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No.2368 プロレス・格闘技・武道 『力道山と大山倍達』 大下英治著(秀英書房)
2024.11.15
『力道山と大山倍達』大下英治著(秀英書房)を読みました。「不世出の二大巨頭」というサブタイトルがついています。本書の内容は、一条真也の読書館『力道山の真実』で紹介した本や『小説 大山倍達:風と拳』といった著者の過去の著書をベースとして再編集したものです。著者は、1944年広島県生まれ。広島大学文学部仏文科卒業。1970年、週刊文春の記者となりました。記者時代『小説電通』(徳間文庫)を発表し、作家としてデビュー。さらに月刊文藝春秋に発表した「三越の女帝・竹久みちの野望と金脈」が反響を呼び、岡田社長退陣のきっかけとなりました。1983年、作家として独立。以降、政治経済から芸能、犯罪、社会問題まで幅広いジャンルで創作活動をつづけています。著書多数。
本書の帯
本書のカバー表紙には、リング上でトロフィーを持って声援に応える力道山、手刀でビール瓶を斬る神業を披露する大山倍達の写真が使われています。帯には、「力道山生誕100年記念出版」「敗戦後、意気消沈する日本人に空手チョップで勇気と自信を取り戻させた男、力道山。技の奥義を極め、世界中に『ゴッドハンド』を知らしめた大山倍達。二人の邂逅、友情、遺恨そしてともに怪物に変貌し、世界を席巻した両雄の生き様を見ろ!」「人生の勝者はどちらか? 裁くレフェリーはあなただ!」とあります。
本書の帯の裏
アマゾンの内容紹介には、こう書かれています。
「戦後の動乱期から這い上がった『プロレスの父』力道山と『ゴッドハンド』大山倍達。「カラテ」で結ばれた二人の天才格闘家は2024年に力道山は生誕100年、大山倍達は101年を迎える。敗戦後、意気消沈する日本人にカラテチョップで勇気と自信を取り戻させた男、力道山。技の奥義を極め世界中に『オーヤマカラテ』を広めた大山倍達。野望家と修行者、まったく生き方の異なる二人が『昭和の巌流島の決闘』で交差する。昭和を圧倒的な熱量を放ちながら駆け抜けた二人の生涯の光と翳を描く長編ドキュメント」
また、アマゾンの内容紹介には、こうも書かれています。
「この書には二人の邂逅、友情、遺恨が書かれているが、これについて知る人はあまり多くない。二人の対決がもし実現していたらと思いを巡らすのは、格闘技を愛するものとしてはいつの時代でも胸を沸かせるだろう。年齢が1歳しか違わない二人はそれぞれ、修行のため世界を転戦し、各地の強豪を撃破して当時の戦後復興期の日本国民を歓喜乱舞させ、やがて怪物へと変貌していく。日本の格闘技界に多大なる貢献をした両雄の語られることのなかった生い立ち、そして政財界、裏社会を巻き込んで怪物となっていく過程は当時の日本社会全体の勢いを事細かに著しており、またその後二人の活躍、死を迎えるまでの劇的な人生を鋭くえぐり炙り出している。この書における二人の生き様は昭和史の陽と陰を語るにあたり、欠かすことのできないものである。格闘技愛好者にとって必見の一冊である」
本書の「目次」は、以下の通りです。
プロローグ
力道山と大山倍達、ハワイでの邂逅
カラテチョップ誕生秘話
◎昭和二十七年~二十八年
第1章 真夜中の断髪式
力道山角界を去る
◎大正一三年~昭和二十五年
第2章 喧嘩無頼のカラテ屋
大山倍達、出撃前に玉音放送を聞く
◎大正十二年~昭和二十年
第3章 プロレス前夜
力道山渡米す◎昭和二十五年~二十七年
第4章 “辻殴り”の空手家
大山倍達、山に籠る◎昭和二十年~二十四年
第5章 戦後復興の輝ける星
力道山対シャープ兄弟に日本全国が熱狂
◎昭和二十八年~二十九年
第6章 『ゴッド・ハンド」誕生
大山倍達、カラテで全米を行脚する
◎昭和二十六年~二十八年
第7章 昭和巌流島の決闘
大山倍達、力道山の奸計に激怒する
◎昭和二十九年~三十一年
第8章 野望と敵意
力道山、命を狙われる
◎昭和三十年~三十四年
第9章 KARATEを世界に
大山倍達、南米、アジア、ヨーロッパを廻る
◎昭和三十年~三十三年
第10章 二人の愛弟子
馬場と猪木、対照的な育成方法
◎昭和三十一年~三十七年
第11章 未完の夢
力道山、刺される◎昭和三十六年~三十八年
第12章 虎は死しても皮を残す
極真空手の隆盛と倍達の死
◎昭和三十八年~平成六年
「あとがき」
本書は「ノンフィクション」との位置づけのようですが、どう見ても「フィクション」寄りのように思えます。何より、今ではファンタジー作品として読まれている梶原一騎原作の『空手バカ一代』を参考にしている可能性が高いです。あと、同じく梶原一騎原作の『男の星座』を参考にしているのは明らかですね。本書に描かれた力道山および大山倍達の生涯はすでに知っていることばかりですので、ここでは両雄が交わった部分のみに焦点を当てていきたいと思います。
プロローグ「力道山と大山倍達、ハワイでの邂逅 カラテチョップ誕生秘話」の「わたしに空手を教えて下さい」では、昭和27年に初めてハワイで出会った両雄について描かれています。合同稽古の際に、力道山が逆水平チョップを大山に披露しました。すると大山はフーと息をついて、「確かに、あなたの腕力をもってすれば、このチョップで相手は倒れるだろう。だが、これは技ではない。あなたのは、まったく空手じゃない」と言ったそうです。著者は、「力道山の顔に、ふっと暗い色が差した。大山に指摘されて、自分の未熟さを悟ったのだろう。力道山は、改めて頭を下げてきた。『わたしに、空手を教えて下さい。ぜひ、稽古をつけてください』大山は、頭を上げさせるよう、力道山の肩に手を置くと、提案した。『教えるということじゃなしに、一緒に稽古をした、という事にしようじゃないか』」と書いています。
「炎天下の稽古」では、それから大山は日本に帰国するまでの丸一週間、ワイキキビーチで、すさまじい稽古に励んだことが紹介されます。とにかく、力道山は、空手のいろはの「い」の字も知りません。型も知らなければ、手の持ち方も知りませんでした。大山は、初歩から力道山に空手の手ほどきをしました。著者は、「力道山は、とても覚えが早かった。それは覚えが早いというのではなく、運動神経のよさから、二、三度繰り返しているうちに、すぐに体得してしまうというものであった。大山が驚かされたのは、彼の体力である」と書いています。大山も体力には自信がありましたが、力道山の体力はそれを上回ったそうです。いわゆるスタミナですね。ちなみに、腕力は大山の方が数段上だったとか。
「特技は自分から掴むもの」では、著者は以下のように述べています。
「力道山と大山倍達。生年が一年違いで、この時、三十前後である(生年には諸説あるが)。二人には共通点が多い。格闘技という強いものだけが生き残る世界に己の生きる道を求めたこと。まだ貧しさの残る敗戦後の時代にアメリカをはじめ世界に雄飛した型破りな実行力。そして朝鮮半島に出自を持つがゆえのアウトサイダー的な立ち位置。しかし、その生き方はまるで正反対とも言えた。力道山は周りの者を巻き込む求心力の強さから、プロレスをテレビ時代の大衆の娯楽へと育て上げた。時代そのものまで巻き込むほどの求心力であったが、多くの敵を作った。それは自らの誠意とはかけ離れた行動がもたらしたものであった。かたや大山倍達は、真の求道者であった。ハワイにおいても、力道山に求められるままに空手の極意を伝授している。自らが強くなるためには血を吐くような修行も厭わないし、強くなろうとする人がいれば、惜しみなく力を貸す。お人好しともいえる性向であるが、極真空手が世界中に広がった所以でもある」
第7章「昭和巌流島の決闘 大山倍達、力道山の奸計に激怒する」では、昭和28年7月号の「オール讀物」での対談後、大山が渋谷のセンター街にある力道山の事務所に遊びに行ったときのようすが描かれています。
「力道山の後援会長は、衆議院議長歴任後、当時第五次吉田茂内閣で北海道開発長官をつとめていた大野伴睦だった。力道山は政治家の中曽根康弘のことを、平気で『中曽根』と呼び捨てにした。中曽根は、22年に初当選した、民主党の反吉田の急先鋒の青年議員であった。当時、中曽根は、力道山の経営するリキマンションに住んでいて、力道山のいうことを素直に聞いていた。大山が訪ねていくと、ちょうど力道山がだれかを怒鳴りつけている。振り上げているのは、なんと、ゴルフのクラブだった。〈そのままクラブを振り下ろせば、相手は、片端になりかねない。ずいぶん、ひどいことをするなあ〉大山が来たから、虚勢を張ったということもあったかも知れない。そのとき怒鳴られていたのは、なんとアントニオ猪木だった。猪木は、いつ力道山に殴られるかと、その場で震え続けていた」
「木村政彦と大山倍達」では、柔道王と空手王の交流が描かれています。柔道界で無敵だった木村政彦は船越義珍の門を叩き、2年あまり空手を学びました。同じ門下に、大山倍達がいたのです。異種格闘技を自主的に習う木村の姿に、倍達は「いつの日か、俺も、本格的に柔道を習ってみたい」と思うようになりました。昭和22年、倍達は、戦後初の全日本空手道選手権で優勝します。同じ年、柔道の全日本選手権も開かれました。決勝戦を戦ったのは、木村と山口利夫でしたが、両者引き分けの優勝に終わりました。木村と大山は、武道についていろいろ話し合いました。あるとき、木村がふいに「俺が戦いに死を賭けて臨むようになったのは、昭和12年、全日選手権に初めて優勝してからだったなあ」と倍達に言いました。昭和10年、木村は、宮内省五段選抜試合で、大沢貫一郎と阿部信文に敗れていました。翌11年、同じ選抜試合で優勝し、雪辱を果たしています。
「倍達、木村政彦のセコンドに」では、昭和29年の年末に行われた「昭和の巌流島」「世紀の一戦」と謳われた、力道山対木村政彦の戦で、大山倍達が木村側のセコンドについたことが紹介されます。この試合、両者引き分けのシナリオを一方的に破った力道山のセメントファイトによって木村は頸動脈に空手チョップを打ち込まれて昏倒。レフリーは、力道山のKO勝を宣言しました。高々と手を上げる力道山。しかし、凄惨な光景を前に館内には拍手1つ、声1つ湧き上がりませんでした。大山は、たまらず「そんな馬鹿な判定があるか! 力道、待てい!」と声を上げました。著者は、「力道山は、なおもリング内をうろうろ歩き回って止まらない。歩き方は、まるではずみをつけているかのように軽やかで、体は上下に揺れている。腰に当てられた両手は、両方とも親指一本だけがタイツの上に添えられている」
大山は、着ていたロングコートを脱ぎ捨て、リングに上がって行こうとしました。「貴様、力道! これは、プロレスじゃない。喧嘩じゃないか! 喧嘩なら、力道、たったいまここで、俺が相手になってやる!」と叫びましたが、横にいた国際プロレスの大坪清隆や立ノ海らが、必死になって大山を止めました。力道山は、大山に一瞥をくれただけで、あとは視線をわざと逸らし、二度と大山を見ることはなかったそうです。大山は負傷した木村を連れて、木村が泊っていた千代田ホテルへタクシーで引き揚げました。ホテルの部屋に入ると、木村は声を上げて号泣しはじめたそうです。木村は、鼻水をすすりながら「大山、敵を討ってくれ」と大山に訴えました。大山は、「先輩、心配しないでくれ、あんなやつ、かならず叩きのめしてやる」と胸を叩いて言うと、今度は蔵前国技館の方に向き直って「あの野郎、二度とリングに上がれないようにしてやる」と言ったといいます。
「暴露された密約」では、力道山をつけまわした大山は、じつに試合から1年半後に、ついに力道山を捕まえたようすが描かれています。力道山は、赤坂のクラブ「コパカバーナ」から一人で出て来ました。「いまがチャンスだ!」と思って大山が襲いかかろうとしたとき、力道山はいつ痛めたのか、足をひきずりはじめたそうです。大山は、物陰からスッと立ちふさがるように、力道山の前に姿を現しました。すると力道山は「あッ」と今にも声を上げんばかりに眼を剝きました。大山は声を低くして「力動、よく会ったな。気には、長い間会いたいと思っていたよ」と言いました。すると、なんと力道山は、人懐っこい顔で、にっこり微笑みかけてきたそうです。そして、「いや、大山さん、久しぶりでしたあ!」と言って、深々と頭を下げました。そして馴れ馴れしく大山に近づいてくると、手を握って「いやあ、本当に、しばらくでした。ご無沙汰でしたあ」と言ったとか。出鼻を挫かれて戸惑った大山は、その場を立ち去ったそうです。これが両雄が合い間見えた最後の場面でした。その後、力道山は赤坂のクラブ「ニューラテンクォーター」で暴力団員の男から刺された傷がもとで亡くなるのでした。
第12章「虎は死して皮を残す 極真空手の隆盛と倍達の死」の「生涯をカラテに捧げた男」では、大山倍達が創設した直接打撃制の武道空手は、日本をはじめ世界各地で発展したことが紹介されます。特に、旧ソ連圏での発展が著しく、その組織勢力は世界130カ国。会員数は1200万人を超えました。日本においては全都道府県に組織が確立し、総本部、関西本部のほかに、55支部、550道場、会員数は50万人を達成。著者は、「大山倍達は、空手に生涯を捧げ、空手の発展に巨大な足跡を残した。大山は、死してなお、『カラテの父』と呼ばれ、全世界の空手に興味を抱く者たちに慕われ続けている…」と書いています。
「あとがき」では、極真会館の総裁となった大山倍達が、力道山の墓参をしたようすが描かれています。墓石に向かって、大山総裁は「どうして刺したやつを、一発で殺さなかった。身に着けた空手の威力を見せることをせず、どうして死んだんだ」と心の中で語りかけました。著者は、「人間的にはとても好きになれなかったが、力道山が日本の空手界に与えた影響は大きかったという。それまで悪役のイメージの強かった空手を、善に転換させたのは、力道山の『空手チョップ』のおかげだ。力道山が、空手ブームを起こしてくれたのだ、大山総裁は、墓石に手を合わせた。〈力動、わたしはお前に本当は感謝しているよ…〉」と書くのでした。どうしても「見てきたように書いている」著者のスタイルは「じつは小説では?」と思ってしまいますが、膨大な資料をもとにした両雄の物語は興味深かったです。
大下英治氏と
なお、ブログ「孔子膳堂オープン」で紹介したように、わたしは、2014年6月13日に本書の著者である大下英治氏にお会いしました。じつは、わたしは若い頃に大下氏とは何度もお会いしています。ブログ「恩人の葬儀」で紹介した、わたしの仲人でもある東急エージェンシー元社長の故・前野徹氏の御縁で、「日大経済人カレッジ」という団体のお世話をさせていただいており、その団体は大下氏とも関わりが深かったのです。また、大下氏が2006年に刊行された『小説 経済産業省』(徳間書店)の出版記念パーティーがホテルニューオータニで開催されたときに久々にお会いしました。
あー、アナタね、よく憶えていますよ!
大下氏はわたしのことを覚えておいでで、「あー、アナタね、よく憶えていますよ!」と言って下さいました。わたしは「やはり、この世は有縁社会だなあ」と痛感するとともに、亡き前野徹氏が再会させて下さったように感じました。しかも、再会した孔子膳堂がオープンした場所は東急エージェンシーの本社がある赤坂見附でした。さらには、力道山が刺された「ニューラテンクォーター」の跡地もすぐ近くだったのです!