宮田登が研究した「流行神」が取り上げられます。「流行神」とは、文字どおり「流行する神」です。ある日突然、それまでは見向きもされていなかった小さな祠の神仏や、まったく新しい神仏が爆発的に信者を集めだし、一時的に既存の宗教を凌ぐ勢いをみせますが、ある時期が過ぎると急速に信者を失い、忘れ去られることがあります。著者は、「『流行る』ことと『廃れる』ことはセットになっているのだ。まれに流行神が廃れずに定着することもあるが、それはすでに流行神ではなくなっている」と述べています。

流行神とは、信仰の内容ではなく、状態を指す言葉です。現在の主要な宗教のなかにも、当初は流行神だったものがあります。流行神論の過程で、宮田は和歌森太郎の言を引き、「風俗」と「民俗」を対比させています。著者は、「和歌森の指摘で重要なのは、風俗は『伝播性・流行性』があり、民俗は『伝承性・非流行性』があるという点だ。だから、流行神は民俗学の研究対象になりにくかった。しかし、それは民衆心理の表出され方が異なるというだけで、両者は表裏一体の関係にある。流行神に投影された民衆の心理は、民俗学上でも重要なはずだ」と説明します。

3「現代の流行神」では、アマビエの瓦版が出た1846年についての説明があります。幕藩体制が瓦解する約20年前であり、直前の天保年間(1830-44年)には、天変地異(天保の大飢饉)や、社会騒乱(大塩平八郎の乱、生田万の乱)、圧政(蛮社の獄、天保の改革)がありました。また、1881年10月20日付「東京曙新聞」に載った「天彦」は30年後の人類滅亡を予言していて、長野はこの時期に流行した「世界転覆」の噂からこの記事を解説しています。1882年7月10日付「郵便報知新聞」では、伊沢まさという高齢の女性が所持していた「あま彦」の絵が紹介されていますが、これは58年のコレラ流行の折に売られていたものだといいます。この「あま彦」は6年間の豊作を予言する一方、疫病の流行によって、60パーセントの人間が死ぬとも予言しています。

しかしながら、幕末期や明治期の人々が抱いていただろう漠然とした将来への不安は、宮田の言葉を借りれば「徐々に身辺に迫ってくる社会不安とか社会的危機」であり、終末観を抱かせるような「突如襲いかかる世界の破局」といった性質のものではないと指摘し、著者は「今回のコロナ禍を予測できた者はいなかったろう。自身のことを振り返っても、2019年末のニュースで、中国の武漢市で原因不明の肺炎がはやっていることは知ったが、全世界的なウイルス戦争の様相を呈することになるだろうとは想像していなかった。宮田が言うところの『突如襲いかかる世界の破局』というビジョンが、流行神アマビエを生んだのだ」と述べ、さらには「新型コロナウイルスという未知の病に対抗するには未知の神仏でなければいけない、という心理がはたらいたのだろう。瓦版に描かれたのが薬師如来だったなら、これほどの流行は起きなかったはずだ。加えて、「描き写す」行為を伴うのも流行を引き起こした要件だった。描き写すには相応の時間が必要であり、そこに込められた祈りは素朴な信仰心というべきものである」と述べるのでした。

4「アマビエの説話と俗信」では、予言に関わる話を「予言譚」と呼びますが、予言者が話し手である場合と、説話のなかの登場人物である場合とは、分けて考える必要があると、著者は言います。説話のなかの登場人物や異類(動物・神仏・妖怪・幽霊)が予言をするケースについて、著者は「俗信を私なりに定義するならば、『世界の法則の一端の表れ』になる。それは人々の何代にもわたる経験から導き出されたもので、民俗学の研究対象になってきた。だから『民俗知識』とも呼ばれる(「迷信」という語には否定的なニュアンスが含まれているので民俗学では使われない)。加えていうならば、俗信は広義の信仰に入れられるものの、特定の宗教に属するものではなく、生活に密着していて、なおかつ、体系的ではなく断片的であるのも特徴だ」と述べるのでした。

第8章「怪異は、解釈されたがる――実話怪談集『新耳袋』」の「はじめに――怪異を解釈すること」では、往々にして、怪異に遭った人は、その現象を解釈することによって、非日常的な体験を日常的な体験に転換させようとすることが指摘されます。それが無理な場合は、解釈可能な非日常的体体験に転換させようとするとして、著者は「例えば、山で道に迷ったとき、方向音痴が原因だと解釈すれば、日常を取り戻せる。それを狐に化かされたと解釈すれば、非日常であることに変わりはないものの、理解は可能になり、恐怖心は和らぐ。最も怖いのは、解釈不可能な非日常体験である。怪異を解釈することは、精神を守るための安全弁なのだ。ネットロア『くねくね』が怖いのは『解釈』という安全弁の使用が禁じられる点にある。解釈し理解したとたんに人を発狂させる『くねくね』の怪異主体は、人間の本性を脅かす」と述べています。

一方、解釈することによって日常が非日常になり、恐怖が生まれることもあるとして、著者は「夜目に見えていた白い影を、あとで幽霊だと解釈したとたんにゾッとするような例である。ネットで人気がある「意味が分かると怖い話」などは解釈行為を織り込んだ怪談である。怪異をテーマにする怪談というジャンルは、本質的に『解釈』を呼び寄せる」と述べます。「実話怪談」は「解釈」という行為を前景化させた語りなのです。ちなみに、「意味が分かると怖い話」は「意味怖」と略され、一見特におかしなところはないけれども、よく考察してみると、ぞっとする真実が隠されている話のことを指します。 SNSやまとめサイトなどで拡散される人気ジャンルの1つですが、発祥は2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)のオカルト板からだと言われています。

1「実話とは何か、実話怪談とは何か」では、逆説的になりますが、実話とは「本当らしくない話」のことだといいます。意外で物珍しく、わざわざ「本当にあったことなんだけどね……」と断らなければ聞き手が事実だと認定しがたい内容の話が実話であるとして、著者は「例えば『本当にあったことなんだけどね……』という前置きのあとに『昨日、UFOを見たんだ』と続ければ実話たりうるが、『昨日、ご飯を食べたんだ』と続けたなら、事実であっても実話の場は成立しない。それは実話の仕掛けを転用した笑い話である。ありきたりの話は実話にならないのだ。その意味で、実話と奇談は同じなのである。奇事異聞に信憑性をもたせるのが実話の話法だが、それは奇談でも同じだ」と述べています。

2「アマチュアリズムと語りの『空白』」では、実話怪談集として有名な『新耳袋』が取り上げられます。作家の岩井志麻子氏は『新耳袋』を初読したとき「私のために編集してくれたのでは――?」と思うほどに共感したそうです。「わかりやすい因果関係やオチをつけてくれている実話集もそれはそれで楽しめるが、私自身の入りこむ余地がないのはつまらない」と書く岩井氏は、『新耳袋』について、「淡々と現象だけを記した物語の、なんという怖さ不思議さ面白さ。(略)凡庸なあなたや私が、いつもの日常で出会うものなのだ」と絶賛しています。

岩井氏のコメントから、『新耳袋』に実話怪談のエッセンスがあることが分かります。従来の怪談に比べて、聞き手/読み手の話への参与度が高いのです。一方で、宮部みゆき氏は北村薫氏との作家同士の対談のなかで、実話怪談に対する違和感を表明しています。道尾秀介の小説「鬼の跫音」を「実話系を通過していないというところで、そこもポイント高い」と評した宮部氏は、「フィクションの怪談がすべて実話系になってしまうのは、私はやっぱり寂しいと思うんです。じつは、私は、実話は弱いんですね、現実に引っ張っちゃうから」と述べ、「実話の場合はそういう、フィクションとはちょっと違うベクトルがある」と発言しています。著者は、「江戸の怪談文化を愛する宮部らしい発言で、岩井との対比が面白い」と述べています。

3「『語られざる語り』と向かい合う」では、実話怪談は未成であり、型をもたず、物語を拒むことが指摘されます。もう一歩で完成するというギリギリのところで型、物語への収斂を回避するのが実話怪談なのです。だから逆に、強烈に型や物語を意識させられるのです。実話怪談と破綻した怪談との相違はここにあるとして、著者は「破綻した怪談の場合、足りないピースは1つや2つではない。完成状態を想像できるのが未成ということである。その際、欠けたピースがいくつまでなら実話怪談で、いくつ以上ならば破綻した怪談になるかは、個人差による。そして実話怪談に接した人は、型や物語を完成させるため、未成を完成に転じさせるため、語られていない部分を想像する」と述べています。

「おわりに――民話と実話怪談」では、怪談師にして怪談文化研究者である吉田悠軌氏は、実話怪談の条件として、(1)体験者への取材(=「あったること」として取材し)と、(2)余計な考察の排除(=「あったるまま」に書く)の2点を挙げていることが紹介されます。この吉田氏の言葉は、松谷みよ子『現代民話考』の一節――「あの世の話・神かくし・生まれ変り等を集めるうちに私ははたと当惑した。話者にとってそれはまさしく、あったることであり」を踏襲したものだろうと推測し、著者は「松谷ら民話運動家は全国をフィールドワークをして民話を集めた。その点は、口承文芸研究者と同じである。しかし、口承文芸研究者が『民話』を『民間説話の略語』と理解しようとしたのに対して、松谷ら民話運動家は『民衆の話』の意味だと位置づける」と述べています。

「民衆」の対極にあるのは「為政者」。民話運動の「民話」には、民衆史観にもとづいた明確な思想があります。しかし、著者は「だからといって採集した話の筋を改変するわけではない。ただ、話を自分たちの思想にもとづいて解釈するのだ。民話運動家である松谷は、現代社会のなかにも民話を発見していった。そのなかには学校の怪談など、のちに都市伝説と認識される話もあった。民話運動家と実話怪談師は、話の収集方法や話に向き合う態度、話の公開方法など類似点が多い。かつての民話運動との関係がそうだったように、口承文芸研究者は、実話怪談に目を向けなければいけない時期がきているようだ」と述べます。

「あとがき」では、最近の怪談ブームをみていて、著者は「ときどき、人はなぜ怪談を好むのだろう?」と思うことがあると告白しています。また、「怪談の面白さとは何だろう?」と思うこともあるそうです。この問いに対する答えの1つとして、怪談の「仕掛け」にからめとられたときの心地よさを挙げる著者は、「怪談には、怪異という未知の世界が描かれる。話に誘われて未知なる世界をさまようときの陶酔感を話し手やほかの聞き手たちと共有できるのが、怪談の場である。聞き手が怪談に夢中になるのは、話し手の仕掛けに捉われているときである。それが怪談会のような場であれば、複数の聞き手が1人の話し手の仕掛けに捉われていることになる。それは人と人とがつながっていることを意味する。怪談を通して話し手と聞き手はつながり、聞き手同士もつながる。その感覚は、怪談の場から生じるものである」と述べています。

また、「婦人公論」1928年12月号(中央公論社)に載った「幽霊と怪談の座談会」での話が紹介されていますが、これが興味深いです。話し手は画家の小村雪岱で、知人の笹島という画家の体験談とのことです。同誌には、「この笹島氏が、故郷の月山の麓に住んでいた頃、そうですね、それは日露戦争直後のある夏の夜、沢山の人が野原に出て、空を仰いでいるのを見かけたので、何があるのかしらと、そこへ行って空を仰いで見たら、空中に沢山の人が浮んで、盆踊りをしているのが見えたそうです。その人達はみんな、日露戦争に出征して、戦死した人ばかりだったそうです。地上から仰ぎ見ていた人々は、『あそこに、家の息子が踊っている』とか、『家の息子はあそこにいる』とか、口々に騒ぎながら、中にはぽろぽろ涙を流して、泣いているものもあったそうです」と書かれています。

座談会に出席した柳田國男はこの話を受け、「美しいですね。なるほど絵になりそうですね」と感想を述べています。この座談会は1928年に催されました。日露戦争から23年の歳月が流れ、国際情勢の先行きは不透明ながらも、日本が束の間の平和のなかにあったころであると指摘し、著者は「出征兵士の死という美談化されがちな話柄が、雑誌企画の座談会で怪談として話されている点に留意したい。美をさほど必要としない戦間期なればこそ怪談たりえた話である」と述べ、さらには「怪談は、ある程度、心の余裕がなければ愉しめない。戦争、疫病、災害、飢餓などによる死が身近ではなかった時代、階層、立場の人々だけが、怪談を娯楽として愉しめる。日々、死と隣り合わせに生きている人、親しい者が死の影に怯えている人が怪談を愉しめるわけがない。日本の怪談文化が、江戸時代の都市部で花開いたのは偶然ではなかった。怪談の隆盛は、世の中の安定度を測るバロメーターの1つになる」と述べるのでした。本書は「怪談とは何か」を知るための最適なテキストであると思います。

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