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No.2501 読書論・読書術 『血肉となる読書』 斎藤幸平・小川公代・安田登著、秋満吉彦ナビゲート(あさま社)
2026.09.27
『血肉となる読書』斎藤幸平・小川公代・安田登著、秋満吉彦ナビゲート(あさま社)を読みました。「なぜ読むことだけが人生を変えるのか」というサブタイトルがついています。共著者の斎藤氏は経済思想家、小川氏は上智大学教授、安田氏は能楽師です。ナビゲーターの秋満氏はNHK「100分de名著」のプロデューサーです。
本書の帯
本書の帯には「世界の見え方が変わる『本の読み方』超入門!」「哲学」「東洋思想」「文学」「古典」「『いい本だった』で終わらせない!」「NHK100分de名著 講師陣が贈る」と書かれています。カバー前そでには、「転換期の時代を生き延びるには、本を読むことで養われる『考える力』が絶対に必要です(本書より)」と書かれています。

本書の帯の裏
帯の裏には、「『100分de名著』講師が人生を変える『本』との出会いから難解な本をどうよみこなすかを語る!」として、「100年前の名著を読む/自分のアンダーラインにひきずられない/『異物』を呑み込む/読書の90%はしんどい/本棚ビオトープ/違和感を抱いた一文を大事にする/問いを持つ/1000年前、語られていたように読む/古典を反芻する/身体を動かす、メモに書く/『漢方薬型』と『抗生物質型』」と内容が紹介され、さらに「特別付録 本のリスト77選」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 本はどう読むのか
――社会システムを理解する読み方(斎藤幸平)
世界を理解する5冊
『万物の黎明』デヴィッド・グレーバー
『イデオロギーの崇高な対象』スラヴォィ・ジジェク
『国家とはなにか』萱野稔人
第2章 悪夢の読書術〈ケアと文学〉
――社会の呪縛から自由になる読み方(小川公代)
想像力を訓練する5冊
『もうひとつの声で』キャロル・ギリガン
『フランケンシュタイン』メアリ・シェリー
『ダロウェイ夫人』ヴァージニア・ウルフ
『少年が来る』ハン・ガン
『ある男』平野啓一郎
第3章 AI時代に「古典」を血肉にする
――古人の叡智にアクセスする読みこなし方(安田登)
タウマゼインを味わい得る3冊
『論語』
『空海』
『福音書(旧約聖書)』
「おわりに」
「血肉にするための本 77冊」
「はじめに」の「なぜ本を読むか」の冒頭は、「そもそも、なぜ私たちは本を読むのでしょうか。最近では、情報は主にインターネット、それもSNSやショート動画から、あるいはAIから得るという人が増えています。もちろん、それが悪いわけではありません。そうしたコンテンツを使いこなす若い世代の、素早い情報キャッチ力には驚かされることがあります。遠く離れた場所にいる人とも、自由に、瞬間的につながれるのも、新しい形のコミュニケーションだと言えるでしょう」と書きだしています。
しかし一方で、短い文章や動画にばかり触れていると、どうしても瞬間的に感情を揺り動かされてしまい、内容についてじっくり咀嚼したり、「本当にそうなのか?」と検証するといった機会がなかなか得られなくなるといいます。「考える力」を養う機会が失われてしまうというのです。その対極に位置するのが、「読書」です。本書には、「本を読むときには、たとえ1ページであっても「考える」という行為が不可欠です。さらに、読み終えてからも、情報を手に入れて終わり、とはなりません。読んで感じたこと、考えたことが自分の人生に流れ込んできて、自分の『血肉』と言える存在になっていく。それによってゆっくり考える力や、つまずいたときに前に進むための力を得られることがあります。そんな人生を太く、豊かにするのが、『読書』という行為だと思うのです」と書かれています。
「『自分の言葉』で本を語るには」では、推しのアーティストの曲を聴いて、「今の自分にぴったりだ」「どうして私の気持ちをここまでわかってくれるの?」と感じたことはないかと読者に問います。同じように、本を「自分に向けて書かれた手紙」だと受け取ると、読み方が、それまでとはまるで変わってきます。すべてが他人事ではなくなり、「これはこういう意味じゃないか?」「こう問われているのかもしれないぞ」と考えざるを得なくなるのです。それによって、表層的な理解にとどまらない、より深いものが見えてくるとして、本書には「そのとき、その本が自分の中にいつまでも残る、まさに『血肉』と言えるものになっていきます。そうして、人生のさまざまな場面で私たちを助けてくれるのだと思います」と述べるのでした。
第1章「本はどう読むのか――社会システムを理解する読み方」の「タイパばかりのチープな知識では太刀打ちできない」では、斎藤幸平氏が「確かに、情報を得るにはネットは非常に便利です。効率性、コスパもタイパも、読書とは比べものにならないほど高いでしょう。しかし、先ほど見てきたように、現代とは当たり前だと思っていた社会が崩れていく時代です。気候変動の時代には、人類が経験したことのないような世界が待っているとも言えます」と述べています。
そうした危機を前に、ある種のマニュアル的なもの、タイパで簡単に得られる知識や情報ではとうてい、太刀打ちできません。同時にそうしたチープな知識は、それこそAIに置き換え可能なものとして、どんどん価値を失っていくことになるでしょう。斎藤氏は、「もし、今の時代、本を読むことに意味があるとしたら。それは、過去多くの人に読み継がれてきた名著から、未知の危機にも対応できる、時代を超えた真理を得ること。そして、そのような解決策を見つけるために必要となる、考える力そのものを養うことではないか、と思います。それこそ、AIにも代替できないものになるはずです」と述べます。
「名著は『わかったつもり』で終えずに読み返す」では、現代ではより問題が複雑になっていることが指摘されます。それでも読書で何かが変えられるか? 斎藤氏は、「これからの時代は、人類が体験したことのない気候変動がやってきます。また、世界各地で戦火が起こり、少し前までは考えられなかったような力の政治がはびこっている。さらにはAIの急速な発達が、情報発信のあり方にも大きな変化をもたらしています。私たちの社会全体が、これまでとはまったく異なったものになっていく転換期を迎えていると言えるでしょう」と述べます。何が起こるかわからない転換期の時代を生き延びるには、本を読むことで養われる「考える力」が絶対に必要です。
そんな時代に意識したい読み方があるとして、斎藤氏は「それは同時代の流行書ではなく、過去の名著を手に取るということです。戦争や災害をはじめさまざまな激動を生き抜いてきた人たちが遺してくれたものを読み、その体験を学ぶのです」と述べます。「現代は戦前に似ている」といわれます。時代がファシズムへ向かっていた100年ほど前と現代とは、戦争、インフレや経済格差の拡大、閉塞感の蔓延、急速なグローバル化に対する揺り戻しなどさまざまな共通点があるとして、斎藤氏は「転換期とは、冒頭にも書いたように、マニュアルでは対応できないものです。似たような状況――おそらく100年ほど前の――を生き延びてきた人類の知恵や経験から学ぶのが非常に大事なのではないでしょうか」と述べるのでした。
第2章「悪夢の読書術――社会の呪縛から自由になる読み方」では、小川公代氏が数々の「血肉の読書技法」を公開。血肉の読書技法④「『柱リーディング』10年先の自分を作る」では、「柱リーディング」という生きていく上で必要な「体力」をつけるための読書を説きます。自分の哲学や思想を深めてくれる、人生の柱になっていくだろう本を、時間をかけてじっくりと読む。これが「柱リーディング」です。では、どんなタイミングで、どうやって柱になる本を選ぶのか。小川氏の場合は、大学院生時代に「これとこれは死ぬまでにしっかりと読まないといけない本だ」と思った本がいくつかあるそうで、それを順番にじっくりと読んでいっていきます。
そうやって小川氏が読んでいった本は、フロイト、ヴァージニア・ウルフ、ハンナ・アーレント、コナン・ドイル、サルトル、ハイデガー、ガダマー、夏目漱石、野上弥生子、三島由紀夫など(ウルフは好きになりましたが、最初は読みづらくて苦労したそうです)。今はちょうど、何年かかけて大江健三郎の全著書を読んでいるところだそうですが、それも20年くらい経ったときに「あのとき読んでおいてよかったな」と思えるように、というのが読む動機になっているといいます。素敵な読書ですね!
血肉の読書法⑤「積ん読解消!『本棚ビオトープ』のすすめ」では、小川氏が「本棚ビオトープ」をすすめています。ビオトープとは、生物が生息する空間のことをいいます。永田希氏は『再読だけが創造的な読書術である』という著書の中でこのイメージを用いています。「積ん読」になってしまった本というのは、死んだものも同然ですが、小川氏は「実際には文字は本の中で、ぴちぴちした魚のように潜在的に躍動を続けているはず。書棚を整理することで、一度死んだ本を手に取りやすくし、再び生きさせていく感覚です」と述べています。
「なぜ『吸血鬼』に感情移入してしまうのか」では、小川氏が「100分de名著」でブラム・ストーカー『ドラキュラ』の解説をした際に、ドラキュラに関連する棚を作ったことを紹介します。並べる順番にも工夫が光って、小川氏は「なんだ、この順番は神じゃない!」と自分で作ったビオトープに感動することさえあったそうです。小川氏は、「ひたすら効率が重視され、機械化や高速化が進む近代ですが、本質的には人間は――あるいは、私は、かもしれませんが――予定調和的なもの、計画どおりのものではなく、新しいものを目にしたときにしか魂が動き出さないんですね」と述べています。
「プロデューサーAの視点」では、秋満氏が『ドラキュラ』を書いたブラム・ストーカーは「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる、イギリスからアイルランドに移り住んだプロテスタントの人々の子孫であったことを紹介します。彼らは、かつては人口的・宗教的には少数派ながら、政府の要職を占めるなどアイルランドにおける支配者層でした。しかし、ストーカーが生まれた時代にはすでに力を失い、社会的に不安定な地位に追いやられていた。イギリス人にもアイルランド人にもなりきれない、複雑なアイデンティティを抱える人々なのだといいます。
さらに、これは後の研究でわかったことですが、ストーカーはいわゆる性的マイノリティ、同性愛者だったといわれています。つまり、彼は何重もの意味でマイノリティであり、当時の価値観では社会から排除される存在だったのです。「排除される存在」としての苦しみ、そして「自分はどこに所属したらいいのか」という揺らぎが、人間社会から排除され、追いつめられていくドラキュラという存在に仮託されているとして、秋満氏は「その姿は、近代化や分断の中でアイデンティティの不確かさに揺れる現代の私たちにも、どこか通じるものがあります。それが私に、ドラキュラに感情移入させた理由だったんじゃないかという気がしました」と述べます。
「日蓮の死生観とは」では、「100分de名著」で『日蓮の手紙』の回を制作しているときのエピソードが紹介されます。講師は、仏教学者の植木雅俊氏でした。日蓮の死生観は、波が生まれたり消えたりしても海そのものはなくならないのと同じように、人が死んでもその生命本体は一貫して存在し続けているという思想から来ています。生も死も、その生命本体の1つの表れ方に過ぎないのだから、自分が殺されたところで「私」という生命はなくならないと考えると、植木氏は説明しました。
秋満氏は、「もちろん、誰かが亡くなってしまうことは、『今生の別れ』という意味でとても悲しい。でも、生命本体はなくなってしまったわけではなく存在し続けているのだから、今その人がいる場所に向かって祈ればいい。その場所――霊山浄土は、決してはるか遠くではなく私たちが生きるこの世界の中に、現実と分かちがたく存在している。そう、日蓮は考えていたのだそうです」と述べるのでした。ちなみに、小川氏から「難病の母親の介護をしているけれど、死に対する不安をうまく取り除いてあげられないでいるんです」という話を聞いたのが、まさに『日蓮の手紙』の回を制作しているときだったそうです。
第3章「AI時代、古典を血肉にする――古人の叡智にアクセスする読みこない方」の「シンギュラリティと古典の意外なつながり」では、安田登氏が「『論語』や『聖書』は、2000年以上も前に書かれているわけですから、現代と生きる人の前提条件も違えば、国も民族も違う。生活様式も異なりますし、もちろん当時はインターネットもAIも存在していない。そんなものを今読んだからといって、お金が稼げるわけでもないし、未来予測ができるわけでもない。それでも読むことを勧めるのには2つの理由があります。1つは『次のシンギュラリティ』を考えるため、そしてもう1つは『温故知新』のためです」と述べています。
アメリカの思想家でAI研究の世界的権威であるレイ・カーツワイルはシンギュラリティが2045年にやってくると予測しました。安田氏は、「シンギュラリティとは、特異点のこと。それまでのゆるやかな変化が突然、急激な変化になる一点がある。それをシンギュラリティと呼びます。水がお湯になる沸点や、液体と気体の境界が消える臨界点なども比喩的にいえばシンギュラリティです。レイ・カーツワイルの予測したそれは、AIが全人間の知能を超える転換点、技術的特異点をいいます。それが2045年にやってくると予測したのです。もうすぐです。さらに彼は、24年に出版した著書“The Singularity Is Nearer”で、その到来が「さらに近く」なるだろうとも述べています」と説明します。
「『温故知新』――新しきが生まれる魔術的時間」では、今の時代に古典を読む理由、もう1つは「温故知新」です。正しくは「温故而知新」、「而」という文字が間に入ります。これは『論語』に載る孔子の言葉です。「1000年前の人の感覚を味わう」では、今が文字誕生以来のシンギュラリティの時期だと考えれば、AIをはじめとするテクノロジーの変化の早さも納得ができるといいます。有史以来の大変化ですから、このような時代には何百年どころか何千年単位でものを見る視点が必要です。そして、そのための視点を獲得する源泉が古典にはあるとして、安田氏は「古典を読み比べることによって、私たちの思考や感性、さらには心性がどのように変わってきたかを知ることができます。そして、それによってこれから先のことを考えるための視点ができてくるのです」と述べます。
その1つの例として「死」についての考え方の変遷を見てみます。なんと、最初は日本には「死」がありませんでした。漢字が中国から入ってきたとき、その概念が日本にはあるものには「訓」をつけました。たとえば「海(カイ:hai)」という漢字に「うみ」という訓をつけたようにです。しかし、言葉そのものや、そういう概念がなかったものには訓をつけることができませんでした。「死」もそうです。「シ」という音はありますが、訓はありません。ということは当時の日本には「死」という概念がなかったということになるわけです。ちなみに、今は「しぬ」には「死ぬ」という具合に「死」を充てますが、本来は「しぬ」は「しなしなになること」であり、漢字を充てれば「萎ぬ」です。けっして、「死」ではないといいます。
こういう漢字はいくつもあるそうです。「感」もそうですし、動詞としては「愛」も「信」もそうでした。ところが漢字(中国)もそうであったように、日本以外の多くの国には「死」を意味する語があり、人々は「死」を恐怖ととらえていました。死んだらもうおしまいなのか、死んだら自分はどうなるのかと。特に近くの人が死んだときには、「明日は自分か」と思いました。そして、その不安を解消した人がいたとして、安田氏は「たとえばイエス・キリストです。イエスは人類の最大、最後の敵である『死』を無力化しました。パウロは「アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになります」と言いました。そして「最後の敵として、死が無力にされます」と言ったのです。
イエスの言葉は「福音」と呼ばれます。ギリシャ語では「エウアンゲリオン(ευαγγελιον)」、エヴァンゲリオンです。英語ではゴスペル、つまりグッドニュース、よい知らせを意味します。人々は熱狂し、踊り出し、大騒ぎをしました。安田氏は、「死を『すべての終わり』として恐れていた人たちに対して、『死の先に新しい世界があるんだ。そこは素晴らし世界だ』と示してくれたのがイエスでした。人々にとっての死は、イエスによって、怖いこと、悲しむべきことではなく、『ハレルヤ』と言って祝福すべきことへと変化したのです」と述べています。
古代ギリシャにも、それと同じような発想に基づく祭儀がありました。紀元前から行われていたとされる「エレウシースの秘儀」です。この秘儀に参加した者は死後の幸福が約束されるので、死が怖くなくなったそうです。「エレウシースの秘儀」は3~4世紀ごろ、キリスト教の広がりによって禁じられてしまうのですが、安田氏は「イエスの福音をはじめ、紀元ゼロ年前後には、こうした『死とは怖いものではない』という思想がいくつも生まれてきていたことがわかります」と述べます。
近年は科学技術の進歩によって、再び「死」というものの位置づけが大きく変わろうとしています。人とAIを融合させる、再生医療技術によって代替臓器や代替皮膚を作り出すなど、かつては考えられなかったようなことが次々と現実になってきています。さらには今後、不老長寿の薬さえ夢ではなくなるのではないかとも言われているようです。安田氏は、「こうなれば、当然ながら死についての思想にも変化が生まれてきます。それは『第二のゴスペル』、新しい福音、新しいエヴァンゲリオンが現れようとしているともいえるでしょう」と述べるのでした。
「『問いを持つ』とはどういうこと?」では、日本の古語の「とう」という言葉にはいくつかの意味があることが紹介されます。1つはもちろん「質問する」という意味の「問う」。それから「訪問する」という意味の「訪う」。そして死者を「とむらう」の「弔う」。これがすべて「とう」です。安田氏は、「自分から積極的に働きかけ、何らかの行為をする、それが『とう』です。効率よく、すぐに答えを求めようとしないことが大事です」と説明しています。能の物語の多くは、旅人であるワキがふと通りかかった場所で、不思議な人と出会うという場面から始まります。安田氏は、「この不思議な人がシテで、実は幽霊・亡霊であることが多い。なぜ、幽霊はこの世にまた戻ってきて、ワキと出会うのか、それはその人には生きているうちに完了できなかった思い、『残念(念を残す)』があるからです」と説明します。
しかし、幽霊であるシテはその場所から動くことはできません。そこにワキが「とう」、すなわち訪問していって、初めて2人は出会うことができるのです。しかも、シテは最初、自分が幽霊などとは言いません。けれども、何か大きな問題、残念を抱えていることはわかる。その残念は、語ることによって昇華するのですが、シテは最初は語ろうともしません。そこでワキは「問う」、さまざまな問いかけをするのです。安田氏は、「といっても、『あなたは何を悩んでいるのですか』などと聞いてはいけません。そんなことを聞いたら、余計に話をしなくなります。ただ、カウンセラーのように、相手が語りやすいような場を作るだけです。そして、シテが語り始めたら、その話に真摯に耳を傾ける。全身全霊を込めて『何もしない』ということをする。するとシテは十分に語り、さらにその語りが最高潮に達すると舞を始めます。それでその残念は昇華し、幽霊は成仏するのです。これが『弔う』です」と述べています。この説明に、わたしは深く感動しました。
安田氏は、古代ギリシャ語の「タウマゼイン(θαυμαζειν)」という感覚に言及します。タウマゼインは、プラトンが「哲学の唯一の始まり」だと発した言葉です。英語で言うならば“wonder”。しばしば「驚き」と訳されますが、単にそれだけではありません。この語には「敬意」の意味が含まれています。これがとても大事です。また、「じっと見る」という意味もあります。じっくりと観察するのです。安田氏は、「切実な問いを抱えながら、古典に対して『敬意』を持ち、『じっくり』と向き合い、そして『驚く』、それによって思いがけず、道がひらける。これは、私たちが未来を考えるときにも大きな力になってくれるはずです」と述べるのでした。
「孔子は『四十にして惑わず』とは言わなかった」では、人は40歳くらいになると、「自分はこういう人間だ」と限定してしまいがちだと指摘します。「自分にはこれだけの力しかない」「これは自分のすべきことではない」「自分の人生はこの程度だろう」などと考えがちになります。孔子は、そうした態度や考え方を「よくないよ、40歳ごろにはそういう気持ちになりがちだから気をつけなさい」と言っているとして、安田氏は「もしかしたら、40歳こそ可能性を広げられる年齢だよ、と言ってくれているのかもしれない。現代の私たちがイメージしている『不惑』とは、だいぶ違ったものに見えてきますね。ちなみに孔子の時代の40歳は、現代の60歳くらいと考えてもいいかもしれません。60歳こそ、新たな自分を探す時期です」と述べています。古典を読むときに、もっとも大事なことは「古典としてこれだけ長い間読み継がれてきたということは、必ず何かがある」ということを心に留めておくことなのです。
「古典は苦難の受け止め方も教えてくれる」では、石油が車を動かすガソリンにもなれば、洋服やプラスチックの材料にもなるように、誰がどのようにアプローチするかによって、自在に姿を変えて力を与えてくれるのが古典だといいます。同じ古典であっても、安田氏が「タウマゼイン」した箇所とは全然違う「ああ」を、他の人は受け取ることもあるでしょう。古典とは社会的資源なのです。安田氏は、「大事なことは、わかった気にならないことです。この本は、まだまだもっと深い。そう心に留めながら、あなただけの『タウマゼイン』に出会ってみてください」と述べるのでした。
「プロデューサーAの視点」の「手放す効能――レヴィ=ストロースで人間関係がスムーズに」では、日本各地のものづくりの現場などを視察して回った経験があるレヴィ=ストロースが『構造・神話・労働』という本の中で、日本人の働き方について「西洋人と正反対だ」と指摘したことが紹介されます。どういうことかというと、西洋人は頭の中に「作りたい姿」がまずあって、それを形にするために自然を改変していこうとする。たとえば、コンクリートで何かを作るとしたら、材料をペースト状にして、自分が想像した設計図に完璧に当てはめて作ります。対して、日本人は自然の中に潜在的にあるものを引き出すことで、ものを作っていこうとします。たとえば石垣。自然の石をどう組み合わせたら石垣になるかを考える。あるいは、陶器を作る人は「この土がなりたがっている形を引き出す」などと言ったりもするというのです。
このような具体例を紹介して、秋満氏は「日本の職人は何かを支配しようとするのではなくて、素材そのものが持っている素晴らしさを引き出そうとするのです。そうした日本人の働き方にレヴィ=ストロースは豊かさを感じていたんだというのが、解説の中沢新一さんのお話でした」と述べています。「おわりに」では、秋満氏が「私が、多くの人に本を読んでほしいと願うのは、それが『戦争を止めること』につながると考えているからでもあります。突然、何を大げさな、突飛なことを言い出したと思われるでしょうか。しかし、歴史を振り返ってみても、戦争が『止められなかった』ときというのは、人々が深く物事を考えることなく、『なんとなく』勢いに呑まれて、流されてしまったときではないかと思うのです」と述べるのでした。これには大賛成です。一条真也の読書館『人文知は武器になる』で紹介した本にも、人文知とは「平和を実現する」知であると訴えられていました。ならば、それは「武器」ではなく、平和のための「平器」と呼ぶべきであると思います。
