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No.2484 歴史・文明・文化 『日本文化は絶滅するのか』 大嶋仁著(新潮新書)
2026.07.27
政府による強引な皇室典範改正いや改悪には、日本人として絶望的な気分になりました。これは今後に禍根を残すことはもちろん、日本文化そのものの危機を招くとか思えません。『日本文化は絶滅するのか』大嶋仁著(新潮新書)を紹介します。わたしは現在、 一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の理事長を務めていますので、非常に切実なテーマです。著者は1948生まれ。比較文学者。東京大学大学院博士課程修了。パリ国立東洋言語文化研究所で日本思想史・日本文学史を教えた後、福岡大学教授(現在は名誉教授)。「からつ塾」運営委員。著書に『科学と詩の架橋』『生きた言語とは何か』『1日10分の哲学』など。
本書の帯
本書の帯には「政治でも経済でもない、『日本人の精神』が危ない。」と書かれています。また、帯の裏には「「歴史」よりも「神話」を優先/神話的思考の民族/「歌は生命の発露」という発想/不定型を尊ぶ美学傾向/土着と外来の共存/レヴィ・ストロースの「トーテム型社会」/倫理的観点から見ての欠落/二極のあいだの「ゆらぎ」/和魂洋才のバランス感覚/宗教とイデオロギーの混淆/鎖国と日本文化の完成/神話と宗教から近代科学へ/法の世界と生活感覚の乖離/内的な矛盾と精神の疲弊・・・・・・他 『目次』より」と書かれています。
本書の帯の裏
カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「歴史より神話、自然に親しむ汎神論的な世界観、土着と外来のハイブリッド、『中空』と『ゆらぎ』の構造・・・・・・この国の始まりから続く、日本人特有のものの考え方や振る舞いなど『目に見えない精神』が、グローバリズムという現代世界の潮流に呑み込まれようとしている。和辻哲郎、西田幾多郎、レヴィ=ストロース、鈴木大拙など先人の思想をひもとき、日本文化の起源と構造、変容と危地を浮き彫りにする」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
序 章 「日本文化」はいつ生まれたか
第一章 日本文化の原点とは何か
……生命主義的な世界観
第二章 日本文化の基本構造とは何か
……並立と共存のバランス志向
第三章 日本文化はどのように歩んできたか
……土着と外来が並立する国
第四章 近代は日本文化に何をもたらしたか
……「聖なるもの」の破壊
第五章 現代世界は日本文化を崩壊させるか
……普遍主義と「無人時代」の到来
「あとがき」
「参考文献一覧」
「はじめに」では、著者がフランス留学で得た最大の宝はレヴィ=ストロース(1908-2009)であったことが明かされます。この人類学者の著書と出会ったことで、著者ははじめて人類を知り、同時に日本人を知ったのといいます。当時著者の手にした彼の著書は『悲しき熱帯』と『野生の思考』でした。そこに日本文化のことは書かれていなかったのに、著者は密かに、「これは日本人のための書だ、日本文化を言い当てた書だ」と思ったそうです。なぜそう思ったのか? それは著者が専門とした「未開社会」の文化が、根本的に日本文化とつながるものだと感じたからです。日本文化は人類の文化の1つの典型であり、その構造も、そこではたらく「記号の論理」も、レヴィ=ストロースのいう「野生」のものだと痛感したのです。
著者は、「現代世界のありようは、正直、日本文化の存続を脅かすものです。『グローバル化』の名のもとに、世界のあちこちの文化が根こそぎにされ、日本文化も例外ではありません。そういう状況下、私たちは何をすべきか、読者に考えてもらいたいと思います」と述べています。そもそも人類の文化は「共存」を志向するものでした。日本文化もその線に沿ったものでした。しかし、その「共存」志向は「近代」と呼ばれる時代になって破壊されます。現代世界はその破壊をさらに加速させています。著者は、「このままいけば、世界中の文化が消え去ってしまい、人類は人類でなくなるでしょう。日本文化がその『共存』の思想を復活させることができれば、大いに世界に貢献できるでしょう。しかし、果たしてそれができるか、わかりません。それでも、準備だけはしておかなくてはならない。ひとりひとり自分の中に文化を見つけ、過去と現在をつなぐ1本の糸を見つけておくべきだと思います」と述べるのでした。
序章「『日本文化』はいつ生まれたか」の「目に見えない精神」では、「日本文化」というと、生け花や茶道、柔道や剣道、あるいは和服と和食、あるいは伝統の祭りなどを連想する人が多くいると指摘し、著者は「ここでいう『日本文化』は、そうした伝統を象徴する事物ではなく、それらを貫く『目に見えない精神』とでも言うべきものです。言い換えれば、日本という国ができてから変わらずに続いてきた考え方、ものの見方、身の振る舞い、そういったものを指します」と述べています。
「時間の蓄積の上に」では、文化は世代を超えて伝達されることが指摘されます。1日にして出来上がるものではありません。わたしたちは過去から現在に至る時間の蓄積の上に生きており、その蓄積が文化なのです。ある国の文化とは、それがなければその国が成り立たないほどに重要なものであるとして、著者は「世界に数ある文化にはそれぞれ価値があり、それぞれが大切なものだと私は思っています。生物の世界がさまざまな種によって成り立っているように、人間の世界はさまざまな文化で成り立っているのです」と述べます。
つまり、どの文化も世界全体に貢献しているのです。それが病気にかかっていない限り、貢献できるのです。その意味で、著者は世界の諸文化が健全な状態であってほしいと願っているそうです。病にかかった文化は、病人が治療されねばならないように、治療されなくてはならないとして、「政治が文化をつくるのではなく、文化が政治に反映されるのだと私は思っています。たとえば、ロシアの政治が独裁的になりがちだとすれば、それはロシア文化にそれを求める傾向があるからです。それが文化であるならば、それなりの必然性があり、余所者がとやかくいう筋合いのものではないでしょう」と述べるのでした。
「『歴史』よりも『神話』を優先」では、「日本」という国ができたのはいつかという問題が提示されます。『日本書紀』(720年完成)による日本建国は神武天皇の即位のときとなっています。これを西暦に換算すると紀元前660年2月11日ということになり、これをもって日本誕生とする人もいます。しかし、著者は「そもそも神武天皇の実在を示す根拠が見つかりません。神武天皇は歴史上の人物なのか、それとも神話の英雄なのか。そこがはっきりしないのです」と疑義を呈しています。
それなのに、2月11を「建国記念の日」とするのは、どういうことか。著者は、政府は「歴史」ではなく「神話」を優先させているといいます。しかもその神話は、人類の最も古い時代にできた神話とは異質のもので、自然や宇宙の起源、人類の起源に関する物語を含まず、ひとつの国家の成立を正当化するための特殊な神話であるといいます。著者は、「私は神話一般を『嘘』として否定するつもりはありませんが、神話を歴史事実として主張することには反対です。まして、国が定めて国民にのみ込ませるような神話は、決してよいものとは思えません」と述べます。
「日本」という国ができたのはいつ頃かという話に戻ると、およそ7世紀の後半、天智天皇の治世のころというのが定説のようです。ヤマト国家の体裁が整ったからですが、著者は「『文化』の観点からすると、私は日本文化の始まりをそれより少し前、聖徳太子の時代に設定します。彼がいなければ、土着の文化が『文明』になり、私たちの知る『日本文化』にはならなかったからです。聖徳太子は『日本文化の父』、そう言えると思います」と述べるのでした。わたしも日本文化のルーツは聖徳太子にあると考えていますので、著者の考えには大賛成です。
第一章「日本文化の原点とは何か・・・・・・生命主義的な世界観」の「『古事記』と『三柱の神』」では、「ものごとは根源に遡って考えよ」という言葉にならって、著者は日本文化の根源を探り、日本最古の書と言われる『古事記』(712年完成)にたどり着いたことを明かします。『古事記』の前にも文字で書かれたものがあったのですが、それらは漢文であって和文ではありません。したがって、日本最古の書といえば、やはり『古事記』なのです。この書に登場するアメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)、タカミムスビノカミ(高皇産霊神)、カミムスビノカミ(神産巣日神)は「三柱の神」とも「造化三神」とも呼ばれ、日本神話における天地創造の始まりに登場する神々です。
これら始原の神たちは、混沌とした世界の創世において非常に重要な役割を果たし、宇宙の生成と秩序の源とされています。三神のうち、2つに「ムスヒ」という名がついています。著者は、この言葉に注目します。「ムスヒ」を『古事記』では漢字で「産巣日」と表していますが、「産」は出産の産であるし、「巣」は卵巣を連想させるから、そこに生殖と生命の意味が宿っているのではと想像されます。しかし、当時はまだ「卵巣」という語はなかったでしょう。古語辞典を引くと、「ムスヒ」の「ムス」は「生じる」の意味で、「ヒ」は「神霊」のことを指すと書いてあります。そうなると、これは「生じる魂」すなわち「生命力」のことだとわかります。
「ムスヒ」という語に注目すると、「産霊」と記されています。「産霊」とは「生殖の魂」といった意味で、現代風にいえば、「生殖エネルギー」「生命エネルギー」といったところです。これで「ムスヒ」の意味から、日本文化の原点が生命主義であり、その生命が生殖と結びついていることが見えてきます。著者は、「なるほどそうだと思われるのも、『古事記』に最初に登場する男女神、イザナギとイザナミの『国生み』神話にしても、同じ生命主義的な世界観を表しているからです。このカップルは性行為によって『国』を生んでいます。その国が『日本』の母体なのです。『世界は生命であり、生命とは命を生み出す力である』という世界観がはっきり現れています」と述べるのでした。
「汎神論」では、一神教の「一」と多神教の「多」は反対概念であることが指摘されます。「反対概念は両立しない」というのが論理の原則です。両立させれば矛盾が生じ、矛盾は論理に反するので、排除されるのですが、『古事記』の世界にはこうした論理がありません。神は「一」でもあり、「多」として現れてもいます。「一」は「多」を排除していないのです。『古事記』は奈良時代の前期に生まれましたが、奈良時代後期に入った仏教論理学、さらには平安初期に入った天台仏教が、上記の問題に論理的な答えを提供してくれました。その答えとは「一即多、多即一」という往還の論理です。「一と多は、対立しているというよりは同じものの現れのちがいであって、時に応じて一になったり、多になったりする」という考え方なのです。
「神話的思考の民族」では、「日本文化はどういう文化なのか?」と問われたら、著者は「神話的思考の文化だ」と答えるといいます。なぜなら、何か出来事があると、すぐそれを神話にする傾向があるからだそうです。著者は、「日本を『神の国』と信じる人もいるでしょう。その人たちは『日本には天皇制があるから』と答えます。しかし、いかに天皇制に信を置くとも、『日本文化の核が天皇にある』と三島由紀夫のように主張する人はそれほど多くないでしょう。『天皇神話は日本史の核である』という説を否定するつもりはありません。しかし、その神話の影響力を過大評価してはいけません。というのも、天皇という存在が人々の意識にのぼった時期はそう長くはないからです」と述べています。
著者によれば、時代ごとの為政者は天皇を自身の権力強化のために必要としたでしょうが、天皇が神や仏よりも大切なものとされたのは明治以降のことだといいます。一条真也の読書館『文化防衛論』で紹介した本で、三島由紀夫が訴えたように、天皇をもって「日本文化の核」とするのは、あまりにも「近代的」であり、日本文化の本筋からそれたものだというのです。さらに著者は、「日本文化が神話性に満ちていることは、『日本人には歴史的思考が乏しい』ということにつながります。神話と歴史は永遠の敵どうしですから。フランスの日本史家ミッシェル・ヴィエはいみじくも言いました。『日本は歴史の中にあるが、歴史は日本の中にはない』と。日本最古の史書と称される『日本書紀』が神話物語で始まっていることが、なによりそれを示しています」と述べます。
「和辻哲郎のいう『風土』」では、日本人が究極大切にして来たのは何だろうかと考えて、そこから神話や宗教を取り除いていって残ったものが「風土」です。和辻哲郎がいう「風土」であるといいます。「風土」は「自然」に密接していますが、人間に馴染んだ自然です。単に「風景」というよりは、わたしたちの想像の世界に住みつく「永遠の自然の風景」です。「兎追ひし彼の山 小鮒釣りし彼の川」とあるように、心の故郷なのです。著者は、「この故郷は人によって姿が異なるでしょう。しかし、「故郷である」という思いは同じです。そうであればこそ、人それぞれ思い浮かぶ風景は異なれど、心はつながるのです。このことを最もよく表しているのは歌です」と述べています。
「抒情が叙事に優先」では、『古事記』『日本書紀』を編纂した奈良時代の人々にとって、「歌謡」はなくてはならないものだったのではないかと推測しています。日本文化は「歌の文化」だといいます。西洋の場合は叙事詩というジャンルが発達し、歴史的な出来事を歌謡にする伝統があります。一方、『古事記』には出来事の語りはありますが、歌謡が登場するのは登場人物の感情表現のときにかぎられます。著者は、「抒情は情緒の表現で、出来事の叙述ではない。どうやら日本文化は、『抒情が叙事に優先する文化』と言えそうです」と述べます。
「『歌は生命の発露』という発想」では、日本文化が歌の文化であることは、江戸時代中期に現れた国学者たちが強く主張したことでもあったことが指摘されます。その中心人物である本居宣長(1730-1801)は、「歌こそ人を人たらしめるもの」として、歌を学ぶ重要性を説きました。宣長によれば、人はさまざまな感情をもっているが、それを歌にして表現できることで人間らしい心が育つ。逆に、それができないうちは、「本当の人間にはなれない」ということなのです。宣長はこのことを「もののあはれを知る」という言葉で表しています。「もののあはれ」とは事物に接して感動することです。人間はその感動を「知る」必要がある、と言っているのです。
現代の脳科学者アントニオ・ダマシオは、著書『デカルトの誤り』で身体と脳の関係を研究し、「動物的な情動が人間的な感情へと発達していく過程が人間の知性のもとになっている」と言っていま。これを本居宣長の「もののあはれ」論につなげると、宣長が言いたかったのは、「歌がないと、動物から人間への移行はできない」ということになるとして、著者は「もし日本文化が『歌の文化』であるならば、この文化は動物を人間にする文化であり、人類の基本的な文化であると言えるでしょう」と述べるのでした。
「『漢風』と『ヤマト風』の二重性」では、「日本」という国名について考察されます。これが中国に対しての名称だったことははっきりさせておかねばならないといいます。「日本」と「ヤマト」は同じ国を指す言葉であり、一方は外向きで漢語、他方は内向きで和語なのです。このことで重要なのは、この2つの名称が並行して用いられてきたことであるとして、著者は「そこに、日本文化の重要な鍵があるのです。同じものを『ヤマト風』に見ることと、『漢風』に見ることと、この両方を並べる。それが日本文化なのです。私はこれを日本文化の『二重性』と呼びます。この二重性は日本文化のさまざまな側面に現れ、それが日本文化の性格を決定しています。たとえば、今でも日本では西暦と元号がともに用いられています。西暦2025年と令和7年。このどちらも用いられているのです」と述べています。
江戸時代後半に登場した国学者たちは、『古事記』の世界が「純粋な日本」を表しており、そのあと儒教や仏教、それに漢字が入って日本文化は不純になったと信じていました。しかし、『古事記』の世界にもすでに大陸の文化の影響が入り込んでいることを見逃してはならないという著者は、「『純粋な日本』を認めるか否かは重要な分かれ目です。なぜなら、明治から昭和にかけての国粋思想は、まさに江戸後期の排外的な国学思想の生み出したもので、それが日本人をほんとうの日本文化から遠ざけてしまったからです。日本文化はあくまでもハイブリッド。このことを認める必要があります」と述べます。これもわたしの持論と同じであり、大賛成です。
ハイブリッド性こそが日本文化だと認めるとき、日本人は外の世界を排除しようとする狭隘さから解放されるといいます。日本は「外の世界あっての日本」なのです。日本文化の中にすでに「外の世界」が含まれているのです。ただし、気をつけておかなくてはならないことが1つあるとして、著者は「日本文化の中に『外の世界』が入っているとしても、それは日本人が想定する範囲内での『外の世界』なのであって、実際の外の世界からはズレたものだということです。つまり、日本文化に含まれている『外の世界』は真の『外の世界』ではなく、日本文化の枠組みに適合するために変形され縮小された『外の世界』です。このことを自覚しないと、とんでもない誇大妄想となります」と述べるのでした。
「『中空構造』から『無の場所』へ」では、近代にまで続く日本文化の根源に関わる「中空構造」の考え方が、近代の哲学者である西田幾多郎の「無の場所」という思想に通じることが指摘されます。「無の場所」の具体例として、著者は相撲における「土俵」を挙げます。土俵は聖なる場所で、力士はまずこの土俵に敬意を払わねばなりません。これがなければ相撲は始まりません。相撲は今ではスポーツとされていますが、その起源は宗教的なものです。そこでは最低限の儀礼が必要とされており、現代の相撲にもその名残があります。著者は、「西田の『無の場所』が河合のいう『中空構造』とあまりにも似ているので、西田は『古事記』の三柱の神に影響されていたのではないかと思えてきます。しかし、その証拠をつかみ出すことはできません」と述べるのでした。非常に興味深い問題ですね。
第二章「日本文化の基本構造とは何か・・・・・・並立と共存のバランス志向」の「土着と外来の共存」では、奈良時代には『古事記』が編纂されましたが、それから8年後に『日本書紀』が編纂されたことが紹介されます。このふたつを並べてみると、ここにも同じ「基本構造」が見つかるといいます。前者は古の神話伝説の類を集めたもの、後者は中国の歴史書に準じたもの。前者は「土着」、後者は「外来」ということです。日本文化は「神話」と「歴史」を並立的に配置し、その共存を試みてきたのです。「日本」という国名にしても、実は日本文化の基本構造を表しているといいます。現在の日本では「日本」1つしか使用していませんが、「日本」のほかに実は「ヤマト」があります。「日本」は中国を意識しての呼び方、「ヤマト」は日本式です。すなわち、「外来と土着」の二項なのです。ここにも「対立」を「並立」にもっていく構造があるのです。
「記号としての『天皇』」では、「天皇」という記号が指し示すものは、なによりも国家としての「日本」であることが指摘されます。それは天皇の起源を示す歴史が示しているとして、著者は「国家とは政治的単位であって、文化的単位ではありません。多くの日本人が『文化』と『政治』を区別せず、『国家』と『文化』を区別しないでいるのは残念でなりません。そういう混同があるから、三島由紀夫のように『日本文化=天皇制』のようになってしまうのです」と述べます。日本文化が「神話的記号システム」であることについて、このシステムが「外来」と「土着」の二分法に基づいているといっても、ときには「外来」のものが「土着化」して記号的意味が変わることも指摘します。つまり、初めは「外来」を指示する記号であったものが、時が経つと「土着」を指し示す記号となるのです。
第三章「日本文化はどのように歩んできたか・・・・・・土着と外来が並立する国」の「最初からハイブリッド」では、古墳時代と呼ばれる時代に鉄器をもつ人々が朝鮮半島や中国大陸から入って来て、その彼らがヤマトと呼ばれる国家のもとを形成したと言われることが紹介されます。これがなければ「日本」は生まれなかったというのですが、著者は「確かに、鉄器の導入によって石器が後退し、文明的要素が縄文や弥生の焼物文化の上に重なる。さらにそこへ仏教と漢字と儒教が入ってきて、これでいわゆる『文明国』の体裁が整ったといえるのです」と述べています。「仏教精神を基盤とする国」では、日本文化は7世紀になって大きく膨んだことが指摘されます。聖徳太子が登場し、本格的な文明化を企図したのです。太子は仏教について深い理解を示した人ですが、漢文にも習熟しており、当時の日本の最高の知識人でした。その彼が熟達した漢文で「十七条憲法」(604年)を作成し、日本の進むべき道を示したのです。
ヤマトが国家としての体裁を整えたのは7世紀半ばの天智天皇の時代ですが、この時代に日本文化の運命が大きく変わる出来事が起こりました。663年の「白村江の戦い」です。この戦争は、朝鮮半島の百済が唐と結んだ新羅に滅ぼされたので、ヤマトが百済復興の支援するべく援軍を送り込んだことで起こったもので、ヤマトと百済の連合軍の大敗で終わったのですが、著者は「当然ながら、以降の日本文化の方向性が変わります。変わったのは、文化の質よりは外来文明の出どころです。それまでは、朝鮮経由で入ってきていたのに、今度は唐という強大な帝国から直接に吸収することになったのです。百済が敗れ、その残党がヤマトに逃げて来たのですから、新羅とは対決することになります。その結果、朝鮮半島の文化とは一線を画すようになったのです」と述べます。
仏教の教えを要約すれば、次の3つになるといいます。1つは「この世に常なるものはなく、存在していると思うものは必ず消え去る」という思想。2つは、「この世に実在すると思われている一切は、実は中身のない現象でしかない」という思想。そして3つは、「すべての出来事にはそれが生まれ出る原因があり、またその出来事が起点となって別の出来事が生まれるものだ」という思想です。これらを中国式の四字熟語でいうと、「諸行無常」「諸法無我」「因果応報」となります。著者は、「それだけではありません。仏教では『慈悲』を重視します。仏教の倫理というべきものです。この倫理は宇宙と人間精神の原理を悟るところから出てくるもので、『すべては苦しんでいる』という生存そのものの苦しみへの共感を意味します。キリスト教のmisericordia、すなわち『苦痛への共感』に近いものです。この慈悲あればこそ、仏教は一見して個人主義的な心理探究の世界のようでいて、そうではなくなるのです。仏教は哲学であり、心理学でもあるが、やはり宗教なのです」と述べるのでした。
「聖徳太子『世間虚仮』の意味」では、聖徳太子が取り上げらます。太子が日本仏教の祖と言われるのは、彼なりの仏教経典の解釈を記していることからも納得できます。多くの経典の中から極めて実践的なもの、僧侶にならずとも実践できるような教えを説く経典を3つほど選び、それに解釈を加えたのです。法華経、勝鬘経、維摩経。彼はこれらの経典の解釈をとおして、日本人が進むべき仏教の道を示したのです。著者は、「彼が経典解釈を通して示したのは、『僧侶のように世を捨てて瞑想三昧になるよりは、普通に生活し、なすべき仕事をしながら仏の道を実践せよ』ということです。この教えは後の日本仏教の基本線となるもので、日本仏教が日常生活の営みと切り離せないものとなったのは、彼の道案内によるものなのです。つまり、現実的でありながら、現実を超えた世界を垣間見る道。『眼に見えるもの』の中に『眼に見えない真理』を求める道。そのような道を示したのです。となると、聖徳太子ほど、日本文化にとってありがたい人はいないのではないか、と思ってしまいます」と述べています。
「神仏並立と蒙古ショック」では、仏教が日本化されていくにつれ、土着の宗教が己の立場を主張するようになったことが指摘されます。結果、仏教に対峙する形で「神道」が生まれます。それが起こったのは鎌倉時代から室町時代にかけて。それまで「仏」に包摂される形で生きていた「神」が、ここで自立の意思を表明しはじめるのです。著者は、「『神道こそが日本の宗教だ』ということを時々耳にします。仏教はあくまでも『外来』の宗教だという見方です。しかし、『神道』と名のつく宗教は、仏教が日本に渡来するまで存在していなかった。このことに、もっと留意すべきです。仏教渡来以前の土着宗教は自然崇拝に類するもので、それが仏教と出会うことで自らの立場を自覚するようになって、『神道』という名の宗教となったのです。つまり、仏教なくして神道はあり得ない。『外国なくして日本はない』というのと同じ理屈です」と述べています。
神仏並立といっても、神と仏のバランスはつねに安定していたわけではありませんでした。13世紀後半にモンゴルの襲来があって、日本全体が国家的危機感に見舞われたときには、「神道こそが日本文化のアイデンティティーだ」という主張が浮上し、神仏の均衡が大きく揺らぎました。どうしてそうなったかといえば、仏教はもともと固有の民族のためのものではないので、これを民族のアイデンティティーとすることはできないからです。著者は、「民族意識の根拠としては土着宗教しかなく、『神道こそは我々の宗教』という意識が芽生えたのです。『蒙古ショック』はそのような意識を、少なくとも一部の日本人に覚醒させたといえるでしょう」と述べるのでした。
「カトリック教の非寛容」では、いくらカトリック教に転じた日本人が急増したとはいえ、大半の日本人がカトリック教の信者にならなかったこともまた事実であるといいます。それはどうしてか? すでに仏教があったから、ということは確かですが、著者は「それ以上に、カトリックの教義が日本文化にそぐわないものを持っていたと考えられるのです。これをもっと具体的にいうと、カトリック教の自然観が、日本文化が育ててきた自然観と相容れなかったということです」と述べます。そのことを最もよく示しているのが、一度は熱心なカトリック教徒になり、やがて棄教するに至った不干斎ハビアンの『破提宇子』(1602年)です。著者は、「この書を読めば、なるほどカトリック教は日本文化の精神とは合わないものとわかります」と述べています。
「鎖国と日本文化の完成」では、今日わたしたちが知る「日本文化」は江戸時代に完成されと述べられます。現代の日本語の原型が室町時代にできたことから、室町時代を日本文化の完成期と捉える人もいるでしょうが、一般人が「日本文化」とみなしているものは、やはり江戸時代につくられたものだといいます。著者は、「たとえば、雛人形とか五月人形といったもの、盆とか正月といった行事、これらは江戸時代に確率されたと言われています。私たちの日常にアクセントを与えている『伝統行事』は、ほとんどすべてが江戸時代につくられているのです」と述べます。この「伝統行事」は、わたしのいう民衆的儀礼としての「民禮」にも通じます。
「サンデー毎日」2015年11月1日号
江戸時代はそれまでの日本文化を整理してひとつのシステムに仕上げたのです。平安朝の文学にしても、さらにその前の時代の神話や歴史物語にしても、いずれもが江戸時代に整理され、私たちが接することのできるものとなったのです。江戸時代の生み出した文化として特記すべきは、「神仏並立」の制度化です。中世以来のこの宗教文化が、公式的に「あるべきもの」となったのです。神道も仏教も日本人の公式の宗教となり、日々の生活の核となりました。さらには儒教の存在を忘れることはできません。神道・儒教・仏教は「日本人の心の三本柱」であるというのが、わたしの持論です。
第四章「近代は日本文化に何をもたらしたのか・・・・・・『聖なるもの』の破壊」の「ペリー来航と植民地主義」では、日本文化の基本構造は「対立」する二項があれば、その両方を「並び立たせる構造」であることが指摘されます。ところが明治政府はこの構造を無視し、二項のうち1つだけを選択しました。すなわち、日本文化の伝統が大切にしてきた「共存の思想」の逆を行ったのです。日本は「世界史」への参入によって、自らの文化を破壊する方向に進んだといえます。著者は、「いくら状況が厳しかったからとはいえ、政府みずから神道と仏教を分離し、神道を国家宗教として位置づけたことは(「神仏分離令」明治初年)、欧米諸国に倣った暴挙だったのではないでしょうか。神仏の並立は長いあいだに築き上げた文化の達成だったのに、これをいとも簡単に破壊するとは。このような暴挙は戦国時代の武将たちにはなかったし、徳川幕府にもありませんでした。明治政府には文化的感性が欠如していたのではないでしょうか」と述べています。
「蒸気革命と産業革命」では、ペリーの来航が日本にもたらしたものは、「世界史」が植民地主義で成り立っているというヴィジョンだけではなかったことが指摘されます。というのは、彼が乗ってきた船が「蒸気船」であったこと、それが多くの日本人にとってショックだったのです。「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も寝られず」という狂歌は、そのショックを見事に表しています。鷗外が言ったように、「鉄道」はたしかに19世紀最大の産物の1つです。19世紀とは蒸気機関の世紀だったのです。日本人がペリーの艦隊を見て感じたのは、まさにこの「蒸気」という新たな力でした。
日本は西欧文明を受け入れ、これをいち早く自分のものにしようと思ったのですが、それはとりもなおさず「蒸気の力」を手に入れることだったのです。そのことを端的に示すのが、江戸幕府がオランダに注文してつくらせた「咸臨丸」です。福沢諭吉が『福翁自伝』で自慢したように、幕府の一行はこの蒸気力による軍艦に乗って、サンフランシスコまで行きました。起工はペリー来航からわずか3年後の1856年、本格的に「蒸気」の時代に参入したのです。その10数年後の明治5年には、新橋から横浜まで日本最初の蒸気機関車が走っています。陸上においても、「蒸気の時代」になったのです。
「機械化による労働者の疎外」では、蒸気による革命が人類社会に与えた影響については、当時学問の進んでいた西欧でも十分な検討がなされていなかったことが指摘されます。幕府代表団に同行してアメリカに渡り、また同じく幕府の遣欧使節団にも加わった福沢諭吉が、『民情一新』(1879年)なる一書を著して、この蒸気革命について論じています。諭吉は、「蒸気機関による革命でほかならぬ西欧社会までが動顚している。これからは大変な騒乱の時代がやってくるにちがいない」と書いています。著者は、「つまり福沢は、人類全体がこの革命に追いつかず、一種の自失状態にあると見てとったのです。日本全体が開国後の急速な近代化で動顚しているときに、広く地球全体を見渡してそのようなヴィジョンに到達したとは! 今になっても驚きです」と述べています。
「神話と宗教から近代科学へ」では、著者は「近代文明は科学の文明と言ってよいでしょう。それ以前の人類を支配していた神話や宗教が、この時代の「科学」によって取って代わられたのです。人によっては『科学』でなく『科学技術』という言い方をしますが、『科学技術』は基本的に科学的な世界観が生み出すものですから、『科学』と言っておけばよいと思います」と述べています。また、「機械論的自然観と倫理観の欠如」では、著者は「文化とは個人と社会をつなぎ、人間社会と自然をつなぐものです。それが壊れれば、人間はただの動物であるどころか、動物以下となるのです」と述べるのでした。
「心の空洞化」では、江戸末期に欧米勢力の圧力で日本が「国難」に遭遇すると、神道は一気に「一神教」へと転じたことが指摘されます。仏教を包みこんだそれまでの理論を捨てて、儒教や仏教を排した神道を唱えるようになるのです。そしてそれが明治政府の宗教政策の起爆剤となり、維新早々の「神仏分離令」発布となったのです。著者は、「この新神道は国学者の平田篤胤が唱えたもので、そこには彼が漢訳で読んだ『聖書』が影響していると言われています。このことは、幕末明治の日本が、宗教的な面でも欧化政策を進めていたことの裏づけとなるでしょう。もともとの日本文化のもつハイブリッド性がここに来て否定され、土着宗教の政治イデオロギー化による文化破壊が進んだのです。明治日本は『一神教国家』をつくろうとした、そう言えると思います」と述べています。
著者は、日本人の宗教は江戸時代の「檀家制度」のせいで衰えたといいます。それでも真の宗教は一部に残っていたっとして、「讃岐の庄松のような『妙好人』と呼ばれる信仰心の篤い人々に、それが見られます。そのような存在が近代には見つからなくなりました。宗教という文化の核が、政府の近代化政策によって破壊されたからです」と述べます。『神々の明治維新』を書いた安丸良夫が指摘するように、神仏分離令のせいで宗教を失った日本国民でしたが、少しずつ神仏をともに拝む方向に戻っていったようです。しかし、著者は「そうだからといって、再び神仏をともに拝むようになった日本人が、かつてはもっていた信心まで回復したかというと、そうでもないと安丸は付け加えています。近代化によって文化破壊が起こった以上、日本人の心は空洞化してしまったにちがいないのです。『聖なるもの』に満ちていたあの世界は遠くはるか。現代人はその記憶すらもっていないように思えます」と述べるのでした。
第五章「現代世界は日本文化を絶滅させるか・・・・・・普遍主義と「無人時代」の到来」の「普遍主義の国アメリカ」では、世界史における「現代」の定義について言及されます。多くの人が第二次世界大戦の終わった1945年を「現代」の始まりと考えているようです。なるほど、この戦争の後の世界はアメリカとソ連という二大国の「冷戦」の時代になり、世界全体がこの二国のイデオロギー争いに巻き込まれる状況となりました。また、西欧諸国が所有していた多くの植民地が独立し、「アジアとアフリカの時代」が始まったというのも事実です。著者は、「文化という観点からすると、『現代』とは『世界の数々の固有文化が巨大な帝国の力によって消滅する時代』ということになります。いま現在、世界のあちこちで文化が死につつあります。文化とは日々の営みに染み込んだものですが、それが巨大な経済システムに巻き込まれて次々に消え去っていくのです」と述べています。
「グローバル化と文化の崩壊」では、「世界がひとつになる」とは、世界の人々が長い時間をかけて育ててきた諸文化が滅びることであると述べられます。それらが崩壊してしまえば、人類の存続は事実上不可能となるでしょう。なんとなれば、文化というものは、何度も言うように「日々の営み」であり、それが巨大な経済システムに巻き込まれて粉々になってしまえば、人類は生活の基盤を失うからです。「グローバル化」が推進されることで文化の多様性が失われるとして、著者は「文化の多様性の破壊は、生物の世界でいう『種の多様性』の破壊に匹敵するもので、種の多様性は生命の大原則です。多様性が失われれば、人類も、他の種も、死滅に向かうほかありません。同様のことは、文化についても言えるのです」と述べるのでした。
「ヘーゲル的な絶対主義の世界観」では、弁証法史観は江戸時代までの日本文化にはまったくなかったことが指摘されます。この史観が日本史の中央に躍り出れば、日本文化はひとたまりもなくやられてしまいます。その基本構造までもが破壊されます。したがって、日本が開国したことは、その文化の生命を危険に晒したことを意味します。著者は、「何度も言いますが、日本文化は『一見して矛盾して見える二つ』でさえ『二項並立の構造』へと置き換えることで成り立っています。そうすることで、『対立』を『矛盾』に至らせないのです。それを打破するのが弁証法であるならば、これが日本文化にとって致命的となることは間違いありません」と述べています。
ここで、江戸中期の三浦梅園(1723-89)という哲学者が取り上げられます。わたしが大学の卒論でテーマにしたのが三浦梅園の経済思想でした。その梅園のことを、日本における「弁証法の創始者」と哲学者の三枝博音は言っています。しかし、「矛盾」を自然界に見出した梅園であっても、それを「物の理」とはせずに、「人がものを見る立場」の問題として捉えています。つまり、見方によって世界は変わる、という相対主義なのです。著者は、「そのような相対主義はヘーゲルにはありません。現代世界はそのヘーゲル同様に、『絶対主義』の世界です。これにどう対処すべきか。世界全体はこの哲学的な問いを前に、右往左往しています」と述べます。
「内的な矛盾と精神の疲弊」では、日本が知った矛盾は、「伝統と近代」の矛盾といった外的な要因によるものだけではなかったことが指摘されます。「近代化」を掲げながら「王政復古」に踏み切った明治政府の矛盾。「攘夷」でありながら「欧化」を推進するという矛盾。こうした内的な矛盾が日本人の精神を疲弊させていきます。近代化の矛盾が、「論理」の面だけでなく、「心理」の面においても及んだのです。このような矛盾を、福沢諭吉は『文明論之概略』緒言で、「滅多にないチャンス」と言いました。「西洋文明と東洋文明とを比較できる、より進んだ境地を得られたのだから」と豪語したのです。しかし、そんなに簡単にいくはずがありません。著者は、「福沢の豪語は、彼特有の『瘦せ我慢』の説だったかもしれないのです」と言います。諭吉自身、『学問のすゝめ』15編で、同時代の日本社会には精神疾患の人が増えていると認めているのです。
「西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』」では、日本近代の抱える根本的矛盾をじっくり見据え、これを自身のうちに引き受け、これについての答えを最後まで追求したのは哲学者の西田幾多郎でると述べられています。彼の哲学はヘーゲルの弁証法を受けてのものですので、そのまま現代世界の問題に応用できるものを含んでいると言えます。西田はヘーゲルのいう「矛盾」を出発点としました。しかし、ヘーゲルのように「矛盾を乗り越えることで新たな展開が生まれる」と見たのではなく、「矛盾こそが現実であり、それを生きることが真の生だ」という立場を打ち出したのです。彼はそれを「絶対矛盾的自己同一」と名づけています。
西田の扱った矛盾は、「私」の自己同一性に関するものだけではありませんでした。この世界全体が対立する要素を含み、矛盾だらけだと彼は見たのです。「すべて生あるものは死を避けられない」といった「存在」の根本矛盾。これに彼は眼を向けました。社会と個人にしても、単に相互依存しているだけでなく、対立を孕んでいると見たのです。著者は、「このような現実世界の見方は、ヘーゲルの弁証法とあまり異なりません。しかし、それへの対処の仕方が、ヘーゲルとは大きく異なるのです。ヘーゲルなら矛盾を乗り越えることが現実の諸問題を解決する方法だと考えたのに、西田はそのような形で現実を乗り越えようとするのは、『現実』を『非現実』に置き換えることにほかならず、とうてい受け入れられないと考えたのです。つまり、矛盾を排除しようとするか、受け入れようとするか、そのちがいです。西田は矛盾が現実である以上、これを排除などできないと悟ったのです」と述べるのでした。
「生命哲学としての西田哲学」では、ヘーゲル弁証法を受けた西田は、彼独自の弁証法を提起したことが紹介されます。彼の弁証法は「場所」という独自の概念に根ざしており、そこに大きな特徴があります。西田のいう「場所」は、地理的な意味でも空間的な意味でもなく、いわば論理的な「場所」です。論理的な場所とは、たとえばYESとNOが対面し、「矛盾」が生じる場所です。著者は、「西田がいうには、YESとNOが対立しながら共存できるようにするのが『場所』の役割です。そのためには、場所は『無』でなくてはならず、その『無』は『存在』と『無』という相対関係以前にあるものですから、これを『絶対無』と呼びます。西田の弁証法は、『絶対無』と名のつく場所の弁証法なのです」と述べています。
人類の知的生産が人工知能によって代替されるようになろうと、ヘーゲルの弁証法史観は世界史を推進しつづけるでしょう。現代世界の原理はヘーゲルの示した弁証法であり、そこには「自己否定」はなく、もっぱら「他者否定」しかないのです。著者は、「私は西田の『無の場所』は現代世界の論理に一石を投じていると言いましたが、世界はそれでもびくともしないように見えます。しかし、私は逆説的に、だからこそ『無の場所』という考え方には価値があると思っています。その理由は単純です。そこに、ヘーゲルの理念的現実とは異なる、生命世界としての現実に即した世界観が表れているからです」と述べるのでした。
「『無人時代』の到来」では、ほん少し前から、世界の様子を見ていて、著者は現代世界には「判断力」が欠けていると思うようになったといいます。その原因が何なのか、いまだにわからないそうです。「判断力低下」はアメリカだけでなく、ヨーロッパにも、日本にも、中国にもみられます。著者は、「一体、どういうことなのでしょう。原因はもっと遠く、もっと根源的なものがあるように思えます。それが『気候変動』のせいなのか、『生物進化の過程』のなせるわざなのか、私にはわかりません。人によっては、『原子力エネルギーへの過度の依存』が人類から判断力を奪ってしまったといいます。経済学者なら、『資本主義システムが巨大になり過ぎて誰も止められなくなっているのだ』と言うのではないでしょうか」と述べています。
いずれにせよ、人類の文化の面から見ると、現代世界が「無人時代」に入っているということは確実に言えるといいます。「人間」がいない時代。したがって、「文化」がない時代なのです。文化における「無人」現象は今に始まったことではありません。ドイツの哲学者フッサールは、1936年という20世紀の前半に書かれた『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で、すでにヨーロッパの学問がデータ主義になり、「人間的意味」を失っていると警告しています。当時は無名だったシモーヌ・ヴェイユも同じような危惧を表明しています。この2人の発言は、ナチスのホロコーストを予測させるものでした。
「国語教育と文化再生」では、「日本文化」というものをしっかり捉え直すことの重要性が説かれます。著者は、「日本文化の何たるかについては、本書の大半を費やして述べてきましたので、これ以上は言いません。ひとりひとりが己の中で失った記憶を取り戻す必要があります。次に必要なのは教育改革です。改革は2つの面で行われなくてはなりません。正しい国語教育を子どもに授けることが1つ。もう1つは、『この世界を聖なるものと感じ取る能力』を幼いうちに育成することです。この2つによって、失われた文化が蘇ってくると思います」と述べています。
「日本人のひとりひとりの情操」では、著者の教育改革の第2案として、聖なるものへの感受性を幼少期から育てることが提唱されます。それがないと、内省ということを知らない子どもばかりが育つろいうのです。日本近代化の立役者・福沢諭吉も『自伝』の最後のところで「私の生涯の中に出来してみたいと思うところは、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすることと、仏法にても耶蘇教にても孰れにても宜しい、これを引き立てて多数の民心を和らげるようにすることと、大いに金を投じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにすることと、およそこの三ヶ条です」と述べています。つまり、学術研究の向上と人々の「気品」の向上とともに、「宗教」によって平和な心を育成することが大事だ、と言っているのです。著者は、「これは決して年寄りの戯言ではありません。福沢は福沢なりに、鈴木大拙のいわゆる『霊性』に目覚めていたから、そう言ったのです」と述べています。
人類には知性と情操のほかに、それらを包括して精神をより普遍的なレベルに導くものがあるといいます。これを大拙は「霊性」(spirituality)と呼びました。この大拙は、戦争に敗れて国民が悲嘆に暮れ、不安に慄いている昭和21年(1946年)に、昭和天皇と皇后に向けて「仏教の大意」という講演を行っています。彼なりの仏教理解をわかりやすく示したものですが、彼はそこで「大智」と「大悲」という2点にしぼって仏教を解説し、明治以来の日本がこの仏教をないがしろにしたことが一連の戦争を引き起こし、国民を悲惨に追いやったと熱烈に訴えました。本書は、この大拙のメッセージの紹介をもって終わっています。
「あとがき」では、本書を書き終えたとき、著者の心に「夏草やつはものどもが夢の跡」という芭蕉の有名な句が浮かんだことが紹介されます。「夏草」は自然の代表であり、季節が巡れば再び現れます。一方の「つはもの」は一度限りの歴史事件の主人公で、「夢」となって消えるものだからです。芭蕉はそういう「つはもの」を哀惜しています。しかし、それは無常の世界での出来事であって、常なるものは四季とともに巡る自然なのです。そして著者は、「日本文化は、本書で何度も言ってきたことですが、歴史よりは自然とともにあろうとする文化です。そこには『滅び』が含まれています。そのことを忘れて、現代の『常勝』の論理に与してはなりません」と述べるのでした。本書は、日本文化について考え続けているわたしにとって多くのヒントや学びを与えてくれました。著者は福岡県に在住とのことですので、機会があれば一度お会いしたいです。
『「かたち」の文化論』(産経新聞出版)
来月、わたしは人間国宝である十四代 今泉今右衛門氏との対談本である『「かたち」の文化論』を産経新聞出版から上梓します。同書は、工芸文化と儀礼文化の2つの視点から「日本文化」の本質を浮かび上がらせる内容となっています。日本文化を絶滅させないために、わたしは日本を代表する工芸家である今右衛門氏と対談させていただきました。1人でも多くの方にお読みいただきたいと願っています。