No.2485 宗教・精神世界 | 小説・詩歌 | 日本思想 『言霊の短歌史』 鎌田東二×笹公人著(KADOKAWA)

2026.08.07

『言霊の短歌史』鎌田東二×笹公人著(KADOKAWA)を紹介します。今年の3月3日に刊行された本です。鎌田先生の著書は、単著であれ共著であれ、これまで必ず献本されてきました。しかし、本書は送られてこなかったので自分で購入しました。昨年5月30日に鎌田先生が帰幽されたからです。改めてその事実を思い知り、寂しさを感じました。共著者の笹公人氏は1975年生まれ。東京都出身。歌誌「未来」選者。歌集に『念力家族』『念力姫』『抒情の奇妙な冒険』ほか。歌書に『NHK短歌 シン・短歌入門』など。

本書の帯

本書のカバー装画には横尾忠則氏の作品「阿波幻想」が使われ、帯には「鎌田、笹、両氏の話を傍らで聴いているような気持ちになり、歌は念力から生まれる、ということを教えられました。 細野晴臣」「異能の宗教学者・鎌田東二と現代短歌の旗手・笹公人が歌に込められた言霊の意味を縦横無尽によみとく。歌の世界に通底する「言霊」の力を論じた画期的な対論の書」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には「うたには、いつも言霊が宿っていた」として、「和歌・短歌1300年の歴史を『言霊』という視点から読みなおす、刺激に充ちた挑戦。歌と言霊の考察に始まり、スサノヲ、日本神話と宗教、仏教思想、空海、最澄、良寛、源実朝、西行、『古今和歌集』、能楽、戦国武将、江戸俳諧、狂歌、まじない歌、平田篤胤、出口王仁三郎、近現代の歌人たちにみる、言霊の力、霊力の深層に迫った究極の対論」「新作短歌 鎌田東二『鎮魂列島』笹公人『いろは四十七都道府県短歌』を収録」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の通りです。
作品
「鎮魂列島」鎌田東二
 奥能登鎮魂
 三島由紀夫に捧ぐ
 鎌田東行、佐藤西行に捧げる
 花折立待津軽鎮魂

「いろは四十七都道府県短歌」笹公人
対談「言霊の短歌史」
第一章 歌と言霊
 歌と言霊
 なぜ短歌は三十一音なのか
 歌と宗教
第二章 古代篇
 『古今和歌集』と歌の念
 言語遊戯と言霊思想
 仏教思想のなかの言霊
第三章 中世篇
 中世和歌と言霊
 能と言霊
 戦国武将と言霊
第四章 近世・近現代篇
 江戸時代の言霊
 俳句と言霊
 狂歌と言霊
 おみくじとまじないの歌
 出口王仁三郎と言霊
 近現代詩人と『古事記』
 言霊と前衛の交錯
 グリーフケアと言霊、そして歌
「あとがき」笹公人

本書の冒頭に置かれた「鎮魂列島」では、「奥能登鎮魂」として、鎌田先生が詠んだ以下の歌が紹介されています。

奥能登は島の髄なりむまれてしむで
  生まれて死んで珠洲は鈴鳴り

遠野なる地平も霞む奥山の
  森に埋もるいにしへごころ

語りとは語り得ぬもの招くわざ
  カルデラ噴火イタコ憑依

ガンならば往け日輪の島へすぐ
  時逆巻きて身を隠す前に

外れた顎をはずしたまま
  電車に飛び乗って有楽町へ行った

また、「鎌田東行、佐藤西行に捧げる」として、鎌田先生が詠んだ以下のような歌が紹介されています。

花祭り鬼さえ鬼と知らずとて
  まだ見ぬ君の天の乳房か

いのちはてて超えてゆくらぬ奥山を
  照らせ今宵の不死の新月

捨つるべき何ごとのあるや花時
  雨道なき道に拾う神あり

新古今 西行定家 後鳥羽院 
  言霊坂をともに転びつ

都から遠く離れて顕幽の
  堺を越えて星砕け散る

ひるめしはまだかはだかでうみにいる
  とこよはてなしかっぷくのはら

「いろは四十七都道府県短歌」では、笹氏が詠んだ以下のような歌が紹介されています。どれも最高に素晴らしい!

函館の坂道ふいにキスすれば
  街はきらめくジオラマとなる

坊っちゃんとマドンナきどり街ゆけば
  ホームランの音カキンと響く

戸来村キリスト祭のポスターの
  着物の女の直角の肘

鳥取の砂丘に揺れる陽炎の
  かなた砂かけ婆手招く

両手から青いビームを発射して
  隕石滅する牛久大仏

ぬるいぜよ時代も人も熱燗も 
  龍馬のまぼろし叫ぶ居酒屋

瑠璃色の有田焼に載る呼子イカ
  こんなにうまい透明がある

わちゃわちゃと
 きりたんぽ食む子どもらよ
  明日なまはげが来るとも知らず

ヨーグルト好みし大谷少年を
  導けり奥羽野球大神

雷鳴の白壁土蔵に浮かび上がる
  金田一耕助のシルエット

『ムー』いわく
 邪馬台国は阿波である。
  ソロモンの秘宝眠る剣山

尾道の坂道くだる夕間暮れ 
  さびしんぼうに会える気がして

福井県の地形見るたび思い出す
  ウルトラセブンのビラ星人よ

国民的アイドル候補とすれ違う 
  とんこつスープ香る街かど

対談「言霊の短歌史」の第一章「歌と言霊」の「リフレインこそが言霊の命」では、以下の対話が展開されています。
鎌田 私はリフレインこそが言霊のキーポイントだと思っています。古代の儀礼歌にも繰り返しは多くみられます。以前、私が勤めていた京都大学のすぐ隣が百万遍というところで、知恩寺というお寺があります。昔、疫病が流行ったとき、天皇から京都中の寺社に「祈禱をして疫病を鎮めよ」という命が下りました。ここで100人、1000人といった人びとが念仏を唱えたのです。念仏は多少ずれたり間違ってしまっても、繰り返しのところで合わせることができる。さらに念仏を100万回も唱えていれば、しだいに人びとは恍惚状態になる。リフレインの効用として、「記憶しやすい、感じやすい、唱えやすい、一緒に歌いやすい」といった要素があるからだと思います。
 たしかに、真言だけでなく祝詞も「ましまして」「かしこみ、かしこみ」など、繰り返しがみられます。
鎌田 リフレインが命とも言えますね。現在の口語短歌も、繰り返しによって呪文のように響き、それがみなさんの心に届いて、いつまでも忘れられない短歌になったのではないかと思います。

「『あいうえお』と共感覚」では、以下の対話が展開。
鎌田 音義説から考えると「あいうえお」のなかで一番強い音になるのは「い」です。「い」には、置かれている空間をエネルギーで満たすといった働きがあると思います。たとえば、「斎」、「五十鈴」などですね。「い」というインパクトを持った響きを祀ることによって、神聖な場所となるわけです。
 出口王仁三郎は、「一霊四魂説」で、「あ」は幸魂、「い」は奇魂、「う」は直霊、「え」は荒魂、「お」が和魂と解説しています。
鎌田 「あいうえお」の音を天地人や、五色、木火土金水に振り分けてみたり、さまざまな解釈があります。
 たとえば「か」行は「格闘」「空手」「ケンカ」など戦闘的な言葉が多いような気もします。K音にはそういった、何か原初的な意味があるのでしょうか。
鎌田 あると思いますね。「かっとなる」「きっと見る」など、「かきくけこ」は身体的な感情の発露や激発にも結びついているように思います。

笹氏は、『知っ得 短歌の謎 近代から現代まで』(国文学編集部編、1999年、学燈社)という本を読んで、「この本のなかで佐佐木幸綱先生が『短歌形式の謎』として、なぜ短歌は五句三十一拍なのか、ということに触れています。それによると『冷泉家和歌秘々口伝』という本にある説で、月の運行は30日で終わり、それからまた次の月の第一日が始まる。月が天を一回りして、また一から始まるという、『天道循環無窮』をあらわしているのではないかという「天道循環無窮説」を紹介されていました。この部分を読んで驚きとともに、ロマンも感じました」と述べています。

「なぜ短歌は三十一音なのか」の「五七五と七七」では、鎌田先生が「わが国において、声の力というものにいち早く着目し、深い考察を示したのは空海です。空海の『声字実相義』や『吽字義』『秘密曼荼羅十住心論』など、主要な著作は、言語論から意識論、身体論、さらには宇宙論までを体系的に語っています。それまでの、古代の言霊の考え方は「草木語問う」という、アニミズム的な言語意識のうえに成り立っていました。それは、「言語生命観」の核心でもあります。そうして、祝詞や和歌などの五七五七七といった定型に神秘的な力が宿るという「言語定型観」となり、『万葉集』の山上憶良の長歌「そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と」(巻5・894)に結びつきました。すなわち、初期の言霊の考え方は、アニミズム的意識と「言霊の幸はふ国」というナショナリズム的意識という、異なる2つの言語思想を含んでいるのです。この2つの言語思想を密教的な宇宙論で統合したのが空海です」と述べます。

「すべてのことはメッセージ」では、鎌田先生が、『新約聖書』「ヨハネによる福音書」の冒頭にある「初めてに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」という言葉を紹介します。いつ読んでも、この言葉は意味深長で、いろいろなことを考えさせられるとして、鎌田先生は「言葉は、人間のコミュニケーションや伝達手段の道具として捉えられていますが、逆に考えれば言葉は、人間を人間たらしめる原動力ではないかとも思います。ハイデカーは、そのあたりの消息を『言葉は存在の家』と言っていますが、その通りと思います。言葉は絶妙なる世界透視レンズなのです」と述べています。

鎌田先生は自身の神道ソングライター活動に言及し、活動を始めてから25年が経過し、これまで320曲以上を作詞作曲をしてきたと告白します。基本的に、文章や詩、曲は考えて作ったりはせず、詩集も推敲はしていないといいます。歌や言葉はすでにそこにあるからだとして、鎌田先生は「私から言えば、この世界は響きに満ちているのです。自分のなかから内発的に出てくると言うよりも、ピンポン玉のように、体内にグッと入ってきたものを打ち返すという感覚です。なので、どこから飛んでくるか、そしてどこへ返すかは自分でもわからない。出たとこ勝負です。そのメッセージによって向きもさまざまに変わります」と述べるのでした。

「その場で詠むことの重要性」では、笹氏が「僕たちは宇宙からのメッセージを歌として返しているということですね。出口王仁三郎は『神様は歌を奉るのが、海河山野種々の供物よりも一番お気に入るのである』(『玉鏡』)と言っていて、それにもつながるような気がします」と言えば、鎌田先生は「笹さんから現代短歌は意味偏重であるというお話がありましたが、意味を重視しすぎると、かえって主張やオリジナリティに乏しくなる傾向があると思います。感動のおもむくままに、その場で詠むことは、言霊的に考えても極めて大切なことだと思います。それが本居宣長の言う『もののあはれをしる道』であり『わざ』なのだと思います」と述べるのでした。

「国誉めと命令形」では、笹氏が「出口王仁三郎は、自分の教団の支部のようなものを作るとき、必ずその土地の国誉めの和歌を作って、歌碑を建てていたそうです。和歌は、その土地や自然がいかにきれいで美しいか、元は都だったというような内容だったそうです」と言えば、鎌田先生は「呪術は命令形のものが多いですね。それから土地誉めですが、『誉める』ことは日本に限らず世界でも基本です。古代インドの聖典に、一番古いと言われている『リグ・ヴェーダ』がありますが、内容は神を讃えるものです。讃えるということは、自然、神、土地、そして人を誉めることです」と述べます。

さらに鎌田先生は、「『古事記』を例に挙げると、イザナギとイザナミが国生みをするとき、『あなにやし、えをとめを』『あなにやし、えをとこを』とお互いを誉め讃え合います。そして気持ちを昂らせ、最高の状態で国生みをするために『調べ』によって讃歌をする。讃歌というものは、宇宙を一番いい状態にするためのBGMになるものです。本来、帝の仕事は、歌によって国誉めや土地誉めをすることです。祝詞と歌は同起源ですから、歌のなかにも必然的に誉めるということが出てくるのです」と述べます。

「言霊から見る和歌と占い」では「おみくじ」が取り上げられ、鎌田先生は「おみくじはすごい文化だと思います。和歌でメッセージを伝えるというのは、奥ゆかしいですね。悩みに対して、幅のある解釈がある点も良いですし、歌こそ真実が隠されていると思いますので、『こうこうこうして、気をつけよ』と命令形で、かつ道徳的に示されてしまうとあまり響いてこないかもしれません」と述べています。すると、笹氏は「江戸時代には『歌占』のカードというものもありまして、はじめに占いたいことを頭に念じて、〈ちはやふる神の子どもの集まりて作りし占はまさしかりけり〉と3回唱えてからカードを引くというものです。これは『呪歌』という、神様を占いの場に招くための呪文です」

鎌田先生は「呪歌」の実物を見ながら「いいですね。〈深きより深き淵にぞ入りにける 思ひの絶いぬこの身なりけり〉なんて意味深長でいいですね。〈幾山を重ね来ぬらん旅衣 花咲く春に逢ふぞうれしき〉は趣きがありますね。これを発明した人はすごいなあ」と述べます。笹氏が「もともとは和泉式部が貴船神社の貴船明神と和歌のやりとりをしたことから生まれたようです」と言えば、鎌田先生は「占いという点では、『夕占』という、辻占の民間信仰のようなものがあります」と述べるのでした。

第二章「古代篇」の「『古今和歌集』と歌の念」の「『古今和歌集』と言霊」では、紀貫之が「生類すべてが声を放ち、歌を詠んでいる」という世界観を『古今和歌集』冒頭の「仮名序」で見事に表明しているとして、鎌田先生は「人間だけが歌を歌っているというのは大間違いで、森羅万象すべてが歌を歌っているということですね」と述べます。すると、笹氏は「王仁三郎も『霊界物語』のなかで、『元来、声音は「心の柄」の義にて、心の活用の生ずる限り、之を運用する声音が無ければならぬ』と記していました」と述べます。

王仁三郎の「元来、声音は『心の柄』の義にて、心の活用の生ずる限り、之を運用する声音が無ければならぬ」という発言について、鎌田先生は「言語学的にはこの解釈はやや無理がありますが、心や精神の活動と声音との関係を鋭く切り取っていると思います。普段、私たちが頭のなかで考えているときは沈黙していますが、それは外見上のことであって、内面では、自分の声が響いていませんか。思考が意識と精神の活動とすれば、発声は身体と意志の活動です。声は、その人の生命エネルギーの表出ともいえます」と述べています。

「正念に戻す力」では、「家族は何によって結ばれるか」と考えてみたとき、現代ではさまざまな結びつきがあるといいます。血縁やDNAによってつながっている、いわば生物的な「血縁家族」や、養子縁組や里親制度などの「法的家族」があると紹介し、鎌田先生は「それに私は、前世からの縁によって今生で家族を営んでいる『輪廻家族』という捉え方もできると思います。家族を家族たらしめる力は、ひとつではないということをこの歌集から思いました。あそこに比叡山が見えますが、比叡山の天台宗は、天台本覚思想の3つの命題があり、第一命題が『一念三千』です。ちなみに第二命題が『諸法実相』、第三命題が『一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏』です。『一念三千』は、1つの念が三千大の世界を作っていくということで、この一念が一語になります。これは重要な意識原理です」と述べるのでした。

「『古今集』のメッセージ」では、笹氏が「『古今集』と言えば、紀貫之について正岡子規が1898(明治31)年に『再び歌よみに与ふる書』で、『貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候』と書きました」と言えば、鎌田先生が「そうでしたね。『子規さん、あんなつまらんことを書きおって』と声を大にして言いたいですよ」と述べます。さらに鎌田先生は、「私からすると、『古事記』から『万葉集』、『古今集』というわが国の歌文化の大河に、子規が言う近代の『写生』が、大きなダムを作ってしまったと思っています」と述べるのでした。このくだりは、日本の短歌史を俯瞰する非常に重要な指摘であると思いました。

「言語遊戯と言霊」では、笹氏が「子規以前の短歌は、和歌や王朝文化の流れを汲んだ、美意識の高いものが多かったのですが、近代は、石川啄木や与謝野晶子に代表される、貧困や性愛など、人間を赤裸々に詠むことにまでテーマが広がりました。子規は美意識やレトリック、言霊的なものを捨ててでも和歌を庶民のものにしたかったのでしょう」と言えば、鎌田先生は「『正岡はん、もう少しきちんと読みなはれ』と教えたいです(笑)。先ほど『仮名序』に触れましたが、『この歌、天地の開け始まりける時より出で来にけり』とあります。つまり天地開闢以来、歌は存在していたという考え方です。天地開闢そのものも歌なのであると明示しています。そして下照姫からスサノヲを経て、歌の歴史が紐解かれていくのです」と述べます。天下の正岡子規に対して、ここまで言える鎌田先生は凄いですね!

駄洒落についても言及されます。笹氏が「駄洒落を連発する人は煙たがられる傾向にありますが(笑)、実は『わざをぎ』の達人であり、言霊の達人でもあるということですね」と言うと、鎌田先生は「駄洒落や『わざをぎ』は魂を揺り動かす力です。魂を揺り動かす力、すなわち『魂振り』は連打やかさねを利用しているのです。ことばの燃焼力を強め爆発もしますが、分裂や消滅、昇華もされていきます。それが『魂鎮め』です。『わざをぎ』には対極する両方の力が備わっているのです」と述べます。また、鎌田先生は「私はこうした駄洒落や語呂合わせを「言語遊戯呪術としての言霊思想」としています。これらの言語遊戯は身体言語なのです。人間の深層意識に無意識に訴えかける有効な記憶法と言えます」とも述べています。

さらに、日本語という言語は他の言語と比べて、音節数が少ないことや、漢字でも音読みと訓読みを併用するという発音上の特色があることを指摘し、鎌田先生は「言語遊戯、特に語呂合わせは『古事記』や『万葉集』の時代から使用されていることが知られています。『音』が『言』になり、『事』を呼び出すのです。先ほどお話しした『仮名序』には、(和歌は)『力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ』ると記されていますよね。『ウタ』は『歌、訴、打、撃』の力であって、すなわち『言霊の力』にほかならないのです」と述べるのでした。

「仏教思想のなかの言霊」の「『見立て』と『かさね』」では、以下のような対話が展開されています。
鎌田 言葉を交わさないノンバーバルな通信やコミュニケーションは可能だと思います。華厳宗の四法界のひとつに「事事無礙法界」というものがあります。現象すべてがお互いに融合することで、そのまま真実の世界を完成しているという世界の捉え方です。その教えは霊的にもアニミズムにつながっていると考えます。
 哲学や仏教で「ワンネス」という、すべては1つであるという感覚や世界観がありますね。それとの共通点がありそうですが、日本人には、いつからそういう感覚が生まれてきたのでしょうか。
鎌田 おそらく平安期から鎌倉時代の「一即多、多即一」という思想だと思います。1つの集合体という考え方は「見立て」でもありますが、日本人はこの「見立て」の力がきわめて発達していると思います。

「西行の言霊思想」では、以下の対話が展開されます。
 『新古今集』のなかで西行の歌は94首と最も多く入集しています。
鎌田 桜や月といった自然を詠んだ歌が多いことも特徴です。有名な〈願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ〉などを読むと、型や枠にとらわれない、ある意味での素直な歌いっぷりがいいですよね。『新古今集』は最後に神道とお釈迦様の歌が収められた「神祇歌」「釈教」の巻があることが特徴ですね。
 『古今集』の時代は国力が安定していたので、和歌も伸びやかで豊かなものが多かったのだと思います。一方で動乱の時代の『新古今集』に神道、仏教の部立てがあるというのも象徴的ですね。
鎌田 歌も救いになっていくなかで、仏教においても新しい読経の形である、念仏や題目、今様、和歌即陀羅尼も生まれました。『栂野明恵上人伝記』という注釈書に、西行が和歌即陀羅尼を提唱したことが記されています。

第三章「中世篇」の「中世和歌と言霊」の「武将・源実朝の和歌」では、以下の対話が展開されています。
 中世の歌人というと、僕は源実朝がずば抜けて歌がうまいと思います。
鎌田 実朝は頼朝の次男ですね。母は北条政子です。8歳のときに父頼朝が亡くなり、兄の頼家が2代将軍となりますが、12歳のとき朝廷から征夷大将軍に命じられます。京から正室を迎え入れたり、『吾妻鏡』には「(実朝は)歌や蹴鞠を業として」と記されていたりして、鎌倉にいながら京の貴族文化への憧れが強かった人物だとも言われています。
 幼少のころは千幡という名前でしたが、後鳥羽院が「実朝」と名付けたそうです。勅撰集にも実朝の和歌は92首入っているそうです。
鎌田 92首も入っているなんて、武将としてはきわめて多い方です。

鎌田先生が「実朝は雪の降る鶴岡八幡宮で甥である公暁に暗殺され28歳で生涯を閉じます。鎌倉幕府も3代で途絶えました。後年、賀茂真淵は『金槐集』を校訂しましたが、実朝の歌を『大空に翔ける龍の如く勢いあり』と誉め讃えています。また松尾芭蕉は、弟子の木節に『中頃の歌人は誰なるや』と聞かれ、『西行と鎌倉右大臣ならん』と断言したと『俳諧一葉集』に残されています」と述べます。すると、笹氏は「斎藤茂吉も『金槐和歌集』(岩波文庫)を校訂しました。その解説で『当時の諸家の集を読んだあとで、金槐集の歌に移ると、縦い初期の歌とおぼしきものであっても明快で、何か現実的なところがある』と記します」と紹介します。鎌田先生は、「子規も『歌よみに与ふる書』のなかで実朝のことを『あの人をして今十年も活かして置いたらどんなに名歌を沢山残したかも』と絶賛し、〈人丸の後の歌よみは誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝〉〈はたちあまり八つの齢を過ぎざりし君を思へば愧ぢ死ぬわれは〉など歌として詠んでいますね」と述べるのでした。

「能と言霊」の「世阿弥と言霊」では、笹氏が「能は人間以外の神様や妖怪なども現れますよね。静かな迫力と言いますか、情念や鬼気迫る物語があって、能を見たあとに残る怖さや不思議な感覚も好きです」と言えば、鎌田先生は「私も能が好きなのですが、能を見るたびに驚きと感動を覚えます。この抽象性、アバンギャルドな感性、過激に削ぎ落とした美学など、室町文化の教養の高さに、ただただすごい、と言葉を失います」と述べます。能は大陸から渡来した「散楽」がその起源であり、変遷を重ね、平安期に「猿楽」と呼ばれるようになりました。笹氏は、「世阿弥は『風姿花伝』の序で『申楽延年の事わざ』として、猿楽には寿命延長の効用があると言っています。また『歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし』と、猿楽の道に進む者には連歌などの歌も嗜むように推奨しています」と述べます。鎌田先生は、「ここで世阿弥は『猿楽』ではなくて、あえて『申楽』と書いています。『神楽』の『神』の示偏を取れば、『申楽』となりますよね。このように、神と人間のあいだをつなぐ半神半人が『申す楽』であり、それが『申楽=能』だと世阿弥は言っているのです」と述べるのでした。

「日本文化は対話と説得の文化」では、笹氏が「念仏や護摩などを焚いて霊を強制送還するのではなくて、霊の話を聞いて、慰めたり説得したりすることで去っていきます。日本は対話と説得の文化ですね」と言うと、鎌田先生は「そういう点でも能はよくできてますよね。能の演目はシテの種類別に5つに分類されますが、初番目物は神様が主人公です。神様が登場して、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣などを願う祝儀の能ですが、元は神社の縁起や神話、和歌を題材にしていますね」と述べます。また、鎌田先生は「私は能楽というものは、舞台で演じられる演劇的修験道だと思っています。能の技はそのほとんどが武道や武術の根幹にあるので、そこには神事とつながる部分があります。一方で、静かに見えるけれど、無理を重ねた激しい体さばきもあります。能を通して、修験的な部分が様式化されているようにも見えるのです」と述べ、さらに「能は日本における鎮魂の芸能だと思いますね。そういう意味での宗教性、神事性、あるいは呪術、言霊といった儀式的な面が能にも引き継がれているのだと感じます」と述べています。

「能管と石笛」では、石笛について言及されます。能管の起源が縄文時代の石笛にあると考える鎌田先生は、「私自身の演奏経験からですが、縄文時代に用いられた石笛は、天の空鳴りの模倣であり、天から吹き降りる風が洞窟に入って鳴る現象の模倣であり、また鹿や鳥などの鳴き声の模倣で、それらと交信するために使われたのではないかと考えます」と述べ、「能の演出もよくできていて、加工を凝らした笛に、謡が重ねられることで、空間に揺らぎとゆがみを生じさせます。能は、あの世とこの世をつなぎ、交渉をして成仏させていくという世界観ですので、あの世との交信の物語を言葉と音でも表現しているのです」と語ります。それを聴いた笹氏が「『ひしぎ』は、能のすべての演目において神や霊を呼び出す音とされています」と言うと、鎌田先生は「能が、禅や密教の影響が強いためだと思います」と述べるのでした。

能舞台を教会に見立てて、能をミサのようだと感じる人もいるとして、鎌田先生は「戦国時代、織田信長の時代に、バテレンはイエス・キリストの受難劇を能で演じさせました。私は聴覚的な人間なので、昔から言葉や形よりも音の方に注意が向きます。比叡山でも花を観察するよりも、鳥の声を聞いたり、川のせせらぎの音を聞いたりと、音の方により好奇心が向きます。言葉は意味を伴いますが、音は響きが重要です。響きによって感じるもの、言霊の原型は石笛、音霊とも言えるでしょう」と述べます。また、足踏みは地霊を鎮めるという意味合いがあります。それと能の演者は足裏を通して、大地のエネルギーを宇宙と身体全体に循環させていることが紹介されます。

これらのことを踏まえて、鎌田先生は「私は『足裏唱法』と呼んでいますが、足の裏から吸い上げたエネルギーを身体のパイプを通して頭頂部から天空に向かって発することで、身体のエネルギーの交換場にしているのだと思います」と述べています。さらに鎌田先生は、「アメノウズメは手に笹を持っていますが、これが後に鈴となって、神社の巫女さんが振る儀礼楽器になります。アメノウズメは自らの身体を使って大地を鳴らします。つまり舞踊と音楽ですね。アフリカの伝統的なダンスも、太鼓のリズムと大地を踏む音が重要な意味を持っています」と述べるのでした。

「戦国武将と言霊」の「和歌というツール」では、以下のような対話が展開されています。
 日々戦乱のなかにいた武将たちにとって、和歌を詠むことは、束の間の安らぎだったのかもしれません。
鎌田 そうですね。もっと言えば、歌を通してお互いの考え方や物事の捉え方を知り、性格や戦術、そういったことを知るツールという側面もあったはずです。
 合戦を前に武士同士が集まり、連歌を作ったりしてますが、それは予祝の意味があったのでしょうか。
鎌田 大いにあったと思います。結束を強めたり、連帯を促す、士気を高めるという意味もあったでしょう。和歌という文芸を通して、みんなの決意や覚悟を確認したり、政治的な意味での拘束力もあったと思います。一見、遊びのようにも見えますが、非常に高度でクリエイティブなものだったと思います。

続けて、2人は「戦国武将と言霊」について語り合います。
笹 武将は戦勝祈願のために歌を奉納しますね。神社に行くと武将が奉納した和歌が紹介されていたりします。
鎌田 信仰という名のもとに家臣をまとめる意味もありました。やはりへたな歌よりはうまい歌の方がいいですよね(笑)。指南役の連歌師もこのころ現れます。
笹 こうした和歌のたしなみは、「辞世の歌」を残すためにも重要だったのでしょうか。
鎌田 先ほどの「忠度都落」もそうですが、武士は武力や力の強さだけでなく、文化的な側面での「強さ」も持っていなければいけません。多くの家臣を従えている武将たちは、家を守り、名を残し、後世に語り継がれることも重要でした。歌にも権威を求めていたと思います。辞世の歌という「言霊」は、強靭な精神性や物語性、伝説、そういったものを表すのにももってこいだったのでしょう。

鎌田先生は、密教と禅を宗教の2つの対極にして考えており、その2つは言語戦略として正反対であると指摘します。空海や最澄、天台宗なども基本的に言葉が大事、真言が大事と言っています。密教では言葉で象徴的な表現ができるし、秘密の世界は言語でも表現できるという哲学があります。しかし禅は「直指人心 見性成仏」です。この言葉はよく達磨図などに書かれていますが、言葉に頼らず、自分の心を直接見つめ、仏性を会得せよという意味です。「言語道断」と同じで、禅語では「不立文字」とも言います。禅は言葉を徹底的に削って削って、否定します。鎌田先生は、「最後の最後はノンバーバルコミュニケーションの世界で、極言すれば、カラスがカーと鳴いたら悟ったというような境地ですね」と述べています。

ここで鎌田先生は、折口信夫の名前を挙げます。彼は、民俗学者・国文学者として活躍する傍ら、「釈迢空(しゃくちょうくう)」の筆名で近代日本を代表する歌人としても活動しました。古代の魂や旅の情景を鮮烈に詠み、代表作の歌集『海やまのあひだ』は近代短歌史の金字塔とされています。「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」という歌は特に有名です。そんな折口について、鎌田先生は「折口はよく『意味のない歌』と言いますが、象徴的なものはあってもいいし、なくてもいいというのが私の理解です。雰囲気だけ、しらべだけでもいい。細やかな情緒だけで言語的な表現を極めるということは、多くの意味を求めていることになりませんか。明恵の『あかあかや』、一遍の『南無阿弥陀仏』の繰り返しとなると、意味性は減って、より深いパッショネイトな世界、もっと言えば神話的な世界に近づいているようにも感じます」と述べるのでした。

第四章「近世・近現代篇」の「江戸時代の言霊」の「和歌そのものが日本文化論」では、国学者について言及され、笹氏が「契沖や真淵は和歌に『言霊』を感じていたのでしょうか」と質問すると、鎌田先生は「非常に感じていたと思いますね。特に真淵は『語意考』という著作のなかで、五十音をもとにどういう意味を持っているか、連用形、連体形などの日本語の活用形の法則などを説明しています。さらに宣長の没後弟子を名乗った平田篤胤は、真淵の著作を読んで、伏見稲荷大社の社家の出身であった荷田春満の家に五十音図の古説があって、真淵がこれを元に自説を展開していることを強くアピールし、賞賛もしています。漢語や漢詩を重視し、漢文学に支配されていた日本の教養文化に対抗するように、大和言葉や和歌に注目する。『古今集』の『仮名序』で紀貫之が唱えた『やまとうたは、人の心を種として』のように、『言霊』という言葉を使わずに言霊の精神を示し、それが『やまとうた』にあるという、言霊的思想の表出とも言えるのではないでしょうか。さらには万物が歌を歌うということも言霊の基層をなしていると考えていたと思います」と答えています。

「平田篤胤の和歌」では、平田篤胤(1776-1843)が取り上げられます。江戸後期に言霊学の基礎を作り、文字と音と言霊について論じた人です。篤胤は言霊の起源、根拠、生成、展開などのプロセスを繰り返し繰り返し問い続けてきました。篤胤は妻の織瀬が屑屋から買った反故のなかから本居宣長の『古事記伝』を渡され感銘を受け、宣長に入門を請う手紙を出したそうです。しかし、その手紙が届く前に宣長は亡くなってしまいました。鎌田先生は、「ある日、篤胤の夢に宣長が出てきて、入門を認められたという話が残されています。これが没後弟子を名乗るきっかけとなりました。この夢中入門の様子を絵に描いてもらい、宣長の長男・春庭が讃を添えた『夢中対面の図』というものが東京代々木の平田神社に残されています」と説明します。

「俳句と言霊」の「松竹梅と花」では、「松竹梅」という言葉は、平安時代に中国伝来の「歳寒三友」の画題が元であると紹介し、鎌田先生が「松が一番上になっているのは、それだけの神聖な力を松が宿しているということなのでしょう。能舞台にも松が依代として描かれていますよね。竹も『猛々しい』という言葉につながっているように、ちはやぶる神の力を持っています。松も竹も神聖なエネルギーに満ちた優位性を表しているのではないでしょうか」と述べると、笹氏は「松は暑さに強く、冬でも葉が青々として寿命が長いので、神が宿る木ともされています。それから『松』が『待つ』に転じて、恋愛の歌にも用いられることが多いです」と述べます。また、「祀る」「奉る」といった、「捧げる」という行為にも結びつくのではないかと推測しています。鎌田先生によれば、「松」が待っている象徴的な構造は、日本文化では祭りの根幹と関わっていて重要だといいます。

笹氏は「『梅』は花ですから、カテゴリーが違いますね」と言うのですが、それに対して鎌田先生は「梅が持つ小ぶりで優しげな姿は、桜とは違う情緒がありますよね。梅はその香りを愛でるものですから、空間を支配していると思います。梅の花が持つ楽園性や、天上世界へのイマージュなども含んでいるように思います」と述べます。「『俳諧』という言葉」では、「俳諧」の漢字を語釈すると、まず「俳」は「わざをぎ」、つまり身振りや動作で神様を招くという意味であることが指摘されます。対して「諧」はみんなで神に祈って神を迎え、神が降りてくることです。しかし、鎌田先生なりの言霊的解釈では、「俳」は「人だけではない」、「諧」は「皆、言う」だといいます。なので「俳諧」という言葉は「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」の近世版だと鎌田先生は考えるそうです。

「俳諧の精神は縄文スピリット」では、「言霊」という言葉が生まれてくる以前、古代の言霊の考え方に「草木語問う」というものがあったことを指摘し、鎌田先生は「俳諧は、まず『草木語問う』を明確な定型としました。さらに紀貫之が春夏秋冬に分けた『古今集』の精神を季語として定着させました。続いて切れ字によって『もののあはれ』という感動をこめる。俳諧は17音という短いことばあのなかに日本文化の情趣というものをつないだと思いますね」と述べています。また、鎌田先生は「私は縄文時代か、あるいはもっと前には、草木が語問うていたと思うのです。なので、俳諧の精神は縄文スピリットのよみがえりだと思いますね。そういった『草木語問う』という世界が連綿とあって、さらには言葉のなかに『霊』が宿るという、言語アニミズムを生み、『万葉集』の時代には『言霊』という概念になったと考えます」と述べています。

「地面の文学」では、鎌田先生が「詩歌には挨拶性が多分に含まれていることはご存じのことと思います。ご当地ソングもそうですし、和歌も歌枕があったりします。これは30年来の私の持論なのですが、俳諧は「徘徊=吟行」によって、地霊を呼び出す「地面の文学」だと考えます。森羅万象の声を拾い、地霊を呼び出すワザとも言えると思います。子規は後半「写生」にもつなげていきますが、俳諧に叙景が多いということにも関連があります。人間に焦点を当てているのではなくて、雲や葉っぱ、山や空など、自然や景色のなかにはさまざまな情がこもってくる。つまり『草木語問う』ですね。近世では『五七五』という最も短い文学形式に様式化し、完成させました」と述べると、笹氏は「俳句は、もともと連歌の五七五の発句のみを取り出したものですよね」と述べるのでした。

続けて、2人は以下のように語り合っています。
鎌田 言葉を少なくすればするほど、その言葉のなかの宇宙は拡大するという方程式を俳諧は証明していると思います。言葉が短い分、スピード感や飛躍も出てきます。短歌がより人間的な側面を持つとするならば、俳諧はより大自然的な物の声を拾っているのです。私は、歌が生まれてくる以前の日本人の言語観、アニミズム的な自然感覚、世界感覚、生命感覚を呼び込んで再生し、完成させたのが芭蕉の業績だととらえています。そういう意味で芭蕉の仕事というのは大変重要です。
 俳句が五七五で、短歌が五七五七七という長さは関係があるのでしょうか。
鎌田 大いにありますね。下の句の七七によって、短歌の言葉は人の心理に向かうベクトルを持ち、俳句は自然の理に向かうベクトルを持ったと思います。
 そういう日本人ならではのミニマム感覚と言いますか、小さくしたり凝縮したりする発想や技術は、日本人のある種の特性で、文化とも言えそうですね。

鎌田先生は俳諧の方が好きだそうですが、自分で作るときは七七がつくことが多いそうです。本を書いて「あとがき」の最後に添えるのもほとんどが短歌でした。鎌田先生は、「やはり、長い年月をかけて1冊の本に仕上げたという思いや情がくっつきますね。日本人にとっても、ある種の心情吐露の原型は短歌ですから、思いの深さを表現するには短歌がふさわしいと思いますね」と述べています。「狂歌と言霊」の「『笑い』という精神力」では、笹氏が「狂歌は忘れ去られていますけれど、復活するものでしょうか」と質問します。すると、鎌田先生は「復活というよりも『出てくるもの』だと思いますよ。現状を嘆くばかりでなく、笑い飛ばしたり、批判し尽くしたりすることで活力をもたらすことは日常のなかの言霊力でもありますので」と答えています。

笹氏が「それが川柳や狂歌のなかに仕込まれているということでしょうか」と質問すると、鎌田先生は「そうです。それと、駄洒落のようなダブルミーニングには強い言霊の力があります。日本文化の伝統のなかで、掛詞や縁語が宗教や文学などの詞章で醸成されてきたことは、これまでも見てきました。狂歌のなかに、庶民の言霊の力を見てとれるのです。言霊のなかには、社会批判や風刺という観点もあります。時代を風刺したり、揚げ足を取りながら、時代を撃つ。そういった言葉が、人びとの生きる力を活性化させていく。言語がもつ社会活性や救済の力の1つの側面ですね」と答えます。さらに剣と歌について、鎌田先生が「剣と歌は別々のものですが、根幹は1つであると私は考えます。外的世界を安定させるものとしての象徴が剣であり、内的世界を安定させ、心を鎮める役割を果すものが歌になると思います」と述べると、笹氏は「なるほど。剣と歌、似て非なるものですが、どちらも清めや鎮めの力をもたらしているのですね」と述べます。

「まじないの歌」では、笹氏が「まじない歌についても伺いたいのですが、まじない歌は古来から呪術的な力を持つものと信じられていて、病気の治癒や敵の撃退、恋愛成就など、さまざまに歌われてきました。特に平安貴族たちは日常的にまじない歌を詠んでいて、その力を借りながらさまざまな困難に立ち向かってきました」と述べます。鎌田先生は、「もともと、呪歌は陰陽師や祈禱師など、ある特定の人が行うものでしたが、しだいに民衆にも降りて、民衆歌となったと言えます。今でこそ科学的根拠に基づき対応することができますが、昔はそうはいきません。病気や災害から身を守るため、口にしたり書いたりすることで言霊の力を引き出し、さまざまな現象をどのように考え対処しようとしたか、ある種の日本文化の一面がこめられているようにも感じますね」と述べます。わたしは、柳宗悦が説いた民衆的工芸としての「民藝」や、わたしが説く民衆的儀礼としての「民禮」と同じ文脈で「民歌」という言葉を思い浮かべました。

「出口王仁三郎と言霊」の「鬼は内、福は内」では、笹氏が「大本の節分は『鬼は内、福は内』と、鬼も福も『内』と唱え、豆まきをしているのが印象的でした。また普通は豆まきの豆は煎り豆を使いますが、ここでは生の豆でしたね」と述べます。鎌田先生は、「鬼は『古事記』の神世七代の最初の神である国之常立神を指しています。名前の通り、『国』は国土、『常』は永久を示していて、国土の守護神という説があります。この神を『内』に入れるのです。また一般の豆まきは鬼に『煎り豆に花の咲くまで入るべからず』という意味で撒きますが、煎り豆では花が咲くはずがない。つまり鬼に『絶対に入ってくるな』という意味をこめた風習です。大本では生の豆を撒くことで花を咲かせ、『一粒万倍』の恵みを授かるという意味がこめられているのです」と述べます。

鎌田先生は、天河の宮司が前鬼の子孫ということを知り、たびたび天河大弁財天社を訪れるようになったそうです。ここの神社も「鬼は内、福は内」と唱えながら福豆を撒きます。鎌田先生は、「ここには前鬼・後鬼という2人の鬼様がいて、役行者の供に祀られています。節分祭の宵の晩、すなわち2月2日に『鬼の宿』という節分祭を行います。天河の拝殿で祈りを捧げたあと、松明を携えた人や法螺貝を吹く人とともに宮司の自宅に伺います。ここの一番座敷に布団を敷いて、枕元におにぎり2個と梅干しを供えます。布団は鬼様が入りやすいように片面をはいでおきます。縁側には天河の聖水を汲んだ桶を一晩置いておきます。締め切った部屋には宮司だけが残され、寝ずの番をします。翌朝、節分の朝ですね、この桶の水を白い布で濾します。濾したところに小石や砂があれば、鬼が訪れたという証になるそうです」と説明。

「出口王仁三郎という人」では、以下の対話が展開。
鎌田 王仁三郎は生涯に60万首を超える短歌や狂句、冠句などがあり、口述筆記をまとめた全81巻83冊に及ぶ『霊界物語』などもあります。
 ちょうど東日本大震災のときでして、今、自分ができることはないかと考えたとき、歌人として、王仁三郎の短歌をまとめてみようと考えるようになりました。
鎌田 この『王仁三郎歌集』は、よくぞやったり! と思います。大仕事だったと思いますし、心からの敬意と御礼を申しあげます。
 ありがとうございます。僕は、王仁三郎の予言や超常現象にも惹かれましたが、やはり一番は短歌です。王仁三郎の短歌は、宗教家でありながら、自由度が高く、庶民的でユーモアもあります。鎌田先生は王仁三郎のどういったところにご関心がおありですか。

「スサノヲノミコトと王仁三郎」では、鎌田先生は「王仁三郎は、自分の立場や霊性をスサノヲに重ね合わせていたことがわかります。著作によると、スサノヲはすべての罪をわが身に引き受け、『天地の罪人の救い主』である神で、王仁三郎自身はスサノヲノミコトの霊の『宮』と記しています。神に祈りを捧げるためには、神に通じる言葉、すなわち『歌』が必要だったのです。けれど大事なのは、歌のクオリティや面白さではなく、『祈りのクオリティ』なのです。神がすべき行為は『まつりごと』ですが、文字通り『政と祭』です。両方要となって関わるのは『国誉め』です」と述べます。すると、笹氏が「王仁三郎もその土地を誉めた歌を作って、歌碑を建てています。京都府綾部市には〈盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほととぎす昼夜を啼く〉と詠んでいます」と言うのですが、鎌田先生は「祈りはその地域に住む住人の健康や生業を豊かにしていくためのものですから、これがいわゆるガバナンスになるわけです。スサノヲにとってのガバナンスは『古事記』の〈八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を〉の歌となります」と述べます。

「芸術は宗教の母」では、王仁三郎について、鎌田先生は「おそらく王仁三郎は、歌人である前に、神主や宗教家、言霊研究家という意識の方が強かったと思いますね。『言霊の大要』という論文では『言霊の妙用を解して之を実地に応用する時は、天地万物を自在に動かす事を得可く』とあります。これまでの言霊学者は異端の研究者や学者が多かったのですが、王仁三郎は実践者でもあったわけです。折口信夫は、国文学の発生点には『呪言』があって、それを発する者を『まれびと』と考えました。その観点で言えば、芸術や芸能の根本には呪術—宗教があるとも言えます。王仁三郎は著作のなかでも『芸術は宗教の母』と言っています」と述べます。

「平田篤胤と『妹の力』」では、大本の祝詞について言及されます。鎌田先生は、「大本の祝詞を最終的に編集して歌ったのは王仁三郎だと思いますが、元は江戸時代の国学者・平田篤胤の『毎朝神拝詞記』を参考にしていると思います。『祝詞』は先例主義ですので、『古事記』などを参考に、先例としてあるものを生かしつつ上書きし、その時代の祝詞を作っていきます。江戸時代の国学四大人にはほかに荷田春満・賀茂真淵・本居宣長がいますが、篤胤ほど祝詞に対して厳粛な気持ちを持っていた人はいないと思います。私が平田篤胤に興味を抱いたのは、出口王仁三郎の提唱した霊学思想の源泉が平田国学であることや、出身の國學院大学で折口信夫が平田篤胤を高く評価していることを知ったからです。篤胤は、漢字渡来以前から伝わる『神代文字』の存在を実証しようと試みたり、五十音のもとは『宇字(音)』であると主張したり、さらには霊学と民俗学の成立などその功績は広範に及びます」と述べています。

「むすひの力・なおひの力」では、鎌田先生が『古事記』のなかで大切なことばと思っているものに「むすひ(むすび)」があることが示されます。これは根源的な生成力で、創造もしますが、破壊も含まれます。一方、『古事記』には神直毘神と大直毘神という禍や穢れをなおす神がいます。こちらは鎌田先生は「なほひ(なほび)」です、私はこれを「むすひの力・なほひの力」と考えるといいます。「王仁三郎の短歌」では、『王仁三郎歌集』の編者である笹氏が「王仁三郎は道歌、相聞歌、風刺の歌などさまざまなタイプの歌を残しています。僕は王仁三郎の歌を詠んでいると、不思議と明るい気持ちになるとして、たとえば「あまり小さい事は考へぬがよいだらう広大無辺の宇宙の中で」「腹いつぱい五月の風を吞みながら空をおよげる鯉のぼりかな」という歌を紹介します。笹氏によれば、王仁三郎の短歌の根底にあるのは対象物への深い愛情だといいます。

「ご当地ソングは言霊」では、以下の対話が展開されます。
鎌田 ご当地ソングは大事ですよ。おととい、森進一の「港町ブルース」を思い出していました。あの歌は、函館から始まり気仙沼へ行き、次は三崎から焼津、最後は歌い手の森進一の出身地である鹿児島までたどります。哀感を誘うメロディーと相まっていい歌です。
 この歌は、東日本大震災のあった2011年の紅白歌合戦でも歌われました。地元を歌う(詠う)ということは、その土地にいる神様を喜ばせることになります。ご当地ソングは言霊だったのです。
鎌田 国誉め・土地誉めは祭祀の基本ですからね。
 そういう意味では、内山田洋とクールファイブなどは観光誘致効果だけではなく、国誉めの使命を帯びたグループだったのかもしれませんね。

「近現代歌人と『古事記』では、『古事記』はもともと言霊の凝縮点でもあるので、地名のなかに敬虔さがあると指摘し、鎌田先生は「地名というものは土地のかたち、生態系、コミュニティの経験知を含めて名付けられているので、そこに生きる人たちは土地からインスピレーションを受けて歌を発信してきました。では、誰に向かって、何に向かって歌を歌うのか。近現代歌人たちは、神秘古代を引き継ぎつつ、主体や自我の葛藤のなかで、いわゆる難解歌も残しています」と述べます。「言霊と前衛の交錯」の「トポスとエロス」では、鎌田先生が「近代には聖地や歌枕と絡めた日本の言霊思想の新たな復活点があるように思います。現代でも『聖地巡礼』と称して、小説や映画、ゲームなどの舞台となった場所を訪れることが一般化していますよね」と述べます。また、鎌田先生にしてみると、現代の聖地巡礼ブームは不思議でも何でもなくて、日本人がこうした修辞学的メタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)を繰り返し、楽しみながら「見立て」のアイコンとして洗練させてきたことによるそうです。歌枕が名所旧跡として、ご当地ソングとして、もっと言えば場所の記憶の増幅装置として機能してきたといいます。

「グリーフケアと言霊、そして歌」では、宮沢賢治の『注文の多い料理店』が取り上げられます。同作の序では三種類の食べ物について語っています。第一に食品としての食べ物、第二に風や朝の日光のような自然現象としての食べ物、第三に童話や物語のような言葉や作品としての食べ物です。この三つ目が魂の食べ物で、言葉こそがわれわれの栄養になる。鎌田先生は、「賢治は『すきとほつたほんたうのたべもの』と言っていますが、言葉が人びとの生きる糧となるような、真実の魂を持った食べ物になることを願っていたと思うのです」と述べます。笹氏が「賢治の言う『すきとほつたほんたうのたべもの』が言霊ですね」と言うと、鎌田先生は「そうです。言葉というものは、これからますます人を生かしめていくために重要な意味合いを持っていくと思います。特にインターネットが発達した現代では、即時性や匿名性といったものも加味されますから、魂を込めた言葉の粒をどう発信し、どう受信するか、キャッチボールですね。命の言葉、言霊。言葉には未来を開く力がある。そういった言葉を発する作家、歌人、詩人、俳人など、たくさん出てきてほしいと思います。待ってますよ。アンテナは無数に開いてますので、どんどん発信していきましょう、ということですね」と述べるのでした。

唯葬論』(サンガ文庫)
カバー裏表紙の内容紹介

この「すきとほつたほんたうのたべもの」という言葉に、わたしは忘れられない思い出があります。拙著唯葬論(サンガ文庫)の「解説」を鎌田先生が書いて下さったのですが、同書のカバー裏表紙には、そこから抜粋された「『唯葬論』は、〈宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論〉全18章の構成。「宇宙論」から「葬儀論」まで、自然学(形而下学)から形而上学までの全領域を網羅した優れた問題提起作である。柳田國男が戦後社会の心と家族と共同体の荒廃を予見し、それを何とか防ぐために警世・警醒にして経世の書である『先祖の話』を出したように、直葬や0葬に向かいつつある世の風潮に、『唯葬論』は、この書を『すきとほつたほんたうのたべもの』としてこの時代にお供えし供養したのである」という文章が掲載されています。拙著を鎌田先生が「すきとほつたほんたうのたべもの」と表現して下さったことに、わたしが大感激したことは言うまでもありません。

「あとがき」では、笹氏が 一条真也の読書館『言霊の思想』で紹介した鎌田先生の名著に出会い、短歌の言霊に特化した話を直接お聞きしたいという思いが募ったことが記されています。数年後、雑誌『短歌』から笹氏に連載の依頼が舞い込みましたが、心に響かず返事をできずにいたそうです。そんなある日、笹氏が高幡不動で護摩の火を浴び、空海の像の前で手を合わせていると、「連載は鎌田東二とやれ」という啓示が頭の中を光のように貫いたそうです。後に、先生の生家が空海の修行した洞窟のそばだったと知り、これは弘法大師からの啓示だと確信したとして、笹氏は「すぐに北田編集長に連絡し、快諾を得てZOOMで先生と最初の打ち合わせを行いました。画面に映る先生はお元気そうでしたが、口から出たのは『私はステージⅣの癌なので、もしかしたら連載中に死ぬかもしれません』という衝撃的な言葉でした。その瞬間、私は先生から聞けることはすべて聞き出そうと強く決意しました」と述べています。

笹氏は、言霊学で世界で唯一博士号を取得された鎌田先生に、自身の抱くすべての問いをぶつけようと決意したそうです。対談に臨む先生は、博覧強記にして自由闊達。1つの問いを投げかければ、100もの答えが返ってくるようだったとか。しかも、ユーモアを交え、誰にでもわかるように、そして何より楽しげに話してくださる「おもしろ仙人」のような存在だったそうです。それと同時に、自らの知識と想いのすべてを余すところなく伝えようとする、鬼気迫るものも感じたとして、笹氏は「仏教、そして密教をも織り交ぜながら、多角的な視点から言霊の深淵を説いてくださる時間は、なんと贅沢なひとときだったことでしょう。鎌田先生との時間は、対談の場を離れても、公私にわたり恵まれました。気さくで、決して偉ぶることなく、温かく包み込んでくださる先生との語らいは、かけがえのない喜びでした。言霊学の奥深さだけでなく、神仏への敬意、歴史や聖地、そしてスピリチュアルなものに対する真摯な姿勢など、多くのことを教えていただきました。その1つひとつの教えが、いま改めて胸に迫ります」と述べます。

そして、対談連載「言霊の短歌史」の最終回が掲載された『短歌』の発売から僅か5日後の5月30日、鎌田先生は静かに旅立たれました。笹氏は、「覚悟していたはずなのに、いざ現実となると、心のどこかで奇跡を信じていた自分に気づかされ、茫然自失となりました。もう二度と会えないという悲しみと、一番見てほしかった人に作品を見せられなかった悔しさが、とめどなく胸に溢れました。最後の入院の直前だったため、お互いの短歌の感想を言い合うことは叶いませんでしたが、本当は先生の短歌を目の前で絶賛したかったし、私の歌の感想も聞きたかった。その思いは今も残念でなりませんが、きっと先生は天から読んでくださっていると信じています。いつの日か霊界で再会した折には、心ゆくまで『感想戦』を楽しもうと、今は静かに心に誓っています」と述べるのでした。わたしは「庸軒」の雅号で道歌を詠んできましたが、今年の11月に初の歌集を言視舎より上梓する運びとなりました。本当は真っ先に「魂の義兄弟」である鎌田先生にお贈りしたかったのですが、先生が帰幽された今、それは叶わなくなりました。誠に不遜ではありますが、鎌田先生とのご縁で現代短歌の第一人者である笹公人氏に献本させていただきたいと思っております。