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No.2464 プロレス・格闘技・武道 『Gスピリッツ選集3 武藤敬司篇』 Gスピリッツ編(辰巳出版)
2026.04.28
『Gスピリッツ選集 第三巻 武藤敬司』Gスピリッツ編(辰巳出版)を読みました。一条真也の読書館『Gスピリッツ選集 第一巻 昭和・新日本篇』、『Gスピリッツ選集 第二巻 初代タイガーマスク篇』で紹介した本の続編です。
本書の帯
本書のカバー表紙には若き日の武藤敬司の雄姿の写真が使われ、帯には「専門誌『Gスピリッツ』に掲載されたプロレスリング・マスターの証言を一挙収録!」「『プロレスというのは、やっぱり感動がキーワードだと思うよ。人の心を動かす試合はグレート・ムタじゃなく、武藤敬司がやってるよ』」と書かれています。帯の裏には「ザ・グレート・カブキ、ケンドー・ナガサキ、カズ・ハヤシ、タイガー服部レフェリーとの対談も加えた待望のアンソロジーシリーズ第3弾!」と書かれ、本書の内容が紹介されています。
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに――武藤敬司の『プロレスLOVE』とは?」
「武藤敬司&グレート・ムタ年表」
武藤敬司が“ヤングライオン”だった時代
武藤敬司×ケンドー・ナガサキ
「ムタ誕生前夜」と「SWS引き抜き未遂」
月曜夜8時のスペース・ローン・ウルフ
“悪の化身”グレート・ムタの誕生
武藤敬司×ザ・グレート・カブキ
父親から息子に受け継がれたもの
「闘魂三銃士」と「平成・新日本プロレス黄金期」
新日本プロレス時代の“悪の化身”
追悼―〝獄門鬼〟マサ斎藤との思い出
武藤敬司×カズ・ハヤシ
新生・全日本プロレスの10年間
全日本プロレス~W‐1時代の“悪の化身”
回想―〝破壊王〟橋本真也との再会と別れ
武藤敬司×タイガー服部
2023年2月21日、蝶野正洋戦で引退
戦評―アントニオ猪木vsモハメド・アリ
戦評―“昭和の巌流島”力道山vs木村政彦
「Gスピリッツ初出一覧」
アマゾンより
「はじめに――武藤敬司の『プロレスLOVE』とは?」には、プロレスファンならご存じの通り、武藤敬司というレスラーは同世代の選手の中でズバ抜けて『経験値』が高い。新日本プロレスにおけるデビュー戦こそ第1試合という通常発進だったが、急速にポジションを上げていき、2度にわたる海外武者修行では各テリトリーでトップグループの仲間入りを果たした。WCWではグレート・ムタという別人格も生まれ、以降は2つの顔を使い分けながら各時代のトップレスラーたちと対戦」と書かれています。
全日本プロレス、WRESTLE-1ではプロモーターも経験。キャリアの晩年にはフリーランスの立場でGHCヘビー級王座を獲得し、グランドスラム(メジャー3団体のシングル王座制覇)を達成。その直後に、プロレスリング・ノアにサプライズ入団するという選択も鮮やかでした。本書には、「なぜ武藤は若い頃から日本でもアメリカでも抜擢されたのか? なぜ悪の化身という特殊なキャラクターを見事なまでに併用できたのか? なぜ膝のコンディションが悪化していく中、第一線で走り続けることができたのか? 本書を読んでいただければ、その秘密が具体的に見えてくるはずである」と書かれています。
アマゾンより
インタビュー2「月曜夜8時のスペース・ローン・ウルフ」では、1987年10月24日に公開された東宝映画「光る女」(監督=相米信二)で、武藤が堂々の主演を果たしたことが取り上げられます。インタビュアーの小佐野景浩氏の「映画『光る女』で主演を張ったのは今になって振り返っても異例中の異例ですよね」という発言に対して、武藤は「主人公がデカイという設定だったから監督が相撲とかバスケットボールとかいろんな世界に探しに行って、プロレス界でも何人か見たみたいで。それで俺に白羽の矢が立ったんだよ。あとは会社間の話し合いだけど、シリーズに穴を開けるわけだから、いいギャラを取りましたよ」
小佐野氏が「武藤さん自身は、試合を休んで映画に出ることをどう考えていたんですか? 面白そうだと思ったか、それとも・・・」と質問すると、武藤は「半々ですね。もしかしたら、プロレスという自分の商売で後れを取っちゃうんじゃないかという焦りと。映画もプロレスと同じで、ブラウン管の前で観ているとゴージャスそうな世界じゃないですか? だけど、大変だったなあ。映画の世界、デタラメに大変だったよ。毎日が憂鬱だったから。大変な思いをしていれば、終わった時にはやっぱり充実感もあるし、勉強にもなっているんだろうけどさ。それ以来、映画とかドラマは“ああ、こういうものだな”と。あれから何回か映画やドラマに出てるけど、あの『光る女』以上に大変なのはなかったからね」と答えています。
小佐野氏が「映画の主演を経験したことは、表現者としてプロレスの役に立ちました?」と質問すると、武藤は「立ってないね(笑)。ただ、照れとかさ、恥ずかしがるってことはなくなるよね。相米監督は、昔ながらの映画監督なんですよ。今でも憶えているのは“俺の嫁になんねえかや”という俺の台詞が気に入らないってことで、街中を歩いている女性に対して“その台詞で話しかけてこい!”と言われて。あとは俺の役柄は汚い山男なんだけど、“新宿の街中にいる浮浪者の隣に座ってこい”って言われたこともあった。それでスタッフはみんないなくなって、俺だけずっとそこに座ってたりとか(笑)。まあ、そんなことを必死にやったんだけど、映画は人が評価するものだからね。確か2週間ぐらいで打ち切りになっちゃったよ(苦笑)。今観たら、凄い面白いんだけどな」と答えるのでした。
ここで小佐野氏は「武藤さんが映画の世界からプロレスのリングに戻ってきた時は、世代闘争が勃発していましたよね」と言います。すると、武藤は「それで俺が旧世代に入るんだからね(苦笑)。俺に・・・そんな意思があるわけないじゃん(笑)。憶えているのは両国2連戦(8月19日&20日)の時に初日の5対5イリミネーションマッチで、アメリカから日本に戻ってくるのが遅れたマサさんの代わりに旧世代の方に入れられてさ。2日目もマサさんの代わりに猪木さんのパートナーのXで出て行ったら、帰れコールだった(苦笑)。だから、いろんな経験をさせられているよね、俺は。今の時代の段取りチックなものじゃなくて、俺らはデタラメなことを経験させられているよ」と語っています。
当時、新日本プロレス勢と激闘を繰り広げていたUWF勢については、武藤は「俺たちは従来のプロレスをやってりゃいいけどさ、あの人たちには“自分たちの思想をどうしたらいいか?”というのがあったんじゃないかな」と語ります。小佐野氏が「前田日明は常にそういう姿勢でしたが、髙田もそうでしたか?」と問うと、武藤は「それはUインターになってから再会した時もそうだったけど・・・悩んでいたんだろうな。方向性とかね。本当はUWF単体で生きていきたかったはずだし。あの形態から普通のプロレスに順応できるレスラーは、なかなか出てこなかったもんね。生き残ったのはさ・・・髙山善廣ぐらいしかいないのかよ。馬場さんのところに行ったのが良かったね。アイツのチョイス、間違ってねえよ」と答えています。
「あの時期の新日本にはUWF勢、長州軍が共存していましたが、やはり根っこの部分でギクシャクしました?」という小佐野氏の質問に対しては、武藤は「したでしょう。あの前田さんが長州さんの顔面を蹴った事件は狙ったか狙わなかったかはわかんないけど、あの2人が同じカテゴリーの中で交わることは絶対にないよ。ああいう事件だってさ、ファンから見たら絶対に面白いからね(笑)。ああいうのを含めて、プロレスというのは凄いエネルギーを持ってるんだよ。段取りチックじゃなくて、そこにあるのは本気だもん。あの時は、俺たちも本気で“どうなるのかな!?”と思ってたもん。きっと、あの頃のプロレスファンは面白かったろうなって思うよ(笑)。今はすべてがスマートになり過ぎて、システマチックになっているからさ。そういうことが起こりづらいプロレス界になっているよね」と答えるのでした。なかなか含蓄がありますね。
インタビュー3「“悪の化身”グレート・ムタの誕生」の冒頭には、「1989年3月、アメリカのWCWに突如出現したグレート・ムタはたちまちトップヒールへと駆け上がり、ジャイアント馬場、ザ・グレート・カブキに次ぐ日本が生んだメジャーリーガーとして現地で大きな成功を収めた。WCWで活躍した期間は1年弱にもかかわらず、前述のザ・ロックをはじめ90年代以降に活躍した多くのアメリカ人レスラーがインスパイアを受け、ムタは引退後の現在も日本はもちろんのこと、リビングレジェンドとして海外にも招聘されて、過去の栄光を知らない世代のファンをも魅了している」と書かれています。
1988年1月にカルロス・コロンが主催するプエルトリコのWWCに飛んだ武藤は、その後、テキサス州ダラスでスーパー・ブラック・ニンジャとしてファイトし、これがグレート・ムタのベースを作りました。小佐野氏は、「トップの待遇を受けていた武藤さんがプエルトリコを離れた理由は、7月16日にバイヤモン・スタジアムのシャワールームでブルーザー・ブロディがゴンザレスにナイフで刺され、翌日に死亡するという事件が起きたためですよね」と言うのですが、武藤は「俺が知る限り、ゴンザレスはジェントルマンでしたよ。だから、ビックリしたというのが正直なところ。あの事件の後、出稼ぎに来ていたアメリカンは残る残らないってガヤガヤしていたんだけど、俺と桜田さんは“別に俺らは関係ねえよな”って。だから、残ってもいい気持ちだったんだけどね。実際に、ポーゴさんだけは残ったし」と語っています。
1988年11月、アメリカのマット界が大きく変わりました。ケーブルテレビ局TBSの創業者で「テレビ王」と呼ばれたテッド・ターナーがNWAを買収し、WCW(ワールド・チャンピオン・レスリング)なる新会社が誕生したのです。そして、WWFに対抗するべく新たな人材を探していたWCW首脳部の目に留まったのがダラス地区で活躍していたスーパー・ブラック・ニンジャでした。1988年暮れにスカウトされた武藤は新キャラクターのグレート・ムタに変身して、翌89年3月18日にオンエアされたジョージア州アトランタでのTVマッチに初登場しました。
「WCWでのフレアーやディック・マードックとの試合は、若いレスラーとやる時とは明らかに違いますよね。もっとゆったりとしているというか、相手に身を委ねているというか」と言う小佐野氏に対して、武藤は「そういう人たちには、身体を預けられるからね。それにこっちが速く動いても、あっちは動けないわけで。スピードが違ったら、遅い方に合わせないと試合にならないから。フレアーの世界に入っていくのは、俺にとっては楽でしたよ。試合を創り上げてくれるからね。でも、嫌な人は凄く嫌でしょうね。フレアーは自分が認めないレスラーには何もやらせないから。それはプエルトリコの時のホセ・ゴンザレスもそうだった。ゴンザレスはブッカーだし、フレアーも俺との抗争が本格化した頃、WCWのブッカーだったんですよ。彼らにしたら、俺と試合をするのは心地良かったんでしょうね、きっと」と語っています。
対談2「武藤敬司✕グレート・カブキ」「父親から息子に受け継がれたもの」では、最後に武藤が「カブキになるまでの時代って10年ぐらいありましたけど、その10年の寝かしというかキャリアというのがザ・グレート・カブキを作り上げたという部分がありますよね、きっと。やっぱり試合技術とか、そういう部分をひっくるめて。カブキさんの血の出方なんか半端じゃないからね(笑)。これも一種の腕というか芸というか、技術なんですよ。よっぽど肉体的に突出したものか、そういう技術がないとアメリカは通用しないですよね。だから、俺らも自己プロデュースができる分、面白かったという部分もあるし。そういう自己プロデュース力というものがまた技術の向上に繋がるじゃないですか。考える力というか。だから、アメリカは面白いんですよ」と語っています。アメリカのプロレスの本質を衝いていますね。
インタビュー4「『闘魂三銃士』と『平成・新日本プロレス黄金期』では、「そもそも闘魂三銃士という形で蝶野、橋本と一緒に括られることを武藤さんはどう思っていたんでしょうか?」という小佐野氏の質問に対して、武藤は「その当時は、“そんなもん、嫌だなあ”と思ってたよ。だって、俺が先行してるじゃん。俺は自力で海外でも生きてたし。だけど、後々は括られて良かったなと思ったけどね。やっぱりずっと上昇していられないし、トップでずっとやるというのはしんどいじゃん。その中で橋本が上にいたり、蝶野が上にいたら、釣られて俺も上にいられるわけであって。それは休んでいてもね。三銃士ができた時・・・有明(88年7月29日=有明コロシアム、三銃士がワンマッチ凱旋)に出て、その年末ぐらいにまた日本に呼ばれたんだよ、確か。でも、俺はスケジュールがあるから帰れないって言ったんだよ」と答えています。
1993年9月20日、ムタは愛知県体育館で橋本真也に敗れてIWGP王座から陥落しました。小佐野氏の「橋本は藤波さんに一度ベルトを奪われたものの、95年5月3日に福岡ドームで武藤さんに敗れるまで1年8ヵ月もIWGP王座に君臨します。当時の長州体制で橋本は新日本の強さの象徴であり、エースだったと思いますが、武藤さんはどう感じていましたか?」という質問に対して、武藤は長州さんは好きなんだよ、きっとああいうタイプ。かといって、別にこっちはこっちで普通にエンジョイもしてるし。それからもう少し経ったらさ、小川直也が来て。あんなところに巻き込まれなくて、本当に良かったと思ってるよ。橋本はトニー・ホームとか、そういう変な輩ともやらされていたよね。まあ、俺たちも試合はやってるけど、タイトルマッチとかは俺はやってないと思うな」と答えています。
1995年10月9日の伝説の「新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面対抗戦」のメインイベントでUインターの不動のエース・髙田延彦と対戦した武藤は、ドラゴンスクリューからの足4の字固めというクラシックなプロレス技で勝利します。武藤は、「結果的にはあのドラゴンスクリューと足4の字があったからこそ、その後30年近く持ったんだよ、俺。あの技があったからこそ、試合を構成できた。膝が動かなくなっても、納得できるような感じにうまくできたんだ。これをやれなかったのが棚橋(弘至)だよね。棚橋はチャラチャラしたイメージで、エクステンションを付けたりして美少年みたいなイメージで、動きもずっと変えないでさ。俺なんか途中から禿げたりして、ジジイなりの動きになっていっているのに、あいつは変わらないイメージをやったから苦しくなっちゃったよな、途中で」と語っています。
その後、グレイシー柔術という黒船の来襲によって、日本のプロレス界には暗雲がたちこめました。「グレイシー一族が台頭してきた時、猪木さんがあるインタビューで“新日本の中でグレイシーに対応できる選手は誰ですか?”と聞かれた際に、“武藤かな”と答えているんですよ」という小佐野氏の発言に対して、武藤は「まあ、猪木さんにそう思われていることは光栄なことだよ。ただ、その時はプロレス界全体・・・猪木さんもそうだけど、臆病になっていたと思うよ。プロレス界の未来が呑まれていくんじゃないかって臆病になっていたと思う。あの当時、猪木さんが作ろうとしていたのはスーパーマンなんだよ。猪木さんの期待に応えられるファイターというのは作れないよ。プロレスもガチも強くてどうこうって・・・無理だって」と語っています。これは本音でしょうね。
1999年1月4日、橋本が小川直也にKOされて騒然となった東京ドームのメインで、武藤はスコット・ノートンからIWGP王座を奪取しました。武藤は、「あの1・4はグチャグチャだったよなあ。セミファイナルの橋本vs小川って、“オールスター”だからね。全員が出てきて、是認が動いて。その後、俺がメインで一人っきりで入場するんだからさ。大掃除するために、一人で。橋本と小川がやっている時、常にメインを締めていたのは俺だよね。武藤敬司。あの時代はムタじゃないよ。やっぱり、ああいう試合になると武藤敬司の方がやりやすいってことだよ。メインを任されるのがムタだったら、しんどかったよね」と語ります。それを聞いた小佐野氏は、「あの頃の新日本は小川直也、さらには大仁田厚も参入し、迷走している状況でしたが、最後に武藤さんのIWGP戦で締めて何とか体裁を保っていた印象があります」と言います。
1999年は5月3日に天龍源一郎を相手にIWGP王座の防衛戦を福岡国際センターで行っています。この試合は、プロレス大賞のベストバウトに選出されました。武藤は、「天龍さんとの試合は面白かった。全然違うよ、藤波さん、長州さんと。何て言うのかな・・・天龍さんは何か考えてくるしさ。長州さんとか藤波さんって、あまり考えてないから(苦笑)。天龍さんは、いろいろ考えてくるよ。常に一歩また違うこと、違うことみたいな。俺、40歳になる年に全日本プロレスに移籍して、そこでも天龍さんと試合するようになったけど、当時53歳だった天龍さんは『53歳』という技を出してたよね(笑)。俺、53歳になった時に“ああ、あの時の天龍さんと同じ歳かよ”って思ったもん(笑)」と語るのでした。
インタビュー5「新日本プロレス時代の“悪の化身”」では、1993年5月3日の福岡ドーム初進出で時のWWF世界ヘビー級王者ハルク・ホーガンとムタの夢の対決が実現したことが紹介されます。結果はホーガンのアックス・ボンバーでムタが日本で初のフォール負けを喫しましたが、小佐野氏の「武藤さんはプロレス入りする前からホーガンがお気に入りのレスラーだったんですよね?」という質問に対して、武藤は「ビジュアルがいい外タレが好きだったから、ホーガンも好きだったよ。WCWを辞める時にホントはニューヨークに行きたかったわけだから、興味もあったしね。実際に戦って、ホーガンは日本のプロレスをちょっとわかっている人だと思ったね。意外と巨体の割に上手いレスリングをしていたと思うよ。リング上が初めての対面だったけど、ホーガンもまた俺に対して好感触を得たんじゃないかな?」と答えています。
インタビュー6「追悼――“獄門鬼”マサ斎藤との思い出」では、2018年7月14日にパーキンソン病で亡くなったマサ斎藤について、武藤が「マサさんって、そんなにプロレスを語る人じゃなかったよ。理屈っぽい人じゃなかったしね。マサさんのプロレスは単純じゃん。序盤はレスリングで入って、悪いことをして、バックドロップとかをやって。だから、試合の中のストーリーで魅せるレスラーじゃなかったかもしれないな。見かけと一発の技・・・そういうもので魅せるレスラーだったかもしれない。意外にビジュアル中心じゃん、マサさんのセールスポイントって。マサさんは見るからにプロレスラー・・・ディス・イズ・プロレスラーという感じの人だもんな。今は、ここまでキャラが立った人はいないもんね。というか、こういう人材を必要としないプロレス界になっちゃった。今と昔じゃ名前こそ同じプロレスだけど、全然違うからな。あんなゲテモノはいないよ、今の時代に」と回想しています。
それを聞いた小佐野氏は、「ある意味でマサさん自身もゲテモノであろうとしたから、いつもパンパンの肉体を作り上げていたわけですよね」と言います。すると、武藤は「マサさんは、そういうのが好きなんだよ。だからマサさんが呼んでくるガイジンはデカくてさ。スコット・ノートン、バンバン・ビガロ、ビッグバン・ベイダー、トニー・ホームとか、それで俺らの身体がみんな壊れたんだよ。先頭に立たされるのは、俺たちだもん。マサさんは、筋肉フェチなんだよ。だから、俺もよくウェイトの練習を一緒にしたよ。でも、そろそろマサさんは肩が壊れてきていたから、最終的には凄い壊れたよ。そのぐらいから、元気がなくなっていったよ」と語ります。小佐野氏が「それは、いつ頃ですか?」と訊ねると、武藤は「俺が帰国したNKホールぐらいから徐々に・・・。マサさんの肩は俺の膝と一緒で、摩耗ですよ。軟骨がすり減っちゃって。練習のやり過ぎだよね。ベンチプレスで重いのが挙がらなくなっちまったよ」と答えています。
インタビュー8「“破壊王”橋本真也との再会と別れ」では、小佐野氏の「闘魂三銃士の中で武藤さんが一番年上になりますが、普段はタメ口で喋っていたんですか?」という質問に対して、武藤は「橋本は“ムトーちゃん”って言っていたけど、蝶野は“武藤さん”だったし、基本的には俺が年上という部分で若干敬ってくれていた。いくらプロレス界は年齢に関係なく早く入った方が先輩だといっても、そこは常識的な対応をしなきゃ社会に通用しなくなっちまうよ」と答えています。小佐野氏が「試合記録を見ると海外修行に出る前、ヤングライオン時代の橋本との対戦成績は武藤さんの全勝ですが、その頃はライバルという感覚はありました?」と訊けば、武藤は「今振り返ってみても、三銃士というのは俺にとってライバルじゃないですね。ライバルというのは、先輩とか他団体とかであって。三銃士は、どちらかというと運命共同体みたいな。三銃士は“絆”ですよ」と回想します。
「武藤さんから見て、橋本は自ら団体を創るような人間でしたか?」という質問には、「橋本真也を創ったのは、猪木さんなんですよ。アイツは猪木さんへの憧れが凄く強かったし、猪木さんの背中を見て育った。だけど、猪木さんの悪いところばかり見てるから(笑)。橋本は悪いところばかり真似してたよな。結果的に猪木さんだって新日本プロレスをまとめきれなかったから、きっと経営者としては失格なんですよ。まあ、俺も他の人のことは言えないけどね。全日本をああいう形にしたりして(苦笑)」と答えます。「具体的に、橋本が真似をした猪木さんの悪いところは?」という質問には、「ワガママなところ。それから協調性のないところ。だけど、猪木さんは協調性のないところをビジネスにしていたよね。俺、ZERO-ONEや橋本の内情は知らないけど、きっと行き詰っている中で・・・最後の方のハッスルとかは、プロレスラーの橋本真也にはあまりやってほしくなかったような」と答えています。
「最後に、武藤さんにとって橋本真也はどういう存在ですか?」という小佐野氏の質問に対して、武藤は「プロレスというのはさ、幅が広いからいろんな見方があるけど、この1年ちょっと若い人間に任せながらWRESTLE-1をやってきて・・・やっぱり、お客さんは“闘い”を見に来ているような気がして。俺らが三銃士としてやっていた当時を振り返ってみると、バリバリそれがあったよね。その中で、俺と蝶野は“感情”とか“闘い”がそんなに見えるレスラーじゃなかったと思うんですよ。もっとセンスとか違ったもので見せていたと思う。そこで唯一、三銃士という括りに“闘い”という重みを付けてくれたのが橋本だよね。異種格闘技っぽい試合も橋本がやったし。アメリカの大物レスラーが来た時は俺とか蝶野が先頭を切ってやらされたけど、訳がわかんない格闘家上がりみたいなのはみんな橋本がやらされて(笑)」と答えるのでした。
対談5「武藤敬司✕タイガー服部」「2023年2月21日、蝶野正洋戦で引退」では、服部氏が長州力率いる維新軍団の全日本移籍は猪木さんとの出来レースだという衝撃の発言が飛び出します。それから、以下の対話が展開されます。
服部 猪木さんはいろいろ考えていて、選手を減らしたんだと思うよ。
武藤 そうかな? だけど、長州さんがいなくなってから新日本は苦しかったですよ。ホントにお客が入らなかった。
服部 その辺は俺にはわからないけど、とにかく「1回、分けないと」という出来レースだったと思う。一番真面目な坂口さんは裏切られたと思っただろうけど、猪木さんと光雄(長州の本名)はある程度、できていたと思うな。
また、坂口征二についても以下のように語られます。
服部 坂口さんの時代の明治の柔道は強かったんだよ。関(勝治)さんって知ってる?
武藤 知ってる。有名人ですよ。全日本を制してるよね?
小佐野 61~64年に全日本学生柔道優勝大会を4連覇していますね。
服部 凄い強いんだよ。明治のキャプテンだよ。坂口さんも凄い強かったけど、感心したのは柔道の練習が終わった後にレスリングの地下道場で練習していたことね。
武藤 練習する坂口さん、見たことねえよ(笑)。東京オリンピック(64年)に無差別級で出たのは坂口さんじゃなくて神永(昭夫)さんだけど、明治大学の先輩後輩の関係で譲ったとか何とか負け惜しみを言ってたな(笑)。
ハルク・ホーガンについても、以下のように語られています。
武藤 ホーガンを一番プッシュしたのは誰?
服部 猪木さんだよ。猪木さんが育てなかったら、WWEもあんなにプッシュしていない。
武藤 確かAWAにも行ってるんですよね?
服部 その時も俺、一緒にいたもん。バーン・ガニアもまあまあプッシュしたけど、ロード・ウォリアーズとか息子のグレッグ・ガニアとか結構スターがいたからね。だから、ホーガンは猪木さんが育てたんじゃないの?
武藤 だからかな、ホーガンと試合をやった時にノートンとかとは違う何というか柔らかいレスリングをやったよ、最初。ビックリした、あの巨体でさ。そういうことを本人がやりたがっていたもん。向こうから出してきたからね。日本だと、アメリカではやらないレスリングをやっていた。やっぱりプロレスラーとしたら、ホーガンはアメリカの歴史の中でもトップですよね?
服部 それは一番だよ。
インタビュー9「戦評――アントニオ猪木vsモハメド・アリ」では、1976年2月6日に行われたアントニオ猪木vsウィリエム・ルスカ戦が、武藤がプロレスを観るようになったきっかけになったことが小佐野氏から明かされます。武藤は、「「うん、俺はルスカを応援していたよね。あれはプロレスvs柔道という形だったでしょ。俺、小学校2年から柔道をやっていたから。始めたきっかけは、『柔道一直線』かな。俺らの時代はアニメーションから入るから、『空手バカ一代』にも感化されたよ。でも、住んでいたのが山梨の田舎だから空手なんてないじゃん。柔道の方が身近だったよね」と語っています。「プロレスラーには憧れなかったんですか?」という小佐野氏の質問に対しては、「プロレスというのは、やっぱりファンタジーの世界だったね。あくまでもブラウン管の中の世界という感じで。身近にないもん、プロレスというものは」と答えています。
武藤が柔道に打ち込んでいた時期について、小佐野氏は「その頃、柔道をやりながら、“一体、どの格闘技が一番強いんだろう?”という疑問なり、興味なりは持ちました?」と訊くのですが、武藤は「ガキの頃にテレビで『姿三四郎』がやっていて、空手とかがヒールになったりして・・・でも、おそらく一競技をやっている人はね、どの格闘技が一番強いかなんて思わないですよ。例えば、俺は柔道をやっていたけど、メチャクチャ強かったわけじゃなくて、先輩の方が強いわけであって。そんな俺より強い人がナンボでもいる中で、“空手とやったら、どうやって勝つか?”なんて思ったらチャンチャラおかしいって。本当に強い人は強いよ。何をやっても勝てない、柔道というカテゴリーの中だったら。だって、こっちは立っていられないんだからさ。いや、俺もメチャクチャ強かったとは言わないけど、中学3年の時には県で一番強かったし、関東大会に行っても、そこそこ強かったんだよ。しかも、指導者がいない中でだよ。普通に学校の柔道部でやっていてだからね」と答えます。
「高校生の時には、木村政彦さんに会われていますよね」と小佐野氏が言えば、武藤は「山梨は国体とかがあるから柔道連盟と関係の深い企業があって、そこと拓殖大学のコネクションが強くてね。拓殖大学の合宿というと山梨に来ていたから、そこで一緒に練習をやらされましたね」と言います。小佐野氏が「直接、柔道を教わったんですか?」と質問すると、武藤は「教わったというか、打ち込みの受けぐらいはしたことがあるよ。ゴツイって感じがした。あの人はまさしく、その時代の本当のパワー柔道という感じだったんだろうね。本来の“柔よく剛を制す”とは逆の“剛よく柔を断つ”という柔道をやっていたんじゃないかなって組んでいて思いましたよ。それに教えることがそういう感じだもん。あとは“普通の人が1時間やるんだったら、俺はドン臭いから2時間は普通だし、3時間ぐらい練習した”とか言っていましたね」と答えるのでした。
「33年ぶりに改めて猪木vsアリ戦の映像を観た感想は?」という小佐野氏の質問には、武藤は「やっぱり昔の映画を観るみたいで、全体的にまったりしているというか。ただ、それは決して悪い“絵”じゃないですよ。映画でも今の方がスピード感はあったりするけど、昔のまったりしている良さもあるじゃないですか。それと同じ感覚ですよ」と答えています。「柔道という競技をやっていた武藤さんがプロレスに惹かれたのは、勝敗がすべてではないという要素なのかもしれませんね」と小佐野氏が言えば、武藤は「だって柔道はさ、白い柔道着を着て・・・特に重量級なんて面白くねえじゃん(苦笑)。動かなくてさ。特に昔の柔道は全然動かない。それに比べたら、プロレスは華やかだしさ。だから、柔道をやっている時にテレビでもプロレスは勝ち負けだけじゃないという見方をしていましたね」と語ります。
続けて、武藤は「だから、外タレが好きだったんだ。何が好きかといったらね、筋肉が好きだった。“負けたけど、こいつはいいよな”って。ビジュアルがいい奴が好きだったから。ミル・マスカラスも好きだったよ。それにハルク・ホーガンとかも好きだったし」と言います。小佐野氏が「プロになる前には新日本と全日本、どちらを観ていたんですか?」と訊くと、「両方観てましたよ。それぞれに旬の時があるじゃないですか。全日本だったらアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、ザ・ファンクスとか。あの辺は全日本を観ていたし、異種格闘技戦とかタイガーマスクの頃は新日本が面白かったし。異種格闘技戦ではモンスターマンが好きだった。モンスターマンの蹴りは美しく見えたというか、しなかやに見えたから。カッコ良かったねえ。あとは異種格闘技でさ、手錠を引きちぎるような奴がいたじゃん」と言います。カンフーの全米王者という触れ込みで猪木と戦ったレフトフック・デイトンのことですね。
「その答えがないプロレスと競技であるボクシングの現役世界ヘビー級王者が激突するということで、猪木vsアリ戦は試合前も試合後も“真剣勝負なのか? それともショーなのか?”ということが世間で大きな話題になりました」と小佐野氏が言えば、武藤は「そこさえも呑み込んでしまうのがプロレスなんじゃないの? そこにファンタジーがあるんじゃない? ただね、プロレスはファンタジーとはいっても、そこには当然ながら観客を納得させる本物の技術がなきゃダメだと思うよ。だから俺、プロレスをやる上で最初の5分ぐらいが一番好きだもん。お客がシーンとして集中してくれる時の快感が何とも言えない。ここから、どう試合を構築してやろうかなって。前菜というか、そこが一番面白いところだよ」と語っています。至言ですね。
「では、武藤さんにとってアントニオ猪木はどういう存在なんでしょう?」という小佐野氏の質問に対しては、武藤は「背中を見ているわけであって。逆に言えば、反面教師みたいな部分もあるしね(苦笑)。というか、成功したことは真似して、成功していないことは真似しないとか。反面教師という反面の中のひとつは、俺が全日本プロレスに来たということだよ。新日本が総合の方に行く予感があったから、“これじゃ、俺のアメリカで培った十数年で学んだ経験とかすべてのキャリアがなくなるな”って。一回の人生、何で培ってきたキャリアを潰さなきゃいけないんだという理由で来たというのもあるし。猪木さんはアリ戦にしたって、そうだよ。話題を作るのは上手いよね。ただ、ケツを拭くのが下手というかさ。話題を飛ばすのも大事なんだけど、話題ばっかり飛ばして、結末がしょっぱくてファンが離れていったのも見ていたから」と答えるのでした。つくづく、武藤は正直な人だと思います。
インタビュー10「戦評――“昭和の巌流島”力道山vs木村政彦」では、前巻の佐山聡に続いて、武藤敬司に「昭和の巌流島」のビデオを見せて感想を聞いています。非常に興味深い企画であると思います。最初に、武藤は「まあ、この試合は、“柔道の木村”と“相撲の力道山”の対決というニュアンスが強かっただろうから、お互いに倒れることを毛嫌いしているような展開だよね。そんな中でも力道山の方が人に見られている意識というかさ、人にどう見せるかということには長けていたと思うよ」と語ります。また、「きっと木村先生の方が純粋というか、ストイックなんだよ。もっと武士的というかさ。だから、木村先生は「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ」と言ったんじゃないの?」とも語ります。
その後、武藤は非常に重要な指摘を行います。「残っている映像は木村先生が攻められているシーンばっかりだよな。これ、やっぱりかなり編集されているよね?」と言うのです。これは、わたしも目から鱗でした。武藤は、「中盤の木村先生が腕緘み(ダブルリストロック=チキンウイング・アームロック)に行って、力道山が堪えるシーンの最後の方もカットされてない? そこを見たかったよ。だってアレ、木村先生の得意技だからね。どっちが強かったかという比較は難しいよ。やっぱり、それぞれに特性ってものがあるよね。柔道をやっていた側からすれば、寝かせてしまえば腕を取るだけじゃなくてチョークもあるよね。昔の柔道だったら足関節・・・足緘み(ヒールホールド)もあっただろうし。木村先生は、寝技がメチャクチャ強かったというしね。寝技ばっかりの高専柔道というのでも強かったって聞いてるよ」と語っています。
力道山の空手チョップが頸動脈に叩き込まれて木村が失神するという凄惨な試合結果にしても、武藤は「最後も木村先生は意識があるように見えるんですよ。きっと『立たない』という選択をしたんだと思う。試合放棄だよ。おそらく純粋なんだよ、木村先生の方が。あそこまでなっちゃって、試合をどうにか成立させようとして立たなかったようにも見えるもんね。でもさ、木村先生の瞼が切れたり、歯が折れたりしたってことは相撲でも柔道でも競技中にそうあることではないから、やっぱり凄いことだったんですよ。あとは漫画の『空手バカ一代』なんかを読んだ記憶では、試合後に大山倍達さんが力道山に挑戦を迫ったんだよね? それをやったら、プロレス界としたら次に繋がったと思うよね。でも、やらなかったのは、どうしてなのかな? とにかく疑問が多いよね」と語ります。さすがは一流のプロレスラーだけあって、鋭いですね。
さらに、武藤は、「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだから、真剣勝負なら俺の方が強い」という木村の発言がプライベートなものだったとしても、それが試合を盛り上げる演出として消化されれば良かったと思うとして、「それでは済まされなかったんだろうね。その後の大山倍達の挑戦にしても、ちゃんとビジネスとして繋がっていけば面白い展開が生まれたと思うんだけどね。基本的にプライベートをそのまま持ち込むことはないんだけど、それでもプロレスというのは、その選手の人間性が出ちゃうものなんだよ。そんな中で、力道山はやっぱり破天荒なんだろうな。木村先生は生真面目でストイックでしょ。その違いはあるよね。周りから見たらさ、破天荒な奴の方が面白いもんな。やっぱり固まっている人間より、どうなるかわからない破天荒な人間の方が面白いよ。トバッチリを食う人間にとっては、とんでもないことだけどさ(苦笑)」と語っています。
最後に、武藤は「プロレスというのは、観る人の心が動かないとダメだよ、きっと。やっぱり感動というのがプロレスのキーワードだと思いますよ。最終的には、感動が集客力に繋がると俺は思うんだ。その意味では、この力道山vs木村政彦の一戦は間違いなく日本国民の心を動かしたと思いますよ。後でああだった、こうだったとか、どう言われようがさ。例えば映画はフィクションだけど、それを観て、心を揺さぶられて涙を流したりするわけでしょ。人に見せるエンターテインメントという意味、芸術としてはプロレスだって映画だって原点は一緒だと思いますよ」と語るのでした。この言葉には、プロレスに対する武藤の愛情、プロレスラーとしてのプライドがすべて詰まっています。やはり、武藤敬司はただ者ではありませんね。