No.2486 宗教・精神世界 | 小説・詩歌 | 日本思想 『王仁三郎歌集』 笹公人編(太陽出版)

2026.08.08

『王仁三郎歌集』笹公人編(太陽出版)を紹介します。出口王仁三郎(1871年〜1948年)は、明治から昭和にかけて活動した日本の宗教家であり、新宗教「大本」の二大教祖の一人です。開祖である出口なおを輔佐し、強力なカリスマ性と多彩な才能で大本を全国的な一大教団へと発展させました。本書の編者である笹氏は、1975年生まれ。東京都出身。歌誌「未来」選者。歌集に『念力家族』『念力姫』『抒情の奇妙な冒険』ほか。歌書に『NHK短歌 シン・短歌入門』など。本書の存在は、一条真也の読書館『言霊の短歌史』で紹介した鎌田東二先生と笹氏の対談本で知りました。

本書の帯

本書の帯には「この広き海にもなげきのあるものか 磯辺に蟹のなきがら残れる」という王仁三郎の歌とともに、「生涯十五万首以上もの歌を詠んだといわれる「巨人」出口王仁三郎。その膨大な作品の中から珠玉の三二八首を精選。前田夕暮、尾上柴舟、尾山篤二郎、前川佐美雄らの王仁三郎評も収録。跋文・岡井隆」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には、「親猫をわすれたるらし吾が膝にこころおきなくねむる仔猫は」「山も野も眼に入らぬ夜の旅は吾が若き日の恋に似しかな」「一本の桜のかげにひとり居て初恋の日のいたましさおもふ」「包丁をぐさりとさせばほんのりと匂ふメロンの朝の楽しさ」「ころころと背すぢつたひて首の辺に爆発したり風呂の湯の屁は」といった王仁三郎の歌が掲載されています。

本書の「目次」は、以下のようになっています。
花明山
彗星
霞の奥
白童子
公孫樹
山と海
大本之道
歌碑の歌
「解説」笹公人
「『王仁三郎歌集』(笹公人編)を読んで」岡井隆
「略年譜」
「執筆者紹介」

王仁三郎の第一歌集『花明山』(昭和6年5月15日、第二天声社発行)の「序」は同年3月に書かれていますが、歌集『収穫』で自然主義歌人として牧水と並称され、その後、北原白秋らと「日光」を創刊した歌人である前田夕暮が「歌のことになると、ちょっとここで私はペンをおいて、考えさせられる。畳の上からいえば恐らく独歩であろう。またその自由にして捉われざる点、東西南北、天地玄黄的なところ、これは他の人の追従を許さざるところだが、今直ちに氏の歌に対して批評の筆をくだすべく、まだ早いような気がする。と同時に私にはつかまえどころがないほどその境地は広野のように広いのである。そうだ、王仁三郎出口瑞月氏の本態は容易に捕捉出来ぬほどにまた未来があり、茫漠としている。氏は現代のスフィンクスである」と書いています。

第二歌集『彗星』(昭和6年7月4日、第二天声社)の「序」は同年6月15日に書かれていますが、前田夕暮の師であり、明治から昭和にかけて多大な足跡を残した日本の歌人・詩人・書家・国文学者である尾上柴舟が「出口氏は宗教家である、宗教家で文芸家を兼ねた人はもとより多い。それらは、たいてい宗教に確かに立脚している。この故に文芸的に価値があるのである。氏もこれに倣って、古来の名僧知識以外に、高い深い宗教的観念を発揮して、現世および後世人の迷を伝じ、悟を開かせる底の作を出されたならば、どうであろうか。世間の風に従って、波を追い、浪を逐うのは、意義のないことではあるまいか」と書いています。

第四歌集『霞の奥』(昭和6年9月30日、第二天声社発行)の中にある王仁三郎の歌のなかで、わたしは以下のものが心に残りました。

飛行機から飛下りて
 自殺を企てた男がある、
  五月の空はすばらしく青い

なげかひのあとにはかならず
 よろこびのあると思へば
  生きの楽しも

亡き吾子のあと悲しめど詮なければ
  忘るる癖をつけたくぞ思ふ

雪隠がぷんぷん匂ふ初夏の夕だ
 防臭剤に桐の若葉を
  むしつて投げこむ

芸術に不謹慎とは何をいふ
  時代におくれた歌作り婆婆が

山が崩れてきても足許に
 火が燃えついても
  びくともせない阿呆になりたい

第七歌集『白童子』(昭和7年5月15日、天声社発行)の中にある王仁三郎の歌のなかで、わたしは以下のものが心に残りました。

日に幾度鏡のぞけどわが白髪
  朝もゆふべも白髪なりけり

生神となり生仏となる人も
  運命にもれず死にゆく世なり

なやみ多き世に住みながら
 なほ足らで悲劇観にゆく
  人の愚かさ

なにごとも楽天主義の
 われながら歯の痛む夜は
  わびしかりけり

夢の間に六十年の春秋を
  夢と暮れけり夢のうき世を

宗教家てふレツテルの無かりせば
  ほしいままなる恋に生きなむ

心よわき吾は噂をおそれみて
  恋歌詠むも妻の名を借る

第九歌集『公孫樹』(昭和8年1月31日、天声社発行)の「序」は前年8月8日に書かれていますが、大正期から昭和期にかけての日本の国文学者・歌人である尾山篤二郎が「出口氏は1ケ年約3万首の歌を詠む。普通専門家は、下らぬ歌は何万作ったとて致し方があるまい、とよく言うのであるが、この何万という言葉の裏には出来得ない事を出来得たとしてもという意味が含まれているのだが、この人のは、事実それだけ作ってしまうのだから呆れざるを得ぬのである。もしこの調子で10年続けば30万首の歌が出来る。30万首の歌から、出来の善きと悪しきを分ち、その上で物を言うとなると、言わねばならぬ方がまずお辞儀をする」と書いています。

続けて、尾山は「昔三州の伊良兒に磯丸という漁夫の歌人がいて、磯丸全集なぞというものが出ているが、それを窺いた時、よくもこう拙い歌を、よくもこう沢山作ったものだと思うただけで、読む事を止めたことがある。出口氏に至ると磯丸どころの騒ぎではないのだから、2万何千首の今日すでに驚き、10年後は必ず呆れ返ることだろうと惟うている。そして只単に磯丸歌集について感じた如くであるならば、よくもかく拙い歌をよくもかく無数に作ったものだとだけで済むが、この方は時によい歌があり、またその様式も多種多様なのだから、そうはゆかぬのである」と述べるのでした。『公孫樹』の中にある王仁三郎の歌のなかで、わたしは以下のものが心に残りました。

人類愛にもゆる自分の懐は
  いつも氷点下だ、何といふ矛盾だ

日活の俳優と膝を交へて
  語る夕べは劇そのままだ

感情に左右され易い自分は
  言ひ過ぎたあとで後悔してゐる

あまり小さい事は
 考へぬがよいだらう

  広大無辺の宇宙の中で

包丁をぐさりとさせば
 ほんのりと匂ふ
  メロンの朝の楽しさ

月が空に居て自分の夜の行動を
  監視してゐるてれくさい感じ

感情が激して書いた手紙ポストに
  投げこんだ半日後の後悔

こはれやすき恋に心を悩ませし
  昔のわれは愚なりけり

第十歌集『山と海』(昭和8年6月25日、天声社発行)の序文「天衣無縫」は生田蝶介が書いています。歌人、小説家である生田は雑誌に初めて短歌欄を設けた人物として知られていますが、「歌は会得である。神霊がだんだんのりうつってくるのである。そして、これは多作によるより他はない。1000首作ってはじめてその形を会得し、万首つくってはじめてその格を会得するのである。ただ年功を云々して寡作を誇っている輩には遂に歌はわからぬ。年数は1年でも3年でも50年でもそんなことは問題ではない。とにかく1万首以上つくった人でなければ話にならぬ。神の如き氏は、まず最初に此真理を洞察して1年によく数万首を成している。歌壇のうえにもこの泰山を成す所以である。氏はまことにあらゆるものを超えて大空に高い」と、王仁三郎の歌に高い評価を与えています。

道歌集『大本之道』(昭和32年8月7日、天声社発行)の「序」は昭和7年6月17日に書かれていますが、第八歌集『青嵐』(昭和7年7月25日、天声社発行)に収録されたものです。ここで、明治期から昭和期の歌人であり、若山牧水の妻である若山喜志子が「王仁さんは一晩に200首300首の歌を詠まれる、それが1首1首側の者に筆記させるのだから大したことだ。といふ噂は夙うからきいていた。しかしそうした事は唯きいただけでは想像もつかず、却って誇張の多い噂だくらいに思うのが普通であろう。私もその1人であった。ところが先日湯ケ島温泉に静養に来られ、遊びに来ないかとの事に早速出かけてゆき、その詠歌される有様を目のあたりに見てはじめてその迅速な詠出ぶりの単なる噂や誇張でない事を知ると共に、その態度の厳粛さ、ゆかしさに尊敬の念の深まるのをおぼえた」と書き、「終りに。氏の歌には相当の駄作もある、それは氏自身にも承知しておられる事を私は知っている。しかし、それ故にくだらぬ歌よみだと断定する事は何の権威にもならないと思う」と述べています。『大本之道』の中にある王仁三郎の歌のなかで、わたしは以下のものが心に残りました。

天国は意志想念の世界なり
  心のけがれは地獄をつくる

世の中に死後の世界を知らぬほど
  淋しきものはあらじと思ふ

肉体のあるうち霊をみがきあげ
  永遠に天国の花となれ人

『出口王仁三郎著作集 月報2』(読売新聞社)には「歌人 出口王仁三郎」と題して、昭和期の歌人である前川佐美雄が「王仁三郎は一夜にして200以上300の歌を作ったという。それは口号である。口うつしである。うたうようにくちずさむのを側近が筆記する。興に乗じて歌うのだが、よほど心のゆたかな人である。歌はもともとそういうもので、万葉のすぐれた歌もみなそれである。西行は行道の歌人といわれたが、それは道を歩きながら幾らでも作った。王仁三郎はそういう歌い方をした。だから14、5万首も作れたのだ。しかし14、5万首は大したものだ。簡単にいうけれど、よほどの多力者である」と書いています。

続けて、前川は「明治天皇は10万8000余首、古来第一の歌人でおわすが、王仁三郎はさらに多い。数からしても尋常ではないのだ。それだけにすぐれた歌が多いが、これを人びとは歌いっぱなし、粗雑な歌だと思っている。けれども王仁三郎は違うのである。歌と自分が1つである。それは歌の方から飛んで来て王仁三郎の手にはいったというぐあいである。そういうふうにして出来る。だからあとで推敲しても意味がない。字句を工夫したり調べを考えたりしても何にもならない。それはかえって悪くなる。そういう小さい低い歌よみではないのである」と述べるのでした。

「解説」では、笹氏が「幼少期から宗教や精神世界に興味のあった私は、文豪・吉川英治が『1000年に1人出るか出ぬかという人物だ』と評し、僧侶であり小説家でもある今東光が『大怪物』と呼んだ宗教家・出口王仁三郎に強い興味を抱いていた。雑誌『ムー』(学研)などで度々特集される王仁三郎の大霊能者、大予言者としての数々の信じがたいエピソードにも子供らしく惹かれたが、短歌と出合い、その道を志してからは1日に2~300首もの歌を詠み、生涯に15万首以上の歌を残した歌人としての王仁三郎に関心を持つようになっていった」と述べています。

ちょうどそのころ、予備校時代の恩師である出口汪が王仁三郎の曾孫であったという縁で、笹氏は出口光を紹介され、王仁三郎の数々の貴重な歌集を読む機会に恵まれたそうです。分厚い歌集のページをめくったとき、「ころころと背すぢつたひて首の辺に爆発したり風呂の湯の屁は」という歌が目に飛び込んできました。笹氏は、「宗教家が詠んだとは思えないユーモア短歌に笑いつつ、王仁三郎は歌人としてもただ者ではないと直感した。そして次第に王仁三郎の短歌ワールドに魅了されていったのである」と述べています。

王仁三郎は「あまり小さい事は考へぬがよいだらう広大無辺の宇宙の中で」とか、「ギヤツと生れるなり墓場に急ぐ人生だと思へば力が落ちる」といった歌も詠んでいますが、これらの歌を紹介した後で笹氏は「王仁三郎の歌を読んでいると、不思議と明るい気分になれる。『天才バカボン』ではないが、『これでいいのだ』という気持ちになって元気が湧いてくる。そんな感想を抱くのは、矛盾を矛盾のまま受け入れ、それを臆することなく開陳する王仁三郎の堂々たる姿勢によるものかもしれない」と述べます。

当時の歌壇における王仁三郎の登場に対する一種のセンセーショナルな反応、短歌に対する高い評価は、弾圧事件以後の歌壇からの抹殺によって短歌史からバッサリ切り捨てられました。例えば、本書の最後に収録した「歌碑の歌」は、主に昭和6(1931)年から10(1935)年にかけて、京都の綾部、亀岡に始まり北海道から台湾の40数基におよぶ大本関係地に建立された歌碑のものですが、第二次大本事件(昭和10年)の際に官憲弾圧によって破砕されてしまっています。笹氏は、「現代におけるこのような『歌人・出口王仁三郎』の存在感の希薄さは、短歌というジャンルにとっても大きな損失といえるだろう」と嘆いています。

王仁三郎が活躍した時代は、正岡子規らによる和歌革新運動を経て発展した近代短歌が主流となり、より写実的な短歌が定着しつつある時期でもありました。王仁三郎も初期の短歌は、万葉調、あるいは古今調、新古今調の詠風でしたが、昭和5年(1930年)に前田夕暮と出会ってからは、その詠風も自然と現代調に変わっていったそうです。特にこの頃は夕暮の影響を受け、定型短歌に基本を置きながらも、31音の定型を破った「自由律短歌」を多く作っています。笹氏は、「何ものにも縛られない生き方を貫いた王仁三郎にとって、自由律短歌は恰好の表現方法だったのだろう。とはいえ、『型破り』とは型を知っている者にしかできないことである。王仁三郎の自由律短歌は相当な字余りの歌でも不思議なリズムでスッと頭の中に入ってくる。私はそこに王仁三郎の天性のリズム感と型を知り尽くした者ならではの技術力を感じている」と述べます。

生涯に15万首ともいわれる歌から328首にしぼるとなると、当然ながら厳選に次ぐ厳選が必要となります。そこで、今回は自伝の歌、獄中歌、プロレタリア歌を割愛し、自由律の歌、特に、恋やユーモアにあふれた王仁三郎の人間的魅力を伝える歌を多く選歌したといいます。笹氏は、「王仁三郎短歌の細かい特徴については、本歌集に掲載された歌人たちによる序文・跋文に譲ろう。また、これら歌集に収録された歌のほとんどが60代に作られていることにも注目したい。年齢に関係なく恋の歌を詠めるという事実に勇気づけられる人もいるだろう」と述べています。

『王仁三郎歌集』(笹公人編)を読んで」では、歌人・詩人・文芸評論家で未来短歌会発行人である岡井隆氏が、王仁三郎の作歌における多作の謎について考察します。量より質。これはすべての創作活動に通じる鉄則であり、王仁三郎がこれを知らないわけはなく、それでもあえてそれを無視したのは別の考えがあったためだろうとして、岡井氏は「1つ考えられるのは、王仁三郎は、次から次へと口をついて出てくる短歌の韻律のこそばゆい感じに、魅了されていたのかもしれないということだ。たしかに、短歌韻律には、そういう魔力がある。また、フランスのシュルレアリスムにおける自動書記(オオトマチスム)にもいえることだが、人間の無意識世界(フロイト)は、意識界よりはるかに大きく、ただ韻律にまかせて言葉を発しているうちに、次々と思いもかけぬ歌が出てくることがある。王仁三郎も、無意識世界に感応する人だったのかもしれない」と述べるのでした。この岡井氏の意見に大いに同意いたします。


大本みろく会館での「かまたまつり」で口上を述べる

わたしも今年の秋には初の歌集である『禮の言霊』(言視舎)を上梓しますが、ぜひ霊界の出口王仁三郎に捧げたいと思っています。出口王仁三郎といえば、わが魂の義兄弟であった鎌田東二先生が深い関心を寄せた宗教家でした。ブログ「かまたまつり」で紹介したように、昨年5月30日に帰幽された鎌田先生の百日祭「かまたまつり」が王仁三郎が聖師を務めた大本の亀岡の本部にある「大本みろく会館」で開催されました。わたしは故人の遺言により葬儀委員長を務めさせていただきました。わたしはカラオケで故人が好きだった北島三郎の「まつり」を歌ったのですが、「鎌田先生、お元気ですか? わたしたちは元気です! これから、鎌田先生が大好きだった『まつり』を歌います。月まで届け、この歌・・・」と言ってから歌い始めました。

ラップで「まつり」を歌う♪

イントロ部分で「初宮祝に七五三、成人式に結婚式、長寿祝に葬儀を経て法事法要・・・人生は祭りの連続でございます。今日は出口王仁三郎聖師ゆかりの大本みろく会館で鎌田東二百日祭の『かまたまつり』ということで、めでたいなあ~。さあ、祭りだ、祭りだ~! 皆の衆、この世も、あの世も面白く行こうぜ!」と言うと、早くも会場が熱狂の坩堝と化しました。みんなで歌い、踊り、大いに盛り上がりました。わたしは、会場中を練り歩き、みなさんと握手をしながら歌いました♪ 間奏では、「満月交感🎵満月交遊🎵満月交心🎵満月交命🎵」と鎌田先生との往復書簡集の書名を連呼し、さらには「令和の霊界物語♪ この世もあの世も面白く♪」と即興でラップを披露しました。そんなわけで、出口王仁三郎聖師も鎌田東二先生も、わたしにとって大切な人なのです。本書『王仁三郎歌集』の歌たちは、そんなわたしの心に染み入りました。