No.2467 宗教・精神世界 | 日本思想 | 評伝・自伝 『柳宗悦 美を生きた宗教哲学者』 若松英輔著(NHKブックス)

2026.05.16

一条真也です。ブログ「民禮」で紹介した言葉が大きな反響を呼んでいます。「民禮」とは民衆的儀礼という意味で、民衆的工芸を意味する「民藝」から着想を得ました。「民藝」という言葉を考えたのは柳宗悦という人です。『柳宗悦 美を生きた宗教哲学者』若松英輔著(NHKブックス)を読みました。著者は、1968年、新潟県生まれ。批評家、随筆家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、2016年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞、2018年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16 回角川財団学芸賞受賞。著者の本については、これまでも一条真也の読書館『魂にふれる』、『霊性の哲学』、『悲しみの秘儀』で紹介してきました。

本書の帯

本書の帯には日本民藝館蔵の「地蔵菩薩像、木喰上人(1801年、江戸時代)の写真が使われ、「なぜ民藝の美は、人の心を癒やし、救いへと導くのか。」「生涯と代表作を時系列で追い、『宗教哲学者』としての全体像を描く本格評伝。」と書かれています。また、カバー前そでには「『宗教哲学者・柳宗悦』とは何者か」として、「民衆の日常で使われていた雑器を『民藝』と名付け、その美の中に『救い』を見出した柳宗悦。なぜ柳は民藝に究極の美を見いだしたのか、なぜ美は人を癒やし、救いへと導くのか。文学・哲学・宗教など様々な分野の人物と交流のあった柳の生涯と彼の代表作を時系列で追いながら、近年知られるような美術評論家としてではなく、宗教哲学者としての柳宗悦の全体像を描く」と書かれています。

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」
「凡例」
第Ⅰ部 前半生
第一章 柳宗悦の原点
――目には見えないもの
第二章 神の探求
――宗教哲学という道
第三章 朝鮮の友へ
――美は心と心をつなぎ直す
第四章 木喰仏
――美と信は一つである
第五章 民藝誕生
――名もなきものに美は宿る
第六章 日本民藝館
――美は人々を待っている
第Ⅱ部 後半生
第七章 琉球の富
――民藝新生のとき
第八章 手仕事の意味
――真の美を生み出すもの
第九章 美の法門
――救いは誰にも開かれている
第一〇章 南無阿弥陀
――祈りのなかで生きる
第一一章 心偈―求道の言葉
第一二  柳宗悦の悲願
――美に生かされる

「おわりに」
「参考文献一覧」

「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「柳宗悦(1889~1961)は、近代日本を代表する思想家の1人です。本書では、彼の生涯と境涯を見つめ直してみたいと思っているのですが、今なぜ、柳なのかという問題をまず、考えてみたいと思います。歴史的な人物である、というだけでは、今、改めて彼の言葉と行動の意味を味わう動機にはなりません。柳のような普遍に向かって仕事をした人は、いつ読み直しても何かがある、ともいえるからです。しかし今日は、まさに柳が対峙し、深めた問題に私たちもまた、向き合わねばならないところに来ているように思われてならないのです。柳の生涯を読み解く扉になるいくつかの言葉があります。『宗教』『平和』、そして『美』です」

第Ⅰ部「前半生」の第一章「柳宗悦の原点――目には見えないもの」の「『白樺派』と仲間たち」では、柳が初等科から学習院に通っていたことが紹介されます。その先輩にあたるのが武者小路実篤や志賀直哉でした。当時の学習院の院長は陸軍大将を経験した乃木希典でした。彼にとって人格形成とは、よき軍人になるためのものだったのです。しかし、白樺派を立ち上げることになる柳たちの認識はその対極にあるものであり、彼らは規律よりも自由を尊び、トルストイを重んじ、非戦論を唱えました。著者は、「青年のときに開花した同調圧力に対する抵抗は、柳の生涯を貫くものになります。それは個と自由を軽んじるものへの異議申し立てでもありました」と書いています。

若き柳のもとには武者小路や志賀だけでなく、陶芸家のバーナード・リーチも来て、我孫子に窯を置きました。彼らは集いのときを重んじていただけでなく、皆、柳との対話を尊んだといいます。文学史上では、白樺派とは武者小路と志賀に象徴されるといった紹介が多いですが、柳もまたその最重要人物であり、精神的支柱でもあったのです。著者は、「白樺派の活動は、大正時代を代表する文学潮流の1つにとどまるものではなく、総合芸術精神運動と呼ぶべきものでした。絵画が色の芸術であるように、彫刻はかたちの芸術です。そして文学は言葉の芸術と呼び得るものです。総合芸術運動でなく、総合芸術精神運動と呼ばなくてはならないのは、ここに宗教や哲学も組み入れられているからです。芸術、宗教、哲学、この3つの領域を全身で生きたのが柳でした」と述べます。

白樺派の人々は、海外の芸術を日本に紹介しました。著者は、「現代の私たちと印象派の画家たちとの関係も、白樺派の人たちが紹介しなければまったく異なるものになっていたのかもしれません。武者小路はのちに、日本にゴッホを紹介したのは自分だったかもしれない、という主旨の言葉を残しています」と述べます。批評家の小林秀雄も白樺派に大きな影響を受けた人物でした。若き小林が志賀を敬愛したことは知られています。柳宗悦は小林の才能をいち早く見出した人物でした。さらに柳と武者小路は、小林が文壇に登場するとき重要な機会を提供します。2人が刊行していた『大調和』という雑誌に寄稿したことが、小林の重要な一歩となりました。小林の代表作に数えられる『ゴッホの手紙』『近代絵画』なども白樺派との関係がなければ生まれなかったのかもしれません。

「『見えないもの』の世界に姿を与える」では、若き柳宗悦がイギリスの詩人であるウィリアム・ブレイクの研究に情熱を燃やしたことが紹介されます。「目」と「眼」、日本語には、ものを見る2つの「め」を指す言葉があります。前者は肉眼を指しますが、後者は仏教でいう心眼、目には見えないものを見通す眼です。仏の眼が開かれることを開眼というのはそのためです。著者は、「ブレイクは眼で見たものを人の目に見えるかたちで表現し、見る者たちの眼を開こうとしたのです。柳がブレイクから受け継いだ使命も同質のものでした。ブレイク伝だけでなく、のちの民藝運動までを含めても、世の人の眼に訴える仕事であることは変わらなかったのです」と述べています。

「民藝」と呼ばれる以前、柳が発見した民衆の生活具は「下手もの」と呼ばれていました。柳が「眼」でとらえるまでは誰も顧みない、価値のない器や道具に過ぎなかったのです。眼で見ること、それは物を新生させる創造的な営みなのです。目の世界では死者は幻影にすぎません。しかし、ブレイクは「眼の境域において死者は、生者とは異なる意味での『実在』である」と感じていました。本当に優れた芸術は、すべて精霊によって与えられたものなのでしょう。ブレイクは、創造の秘密を眼で「見て」いるのです。そうした経験を彼は「ヴィジョン」と呼びました。柳は評伝で、目に見えるものが現実であると信じて疑わない現代人への深い批判を込めてそれを「幻像」と訳しています。つまり、実在は、目の世界だけに生きる者にはしばしば幻に感じられるというのです。

「受け継いだ『眼』のちから」では、柳がブレイクから学んだことをあえてひと言で表現するなら、「見えない実在」であると述べられます。彼方の世界も精霊もまた、見えないが実在するものです。著者は、「目には見えないけれど大切なものがあることを私たちは知っています。まず、人間の気持ちがそうです。信仰も愛も希望も、その本質は目には映りません。それでも人はそれをはっきりと感じることがある。不可視なものをめぐるブレイクの感覚は特異なものでした。しかしそれは異常なものではなかったのです」と述べます。そうしたブレイクの世界観をめぐって、柳は『柳宗悦全集 第四巻』所収の「ウィリアム・ブレーク」で、「彼の前にはすべてのものは甦って見えた。彼は死者にも永劫の生命を見出して彼等を友として日々を過ごした。彼にとって最も切実な世とはこの仮象の世界ではなかった。事象の奥底に動き躍る実在の世界そのものだった。彼にとっては見えるものは見えないものの衣だった」と述べています。

また、著者は「衣だけを見て、その人を判断すると大切なものを見失うことがある。社会的生活では「衣食足りて礼節を知る」という『管子』の言葉も真実かもしれません。しかし、人間存在においてもっとも重要なのは、その人が身にまとっているものではなく、その人の魂の姿ではないかというのです。また、この一節には、見えるものはいつか朽ち果てる。しかし見えないものは朽ちることがない、ということも含意されているのだと思います。見えるものに対する見えないものの優位は、ブレイクの宗教観を貫くものでもありました」と述べるのでした。

第二章「神の探求――宗教哲学という道」の「開かれた意味での『宗教』」では、宗教哲学者としての柳宗悦の代表作『宗教とその真理』(『柳宗悦全集 第二巻』所収)を取り上げ、柳における「宗教」と「神」について言及しています。現代では「神」という言葉は、キリスト教における「神」を想い起こさせることが多いですが、柳のいう「神」はそこに限定されません。柳は同書のなかで、キリスト教だけではなく仏教、儒教、道教、ヒンドゥー、さらにはイスラームにまで言及しています。彼がいう「神」は1つの宗派に留まらない超越者なのです。

同質のことは「宗教」という言葉にもいえます。柳がいう「宗教」は「神の道」といったほどの意味でるとして、著者は「人は『神の道』を歩くときに1つの宗派を杖にしながら歩くことがあります。ある人はキリスト教という杖を持ち、ある人は仏教という杖を持つ。どの杖を持つかは、その人が生まれ持った文化、環境、あるいは遭遇する出来事によって変わってきます。どの杖でなくてはならない、ということはありません。それらを包含する開かれた形の杖を柳は、『宗教』と呼んでいます」と説明します。

開かれた宗教的地平を説明するとき、著者はしばしば手のひらを喩えにするそうです。仮に5本の指をそれぞれキリスト教、イスラーム、仏教、ヒンドゥー、ユダヤ教ということにすると、5本の指は宗派的宗教です。それらを支えている手のひらが、柳のいう「宗教」です。原宗教、あるいは霊性的宗教と呼んでもよいかもしれません。柳の師でもあった仏教哲学者の鈴木大拙は、この手のひらの部分を「霊性」という言葉で表しました。この著者の考え方には、全面的に賛成です。

ここで「神秘道」という言葉が登場します。20世紀日本を代表する世界的な哲学者・井筒俊彦の若き日の主著『神秘哲学』に登場する言葉です。柳宗悦と同じように井筒俊彦にも心酔する著者は、柳の著作を読み、井筒が「神秘道」という言葉だけでなく、宗教哲学者としての柳に大きな影響を受けていることが分かってきたそうです。井筒俊彦は、イスラーム神秘主義の研究で知られていますが、彼は古代ギリシア、ユダヤ、あるいはキリスト教神秘主義の世界も深く探究しました。その道筋を開いたのが柳でした。没後でしたが、著者は井筒俊彦の書斎を何度か訪れたことがあるそうです。そこには、大正期に刊行された柳の著作が、とても大切そうに蔵されていたとか。

「神という『場』」では、「柳と死者」という問題が取り上げられます。柳は韓国で愛する妹を喪いました。最愛の妹・ちよ(千代)を亡くした際、その悲しみと向き合った思索を「妹の死」という文章に遺しています。この中で柳は、悲しみという感情を否定するのではなく、むしろ亡き人とつながるための「絆」として肯定的に捉えています。悲しみへの思想: 柳は「悲しみこそは愛の絆である」「悲しみにおいて妹に逢い得るならば、せめても私は悲しみを傍ら近くに呼ぼう」と述べています。悲しみがあるからこそ故人を強く想うことができ、その感情が愛を燃え上がらせるという宗教哲学的な視点を示したのです。著者は、「ブレイクがそうであったように柳にとって『書く』とは、まず、死者たちへ言葉を贈ることだったのではないでしょうか。死者に向かって言葉をつむぐとき、私たちの思いがいっそう真摯になるのはいうまでもありません」と述べます。

第三章「朝鮮の友へ――美は心と心をつなぎ直す」の「西洋と東洋は相補すべきものである」では、日本と韓国だけではなく、中国、インドとも確かなつながりを築かねばならない。そして東洋が真の使命に目覚めることで、東西の結びつきもいっそう強固なものになる、という柳の考えが紹介されます。これは、柳も敬愛した岡倉天心が『東洋の理想』などで主張したこととも強く響き合います。著者は、「私たちが教科書などで学ぶ近代日本の誕生は、西洋化と同義のように語られますが、内実は違います。西洋と東洋を高次な意味で統合しようとした人物もいたのです。天心だけでなく、内村鑑三、井筒俊彦、そして柳もそうした人物でした。柳がいう東洋は西洋の対義語ではありません。それはもう1つの可能性と地平を示す言葉です。西洋と東洋は相反するものではなく、相補すべきものである、というのが柳の認識でした」と述べます。

モナド論を提唱したライプニッツと華厳経の近似を指摘する声があります。ショーペンハウエルの哲学は、東洋哲学との出会いなくしては生まれませんでした。ユング心理学に与えた東洋の影響はさらに甚大です。シュタイナー教育で知られるルドルフ・シュタイナーになると、東洋的世界観は思想的核心にふれるものになっています。ある人は印象派の画家たちに与えた浮世絵の影響を語るかもしれないとして、著者は「つまり、民藝運動を近代日本精神史上の注目すべき出来事として認識するだけでは、その可能性を十分にくみ取ることにならないのです。民藝運動は、近代日本の美の常識を根底から変えました。しかし、その原動力は、日本という一国のなかでのみ生起したのではないのです」と述べています。

「『朝鮮の友に贈る書』に込めたおもい」では、柳の「器は『情愛の友』である」という言葉が紹介されます。器は自らを主張せず、ともに暮らす人間の心にどこまでも寄り添ってくれる。「かくして二人はいつも共に悲しみや悦びの世界に歩む」という言葉にも柳の深い実感があります。柳は器の文様やかたちだけでなく、その『線』に強く打たれます。「人はこの線の秘事を解き得ない間、朝鮮の心に入る事は出来ぬ」とさえ書いています。「線」とは、単にものの輪郭のことではなく、そのものを在らしめている不可視なはたらきのことです。著者は、「目に見える姿だけではなく、目に見えないものも含めた全体を包み込むような、心に直接響いてくるもの、それこそが朝鮮芸術の本質だと柳は感じている。さらにいえば、『線』が沈黙のうちに物語るのは、悲しみと苦しみによって裏打ちされた言葉たり得ない叡知だというのです」と解説します。

「『情の日本』と『力の日本』」では、柳を動かしたのは陶磁器のような「もの」だけでなく、その奥に生きている韓国の人々の心情であったことが指摘されます。「もの」と「こころ」を1つのつながりのなかでとらえること、これは現代における民藝を考えるときに重要な態度です。著者は、「私たちは民藝を『こころ』とは関係のない単なる『もの』としてとらえるようになっていったのかもしれません。『朝鮮の友に贈る書』で柳は、韓国の人たち、あるいは韓国という場所との心のつながりを強調します」と述べています。柳によれば、朝鮮の藝術は、美の世界や歴史にだけではなく「心の物語り」が生まれる場所にも導いたのでした。

第三章「愛の復権」では、語らざる美のほかに、柳が頼みにしたのは「涙」のちからであったことが指摘されます。涙そのものというよりも、深いところで涙とともにある人間の精神を信じたというべきかもしれません。著者は、「人は悲しいときだけ涙を流すのではありません。情愛を深く感じたときも涙を浮かべます。それは、自分自身と深くつながるときであり、他者とのつながりを確かめるときでもあるのです。他者を愛する、それが人間にとって自然な状態であって、憎むのは不自然である、と柳はいいます。現代では『愛』を率直に語る人が少なくなりました。誤解を恐れずにいえば、語り得る人が少なくなってきた。柳は違います。愛のはたらきなく、融和や平和を実現しようとすることのほうが、柳には非現実的に映ったのです」と述べています。

「愛の訪れを待つ藝術」に愛が注がれがたくなっていても、世のなかに大きな影響はないのではないかと考えることもできます。しかし、柳が述べようとしているのは、人が人に直接、愛を注ぐこともできる。しかし、人が「もの」に注いだ愛が、姿を変えて、広く、深く浸透していくこともある。人が人を愛し続けるには「もの」の助力が必要な場合がある、ということでしょう。このことは私たちが日常生活でも経験していることであるとして、著者は「もしも、人が『もの』に対する愛惜の念を失ってしまったら、芸術は消えてしまい、そのことで慰めを見失う人が数多くいるでしょう。特定の誰かのためでなくとも通りに花を植える人もいます。その人の花への愛は、その人が気がつかないところでほかの人へと伝播するのです」と述べます。

「悲しさの美しさ」では、「朝鮮の友に贈る書」から35年後に柳は、主著である『南無阿弥陀仏』を世に送ったことが紹介されます。同書で柳は「かなしみ」は、悲しみだけでなく、愛しみ、美しみと書いても「かなしみ」と読むと述べています。悲しみはそれが真実であるとき、どこかに美を胚胎する、というのです。また、「国境を越える」ことが、「心と心とが逢う場所」としての朝鮮民族美術館、そして日本民藝館の設立へとつながっていきました。しかし、そうしたおもいを見るだけでは不十分だといいます。1つの器であったとしても、人がそれに心を開くことができれば、その場は「愛の会堂」になり、人は争いの愚かさに気が付くのです。

「互いにわれを忘れ」「他の心に活きるわれのみがある」、こうした関係が生まれる場もまた深い美を宿しています。争いは、美しいものを破壊します。芸術品だけではありません。人と人の関係、人間のなかで息づく思い出、そして密かに育まれる未来、こうしたものも無惨にも破砕するのです。著者は、「悲しみから逃れることができないのが人生であるとしても、それを苦しみとしてだけ経験するのではなく、悲しみによって他者、時代、世界とのつながりを深めること、そうした道を柳は切り拓こうとしています。そして、人はその道程で自分とは何であるかを発見していくのではないでしょうか」と述べるのでした。

「人生の深みに導く舟」では、柳が「悲み」だけでなく、涙に対しても「御身よ」と呼びかけ、「感謝する」と述べたことが紹介されます。悲しみも涙も、このときの柳にとっては、痛みの経験の副産物ではないのです。それは真実へと彼を運ぶ不可視な舟のようなものです。だからこそ、柳は「悲みにおいて妹に逢い得るならば、せめても私は悲みを傍ら近くに呼ぼう」とまでいうのです。著者は、「涙が人生の深みへと導く舟になるとき、私たちにとって生きることの意味が、これまでとはまったく異なるものとして感じられてくるのです」と述べるのでした。

第四章「木喰仏――美と信は1つである」の「微笑みの源を見つめる」では、江戸時代には読み書きのできない人が数多くいたことが紹介されます。言葉だけにたよっていては、仏の道は開かれていきません。言葉を介さず仏の道に出会うためにできること、その探究の結果が仏像を彫ることだったのです。木喰の仏像を見る人にとっては、仏像の姿や表情が意味の源泉になります。それはときに多くの言葉を読む以上に深く、人々の心に何かを届けることができたのです。著者は、「木喰仏は、名なき、愛すべきものとして人々の生活に溶け込んでいました。しかし、木喰の遺稿を探し、彼の仏像を探すために日本を行脚している人物は柳の前には現れませんでした」と述べるのでした。

第五章「民藝誕生――名もなきものに美は宿る」の「雑器の源流を見つめる」では、今日では「民藝」と称されているものも、柳たちがその言葉を見出すまでは、「下手もの」と呼ばれていたことが指摘されます。呼称が暗示しているように、その存在を顧みる人は多くありませんでした。「下手ものの美」が発表された1926年という年は、「民藝」という言葉を初めて使い出した翌年です。それは「民衆的工藝」の略語です。1925年の12月、柳が民藝運動の仲間である河井寛次郎、濱田庄司とともに木喰上人についての調査のため紀州に出かけ、そこで生まれた言葉であるとされています。

「美と信をつなぐ理」では、知的なるものへの偏りは「作る」「用いる」「見る」という行為から人を遠ざけつつあるようにも感じられると述べられます。知ることと行うことのあいだに大きな溝があるのは、現代特有の現象ではありません。「知行合一」、知ることと行うことは1つでなくてはならない。中国の明の時代の思想家で陽明学の祖である王陽明の言葉です。著者は、「この言葉は行動の重みを説くものとして語られますが、それほど単純ではありません。単に知ることで満足する者は何も行わないということだけでなく、知を意識しないとき人は、かえって意味あることを行うということも含意しているように思われます。雑器にふれ、柳が発見した理も同質のものだったのです」と述べます。

「『雑器』の基本的な性格」では、日常性、廉価性、用途性、これが「雑器」、すなわちのちの「民藝」の基本的な性格なのだといいます。用途性という言葉は耳慣れないかもしれません。それは、日々の生活でしっかりと用いることのできるものです。見た目はよいがすぐに壊れてしまうものの場合、装飾性は高くとも、用途性はありません。事実、飾り物としてはよいが、用いることのできない器は、世に珍しくありません。雑器とは枯れることのない「花」である、と柳は感じていました。著者によれば、柳の「感激」という表現もこうした認識と無関係ではありません。

民藝初期の代表的著作『工藝の道』でも柳は、工藝――雑器と同義です――を草花に喩えています。雑器という「花」は、人間とは異なるかたちをしているが「いのち」あるものであり、美しく、そして沈黙のうちに人に寄り添い、ときに人よりも深く慰めることがある。そう感じていたようにも思われます。著者は、「雑器に『いのち』を感じる。こうした言葉を前にすると、現代の知性ある人は、それを科学的に証明することはできない、と反論します。あるいはそれは一種の比喩に過ぎないというかもしれません。ここでいう「いのち」は、いわゆる生命現象ではありません。「いのち」は存在と同義です。

死者は肉体をもちませんが、「いのち」あるものであることは変わりありません。ただ、「いのち」の在り方、すなわち存在のありようが生者と異なるだけです。ブレイクは、死者や精霊に「いのち」を見た人でした。柳は木喰仏に「いのち」を見出し、その促しに呼応するようにして、ある時期の人生を捧げました。同質のことを彼は雑器とのあいだにも感じ、その導きに従おうとしているのです。「実用のものであるからといって、それを物的なものとのみ思うなら誤りである。物ではあろうが心がないと誰がいい得よう」と柳は書いています。「いのち」なきものに「心」がないのはいうまでもありません。

「言葉も民藝」では、柳は言葉もまた「民藝」の1つだと考えていました。韓国の光化門のような大きな建造物も、言葉のような存在も、柳にとっては民衆が民衆の生活のために生み出したものとして認識されていたのです。著者は、「私たちの人生に本当に必要な言葉とは、華々しいものでも、珍奇なものでもありません。それはこれまでもずっとともに生き、暮らしてきた言葉です。そうした言葉と深くつながることで言葉に秘められたはたらきと出会い直せるのではないでしょうか。「雑器の美」には、「忍耐とか健全とか誠実とか、それらの徳はすでに器もつ心ではないか。それはどこまでも地の生活に交わる器である。しかし正しく地に生きる者を天は祝福するだろう。よき用とよき美とは、叛く世界ではない。物心一如である」と書かれていますが、ここには言葉との関係を深める秘密を見出せるように思えます。

「深くつながる『もの』を見出す」では、人が用い、器が仕えることが強調されます。二者のあいだにあるのは上下の関係ではありません。柳は「伴侶」であり「友」だといいます。伴侶や友とのあいだに上下、支配と被支配の関係があったら、それは伴侶でも友でもなくなってしまいます。著者は、「人は器を用い、愛さねばならない。器はそれに呼応するように美のちからを世界に放つ。器は慎み深く、『謙譲の徳』を体現している。人はそれに学ばねばならない。人と『もの』は互いを支え合うように生きていくことができる。『もの』とは消費する対象ではなく、生きる意味を分かち合い得る相手でもあるのです」と述べています。

「手仕事の重み」では、手仕事を支えるのは「神」だけではないことが指摘されます。雑器の作り手は、日々、同質の仕事を反復します。繰り返しとは、同じ線をなぞるようなことですが、反復は違います。「反復は熟達の母である」、あるいは「反復において彼の手は全き自由をかち得る」と柳がいうように、それは仕事を鍛えつつ、新しい営みとして行われるのです。事実、民藝には似た模様の器がいくつもあります。しかし、同じものはありません。著者は、「手仕事とは、ある品質の高みにあるものを1つ1つ創造していくことにほかならないのです。また、器の場合に顕著ですが、手仕事は地域の特性や歴史と強くつながっています。そのちからを借りつつ、仕事が行われている。地域の土、水、気候、あるいは伝統も雑器の『素材』なのです」と解説するのでした。

第六章「日本民藝館――美は人々を待っている」の「理論よりも先に愛があった」では、現代では多くの人が、コンセプトなどの言葉を先に立てて、そこからものや仕組みを作っていこうとすることが指摘されます。しかし、柳たちの場合は逆でした。「もの」との出会いがあり、抗いがたい美の経験があって、そこから言葉や場、共同体、建物までもが生み出されてきたわけです。著者は、「民藝という言葉にちからがあるのも、そうした背景があるからかもしれません。人間が『作ろう』として作った言葉ではない、すでにあるものや経験から生まれてきた言葉です」と述べています。

「『文字なき真理の文』を読む」では、民藝初期の柳の代表的著作である『工藝の道』が取り上げられます。同書の「工藝の美」では、「工人」という言葉は幾たびも用いられます。「器に見られる美は無心の美である。美とは何か、何が美を産むか。どうして無学な工人たちに、かかる思索があったであろう」と書き、柳はこう続けています。「それがどうしてできるか、それにいかなる性質があるか、問われるとも何一つ答えの持ち合せがなかったであろう。ただそこには堆積せられた遠い伝統と、繰り返された永い経験との沈黙せる事実のみが残る。だが彼らは識らずとも作った。否、識ることを得ずして作った。識る力も許されずして作った。作る物が美しいか、果して作る資格があるか、どうしてそんなことへの疑いがあり得よう。私が今書いているこの一文を示したら、彼らの顔には困惑の色のみが浮ぶであろう」と書いています。

『工藝の道』は民藝思想の基盤となる一冊ですが、その冒頭に置かれた「緒言」には、以下のように書かれています。
「工藝 私はこの世界をいかに久しく愛してきたか。いつも一日がそれらのものの中で暮れる。器物とはいうもすでに一家の者たちである。私を訪われる誰とても、それらの者に逢わずしては帰ることができない。だがその多くは見慣れないものに感じられたであろう。私はそれらの多くを見捨てられた個所から救い出した。そのためであろうか、器は特に私の傍に在ることを悦ぶようにさえ思える。かくして長い間、お互いに離れがたく朝な夕なを共に過ごした。そうしてその情愛の中で幾多の秘義が、その匿れた扉を私のために開いた。そうして文字なき真理の文が、数多くそこに読まれた。私は謝恩のしるしにも、示されたものを綴っておきたい」

この「緒言」について、著者は「器は家を飾るものではなく、同居者だというのです。柳の家は小さな民藝館のようだったのかもしれません。生活のなかに工藝があるというよりも、工藝との日々のなかに生活がある、というのです。二重の円を描くと分かりやすいかもしれません。内円が生活であり、外円が工藝との日々です」と述べます。求道者であれば、「工藝との日々」は「祈りとの日々」になりますが、生活のなかに祈りがあるのではありません。祈りのなかに生活があるのです。ここでは「祈り」という言葉をめぐる大胆な変転が起こっています。

著者は、「普通、祈りとは神に向かって自らのいたらなさを告白したり、願いごとをしたりすることを指します。しかし、経験を深めた求道者にとって祈りとは、自らは沈黙し、大いなるものの声に耳をすますことなのです。つまり、手を合わせて静かに坐すときだけが祈りではなく、大いなるものに開かれている存在のありよう自体が祈りになってくる」と述べています。柳は、美は「貴賤の別なく、貧富の差なく、すべての衆生の伴侶である」とも訴えていますが、これはブレイクが説いてやまなかったことでもありました。

「工藝を民衆の手に返す」では、民藝とは「現世の園生に咲く神から贈られた草花である」という柳の言葉が取り上げられます。それがなければこの世は砂漠になっていただろうとさえ柳はいいます。著者は、「道端に美しい花があってもそれを顧みる人は少ない。しかし、松尾芭蕉が『よくみれば薺花さく垣根かな』と詠んだあとでは、多くの人にとって世界は違った姿に見えてきます。芭蕉は、言葉によって『薺』という美の使いをすくい上げたのです。工藝が『草花』であれば、この世は土壌ということになります。民藝運動はその出発点から大きく2つの実践を試みていました。それは民藝を発見することと民藝を作ることです」と述べます。

柳は「雑草」という言葉をよく使いました。「雑草」とはあふれんばかりの情報ともいえそうです。「石」とは、美をめぐる私たちの固定観念かもしれない。そして「土塊」とは、美を価値においてではなく、価格でしか考えなくなっている風潮だといえるかもしれません。著者は、「私たちは柳たちのように世の無理解と戦いながら美を発見する必要はありません。しかし、時代の価値観との戦いは止めてはならないように思われるのです」と述べます。『工藝の道』で柳は「民藝」とは「民衆的工藝」であるだけでなく「民主的工藝」でもあると述べています。民主主義とは、社会的立場や権力の有無によらず、誰もが1人の人間として、尊厳が認められることです。民主的を示すDemocraticには社会的平等が根本思想として宿っています。

「『紙上の美術館』――日本民藝館誕生まで」では、柳が雑誌『白樺』の仲間たち――志賀直哉や武者小路実篤、そして有島武郎――とともに影響を受けた内村鑑三が取り上げられます。内村は無教会を提唱しました。キリスト者であるためには教会や儀礼は必ずしも必要としない、というのです。内村とその同志たちは建物としての教会をもたず、自分たちで聖書研究の冊子を作って布教活動を行っていました。宗教学者で無教会研究の第一人者赤江達也は、こうした在り方を「紙上の教会」と呼んでいます。著者は、「柳たちが民藝館建設までのあいだに行っていたのも『紙上の美術館』だったといえるように思います」と述べます。

「新しい美の基準」では、美を前にするとき、人は真や善を問題にするときよりもずっと寛容になれると述べられます。自分の感覚に呼応するのとは異なる美があることを認識できる。柳にとって美は、救いの門でもありましたが、同時にもっとも高次な意味における「平和」の門でもあったのです。著者は、「民藝館の建設は、民藝運動における大きな目印になりました。このあと柳は何かに導かれるように沖縄に行き、かつての琉球王国の文化にふれ、民藝のもう1つの原点を発見し、さらなる可能性に開かれていくことになるのです」と述べるのでした。

第Ⅱ部「後半生」の第七章「琉球の富――民藝新生のとき」の「沖縄――民藝新生の原点」では、日本民藝館が開設された1936年の前年頃から、柳宗悦は雑誌『工藝』で沖縄の紅型型紙を紹介するなど、沖縄の文化に強い関心を抱くようになったことが指摘されます。続いて、民藝運動の2つの原点が紹介されます。つまり始原の原点と新生の原点です。著者は、「人は、原点だけを眺めていると、本質を見失ってしまうことがあります。真に意味あるものは変革しながら成熟していきます。新生の原点を注意深く認識していくことこそ、その本質に導いてくれる。柳の沖縄体験は、まさにその象徴的な出来事だったのです」と述べています。

「生きている大和の文化」では、沖縄は地理的には中国に近いから、さぞその影響が強いだろうと思われるかもしれないとしながら事実は異なるとして、柳が「大和――日本文化の古層――が驚くほど生き生きと残っている。民衆の生活に古い文化が、いのちを帯びたかたちで存在している」と述べたことが紹介されます。これは、柳のなかでは、1つの「事件」と呼んでよいほどの大きな出来事だったようです。著者は、「21世紀を生きる私たちにとって大和の文化は、日常というよりは歴史であり、『生活』ではなく『学ぶ』対象です。しかし、柳が訪れた当時の沖縄においては、それが文字通りの意味で『生きて』いたのです」と述べています。

「墳墓――生者と死者が出会う場所」では、柳の著書『民藝四十年』所収の「琉球の富」では、民藝の具体例として最初に語られるのが「墳墓」だと明かされます。墓のありようは、その文化の霊性を表現しています。西洋の多くの国々ではお墓にある種の「明るさ」がありますが、それは神の国、天国につながる場所だという認識があるからかもしれません。いっぽう、日本の墓は静寂の場所だと柳は指摘します。自分のなかに生きている静寂を発見する場所、あるいは静寂の力を借りて、生きている者と亡き者が出会う場所だというのです。

また柳は、すべての墓は「一国の信仰の切実な表現」であるとも考え、「琉球の富」に「死は吾々に最後の態度を求めるのです。死によって各々の国民は彼が抱く人生への哲理が如何なるものであるかを告白してしまうのです。すべての墳墓は一国の信仰の切実な表現なのです。あるものは清浄であり、あるものは巨大であり、あるものは華麗であり、あるものは静寂であり、あるものは悽愴でさえあるのです」と書いています。

琉球の文化や生活は、「霊と霊との触れ合い」、つまり、生者と死者とのつながりによって育まれていると柳は考えました。ここでの「霊」は、幽霊という意味ではありません。なぜなら、「霊と霊との触れ合い」というとき、いっぽうの「霊」は生者のそれだからです。柳がいう「霊」とは死してもなお残る人間の実在です。この世にあるとき人は、肉と霊からなる存在として生きていますが、死を経て新生すると純粋な意味での「霊」になるのです。著者は、「精霊の存在を信じるかどうかは別にして、この世が生者だけで成り立っていると私たちは本当に思っているのでしょうか。もしもそうであるなら、どうして私たちは墓参りや法事、あるいは追悼式などを行うのか。知性は死者の存在を否定しても私たちはそれとは異なる生を日々、営んでいるのではないでしょうか」と述べています。

「『宗教以前』の世界」では、柳の目に沖縄はいわば「宗教以前」のものが生きている場所として映っていたことが紹介されます。善か悪かといったことを言葉で論じ分ける以前の、混沌としているが、力のある、人間の存在そのものを包み込む何かが、そこには息づいているというのです。著者は、「そうした地平に立ってみると、宗教や道徳といったものは人が作った、歴史の浅いものだという感覚を拭いきれないというのです。もちろん、宗教や道徳が不要だということではありません。宗教や道徳の今日の姿を見るだけではなく、その源泉を見つめる重要性を柳は問い直しているのでしょう」と述べます。

「琉球の富」が発表されたのは1939年ですが、その少し前、1932年に、20世紀フランスを代表する哲学者ベルクソンが『道徳と宗教の二源泉』という本を出版しています。書名から分かるように、ベルクソンもまた、道徳と宗教を論ずるとき、その「源泉」を見つめる必要があると考えていたのではないかと推察し、著者は「柳とベルクソン、2人がほぼ同じ時期に同質のことを考えていたというのはとても興味深いことです。「琉球の富」で、柳は「実在しない精霊があるならば、この世もなくこの生活もなく、すべての事物さえあり得ないのです。精霊よりも鮮やかなまざまざと活きたものが他にあろうはずはないのです。その精霊が日夜を送る住居にこそ墳墓を築くのです」と書いています。

「墓は死者の生活の場である」と柳は言いました。死者の存在や死者との日常が容易に視座に入ってこない現代人にとって、墓は単に亡骸を安置するだけの場所になっているのかもしれませんが、柳にはまったく違う実感があったのです。彼にとって生きるとは、生者とだけでなく、死者とともに生きることだったのです。もしかしたら死者は現世の人間よりも生き生きと生きているのかもしれない。柳はそうとすら感じているのかもしれません。さらに柳は、こうした死者への、つまりは精霊への信仰が沖縄の美と深くつながっていると指摘したのでした。著者は、「美と信仰の問題は分けることはできない。沖縄だけでなく、本当に美しいものがあるときには、そこに必ず信じるに値する何かがある、というのです。ここでいう『信仰』が『宗教以前』のそれを含むのはいうまでもありません」と述べます。

死者を見失った、あるいは信仰の力や美の力を見失った人は、大きな迷路に入り込んでいます。沖縄の墳墓は、そこから抜け出る道を私たちに示しているのではないか。亡き者、つまりは精霊、美、信仰、この3つとのつながりを確かめ直すことで、私たちは自らを日々支えているものを、再び、古く、しかし、新しいものとして見出すことができるのではないか、と柳はいうのです。著者は、「古いものが、新鮮な感覚を呼びさますのは珍しいことではありません。誤解を恐れずにいえば、古くから生きているものこそ、私たちを真の意味で新しいものへと導くのではないでしょうか。つまり、それはけっして古くなることのない永遠なるものにほかならないのです」と述べています。

「琉装――自然の美を教えるもの」では、沖縄の衣装である「琉装」が取り上げられます。「想うに琉装は2つの起源から発したものです」という柳は、「1つは言語と同じく日本の鎌倉、足利時代の風俗を受け承ぐものです。そうして1つにはその土地の温度や湿度から必然に喚起させられたものなのです。いわば歴史的伝統と自然的要求との結合であって、地方風俗としての充分な根拠を有するものです」と述べています。琉装と「能」は深い関係にあるといいます。能は、生者と死者が出会う場です。柳は、能衣裳について「ゆかしい形」だともいっています。着物1つとっても、生者の世界と死者の世界がつながっているという実感がありありと生きている。それが柳の考える「ゆかしさ」なのです。

「琉球の富」のなかに、柳は「珍らしい特別な服装であるから、それを保存せよというのではないのです。同じように見慣れない奇異な服装であるから、それを棄てよというべきではないのです。それは日本の正系の服装であるが故に保存せよというのです。それは美しいが故に讃えよというのです。それは自然と調和ある故に用いよというのです。それは地方固有のものである故、大切にせよというのです。そこには合理的なものがあるから持続せよというのです」と書いています。この一節は、柳宗悦における民藝の立脚地を端的に物語っているように思われます。

第八章「手仕事の意味――真の美を生み出すもの」の「『手』の重要性」では、「創る力」こそ文化の源泉であると訴えます。そして、文化こそ、人間が生み出し得るもっとも豊饒なものなのではないかといいます。文化のなかに芸術も宗教も生活も生まれるのであり、文化のない生活とは美と分断された生活にほかなりません。また柳は、手仕事には手堅さ、自由、責任が伴うともいいます。つまり、そこには1個の人間が何かを賭したことによる裏打ちがある、というのです。柳は「仮りにこういう人間的な働きがなくなったら、この世に美しいものは、どんなに少くなって来るでありましょう」と述べ、「各国で機械の発達を計ると共に、手仕事を大切にするのは、当然な理由があるといわねばなりません。西洋では『手で作ったもの』というと直ちに『良い品』を意味するようにさえなってきました。人間の手には信頼すべき性質が宿ります」と述べます。

「上手」とか「下手」とかいう言葉は、直ちに手の技を語ります。「手堅い」とか「手並がよい」とか、「手柄を立てる」とか、「手本にする」とか皆手に因んだ言い方です。「手腕」があるといえば力量のある意味です。それゆえに「腕利」とか「腕揃」などという言葉も現れてきます。それに日本語では、「読み手」、「書き手」、「聞き手」、「騎り手」などの如く、ほとんどすべての動詞に「手」の字を添えて、人の働きを示しますから、手に因む文字は大変な数に上ります。著者は、「『手』という言葉が遠くなるとは、人間の存在そのものが遠くなっていくことにほかなりません」と述べます。言葉を失うことは、世界の喪失と同義です。大切な言葉との関係を緊密にする。そこに柳は『手仕事の国」の復活の起点を定めようとしています。そして柳は「手」を動かすことは、心を動かすことでもあるというのです。

著書『手仕事の日本』に、柳は「そもそも手が機械と異る点は、それがいつも直接に心と繋がれていることであります。機械には心がありません。これが手仕事に不思議な働きを起させる所以だと思います。手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを創らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。そうしてこれこそは品物に美しい性質を与える原因であると思われます。それ故手仕事は一面に心の仕事だと申してもよいでありましょう。手より更に神秘な機械があるでありましょうか」と書いています。手を動かすのを止めてしまったら、心も動かせなくなってしまいます。しかし、手を動かせば心は同時に動きます。この理に柳は、一縷の望みを見出そうとしたのでした。

「土地、歴史とのつながり」では、ものが生まれるときには、気候や風土などの「場のちから」が大きく作用することが指摘されます。それを大きく利用しているともいえます。しかし、現代人はそのことが分かりにくくなってきているのではないかとして、著者は「設備さえあればどんなものも、どこででも作れると思い込んでいるのかもしれません。たしかに、それらしいものはどこででも作ることはできるでしょう。しかし『固有』なもの、生活の深部で私たちを支えているものは今日でも、その土地の『色』によって彩られています。世のなかでよく売られている『民芸品』というのは、柳がいう『民藝』とは似て非なるものです。『民芸品』のなかには量産された『粗末』なものも少なくありません。『民藝』であることの本質は、ある土地から生まれるべくして――つまり、必要に応じて――生まれてきたものであり、用いられることによってその美が磨かれるものです」と述べています。

現代のわたしたちは、ものを作るというと、すぐに「自己表現」だという話になりがちです。しかし柳は「1つの品物を作るということは、自然の恵みを記録しているようなもの」だといいます。柳は自己表現を否定しているわけではありません。ただ、自己表現もまた、自然の恵みを離れては果たし得ないのではないかと問うのです。そして、生まれたものを見るとき、そこにどれだけ自己が表現されているかよりも、まず、自然の力を受け止め得ているかに目を向けねばならないと視座の変化を促すのです。民藝論の主著でもある『工藝の道』で柳は、「民藝」と対比するものとして「美藝」という言葉を用いています。美藝は飾られ、眺められるだけのものであっても構わない。しかし民藝は用いられなければならない。不要な装飾を除いた「粗物」であることが必然になる。華美なものではなく、長い実用に耐える強靭さを備えたものでなくてはならない。民藝の美には、単なる量的な強さとは異なる質的な「つよさ」があるのです。

「美を売り渡した現代」では、著者は「いつしか私たちは、日常生活に潜む真実の美を便利さと引き換えに手放してしまいました。しかし日常で美を見失ってしまったら、人生そのものからも美は姿を隠してしまいます。消え去ってしまうのではありません。美は不滅なのですが、人がそれを遠ざけるのです」と述べています。人生は華美であったり、派手であったりする必要はありません。しかし、美しくはありたい、そう感じる人は少なくないはずです。でも、方法が分からない。美しくあるということは、本当の意味で自然であることであって、真の自分自身であるということと同じです。これは、何を自分の「価値」の核心にするのか、という問題でもあるとして、著者は「『儲け』は価値です。しかしそれだけでは経済的価値でしかありません。それが本質的価値になるためには、どうしても美と人間の心、そして場所と歴史のちからを欠くことはできないのです」と述べるのでした。

「柳にとっての『正しさ』」では、どんな民藝もそれを作り出す人間がいなければ生まれてこないことが指摘されます。柳は「職人」という言葉も用いますが、手仕事を行う人を広く「工人」と呼びました。「工」とはもともと、手仕事、匠の仕事を意味する言葉です。工人という言葉を用いるのは、手仕事は必ずしも「職人」によって行われるとは限らないからかもしれません。経済力は多くのものを所有するときには有効です。しかし、美とつながろうとするとき、それだけでは十分ではないとして、著者は「そこには自然、歴史、物、そして人間への畏敬の念がなくてはなりません。伝統の前に静かに頭をたれるとき、私たちは自らのうちに畏敬という感情が生まれるのに気が付くのです」と述べています。

畏敬、畏怖の念を抱いたものを人は簡単には手放しません。それが他の人にとって価値がないものでも守ろうとするはずです。著者は、「畏敬と畏怖こそ、美へのもっとも確かな扉であり、このとき美は私たちに語られざる生の意味を照らし出します。生きる意味を求めない人がいるでしょうか。しかし、私たちは生きる意味へと通じる扉を自ら遠ざけることがあるのです」と述べます。正しい仕事の多くは、用いられる物を作るときに営まれます。重要なのは理念から生まれたものではなく、生活から生まれたものです。理念を深めるのではなく生活を深めるのです。生活を深めることがそのまま理念を強固にします。柳宗悦は、ここに手仕事の理を見たのでした。

第九章「美の法門――救いは誰にも開かれている」の「不二の実相を見つめ直す」では、日本が二元の国であると指摘し、「二」の最たるものは生と死、自分と他者であると柳はいいます。「生死」は生と死という意味でもありますが、生と死が分かちがたくつながっていることを示す言葉でもあります。著者は、「死は生の終わりであり、決定的な別れである、と考えることもできますが、ウィリアム・ブレイクのように死は、新しき生の始まりであり、出会い直す契機であると考えることもできます。また、私たちは生の果てに死を迎えるのではなく、今、まさに死を生きつつある。私たちは生きつつあり、同時に死につつある。しかし、頭で考えるときは生か死かと思い悩む。生と死の苦しみから逃れるには、死に打ち克つことが必要なのではありません。生と死を不二なるものとして見つめ直すことが大切だというのです」と述べます。

「信と美は一如である」では、柳が宗教哲学者としての仕事も民藝運動の牽引者としての仕事も、自分にとっては同質のものだととらえたことが指摘されます。信と美は一如である。むしろ、その境地こそ自らが求めたものだと考えているのです。著者は、「真善美が1つであるとは、哲学の世界では古くから語られていたことです。柳はそこに信を加えるべきだというのです。だからこそ『信を語る聖句』が同時に『美の密意』を告げるというのです。自分の存在価値を見出したいと思うなら、誰かと比べることはやめて、大いなるものとつながっている自分を見出すほかありません。それは自分以外の存在でも同じです。絶対性を見通す眼、そこに「価値」が映じてきます。そうした地平まで私たちを導いてくれるのが「美」のちからであると柳は考えていたのでした。

第一〇章「南無阿弥陀仏――祈りのなかで生きる」の「三人で一人格――法然、親鸞、一遍」では、柳が『一遍聖絵』のうちの1枚、それも現物ではなく「貧しい網版の複製」を見たときのエピソードが語られます。複製を通じてでも、一遍の悲願がありありと柳に伝わってきた、というのです。このことを知った著者は、「すぐに想起されたのは、小林秀雄が『ゴッホの手紙』を書くきっかけとなった出来事でした。小林が打たれたのもゴッホの実物ではなく、複製画です。柳と親しくした武者小路実篤もあるところで、印象派の絵を写真で見たとき、異様なまでの高ぶりを感じたと書いていました。見る眼さえ開かれていれば、私たちは複製や写真を通じてでも、そこに重要な霊感を感じることができるのです」と述べています。

「愛のないところに悲しみは生まれない」では、柳が「悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える」と語ったことが紹介されます。これは、わたしのいう「悲縁」と同じものです。『南無阿弥陀仏』のなかで、柳は「悲しみは慈みでありまた『愛しみ』である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では『愛し』を『かなし』と読み、更に『美し』という文字をさえ『かなし』と読んだ。信仰は慈みに充ちる観音菩薩を『悲母観音』と呼ぶではないか。それどころか『悲母阿弥陀仏』なる言葉さえある。基督教でもその信仰の深まった中世紀においては、マリアを呼ぶのに、‘Lady of Sorrows’の言葉を用いた。『悲しみの女』の義である」と書いています。

「かなしみ」は悲しみ、哀しみだけでなく、愛しみ、美しみと書いても「かなしみ」と読む。このことを知ったとき、世界が一変したという著者は、「私にとっては喩えではなく、その前後では、人生の光景がまるで違うほどの出来事だったのです。悲しみは単なる悲痛に終わらない。悲しみとは愛しみであり、慈しみを源にして生まれている。むしろ、悲しみとは、何かを愛し、そして慈しもうとしたところにのみ生じる心情だというのです。愛のないところには身を裂くような悲しみは生まれない、と柳は考えている。それは柳の理解というより、やはり彼の経験だったのだと思います。観音菩薩や聖母マリアが『かなしみ』の深みを象徴しているように、悲しみは人に愛を想い起こさせるだけでなく、大いなるものへと通じる道も開くとさえいうのです」と述べるのでした。

第一一章「心偈――求道の言葉」の「茶と人生」では、「茶ニテアレ 茶ニテナカレ」という偈が紹介されます。柳は、「茶はどこまでも茶でありたいが、それは同時に茶であって、茶に終わらぬもの、茶に滞らぬものがなければならない」「単に茶でないなら、それもまた意味がない。茶であって、茶でないもの、茶でなくして茶であるものが、示されねばならない」といいます。著者は、「ここでの『茶』を『形』に置き換えてみるとよいかもしれません」と提案します。茶道だけでなく、華道、弓道、書道、香道などおよそ「道」には「形」があります。「形」は意味のないものではありません。むしろ、意味が凝縮したものです。それが無意味であるはずがありません。しかし、必要以上に形にとらわれ、変化を嫌うと硬直化し、その時代にはたらきかけることができなくなります。「形」のなかに変わるものと変わらないものを感じ分け、それを人々の今と深くつながりながら生きたものにすること、それは芸術においても宗教においても重要なことだというのです。

第一二章「柳宗悦の悲願――美に生かされる」の「普遍的な心の願い」では、「悲願」について言及しています。悲願とは慈しみの願いです。苦難と悲痛を生きる者に安らぎとねぎらいを届けようとする、変わることのない、心の深い場所から湧き上がる願いです。どんなに願望を深めても悲願にはなりません。悲願は欲ではなく、慈しみを土壌にして咲く花なのです。『新編 美の法門』所収の「仏教美学の悲願」には、「悲しむ者は幸なり」という『新約聖書』の言葉が引用されています。悲しむ者は幸いである、とは分かりづらいのですが、この「幸」とは「神とともにある」ということです。

悲しむ者は、自らの傍らでともに悲しむ神を見出します。「悲しむ者を悲しむ慈念が大悲である」というのもそうした意味です。「大悲」というときの「大」は限りがない、無量というだけでなく、仏そのものを意味すると考えてよいでしょう。ここには宗教、宗派の差異はありません。「悲しむ慈念」とは、人とともに悲しむ神仏の慈しみの念いにほかならないのです。「かなしみ」は「悲しみ」だけでなく「愛しみ」「美しみ」と書いても「かなしみ」と読みます。仏教美学とは、仏教に根差した大悲の学でもあるのです。

「美しさを概念で語ってはならない」では、柳宗悦における「見る」ということが問題にされます。古代文字、古代文化研究で知られる白川静は『初期万葉論』という著作で、古語における「見ゆ」は、事物を目撃することだけでなく、見えないものにふれることも指したと書いています。たとえば、「木を見る」とは木を生かしている精霊とつながることを意味したというのです。柳にも同質の経験と実感があったように思われるとして、著者は「柳にとって『見る』とは、1つの行なのです。哲学における思考、信仰における祈りがそうであるように、柳がいう美学は『見る』という行を求めてくるのです」と述べています。

直観とは何か。それは「直に観る」ことにほかなりません。「見る」ことが瞬間的に起こるのに対し「観る」ことは持続的にも行われます。世界観、人生観はともに、ある流れのなかでのみ生まれてくるものです。柳は、「『知』は静止的で『観』は動的だといってもよい。それ故『知』は二元的であるが『観』は不二的である」と書きました。「観」こそ「不二」への扉であるというのです。事物は、それぞれ独立しているように見えても、不可視なつながりのなかに存在しているのです。このすべてのものをつなぐはたらきを仏教では「縁起」と呼びます。縁起の世界における理、それが柳のいう「不二」なのです。

「心の住所をもたないこと」では、何かを生み出そうとするとき、「企みの多い」状態では心は豊かにはたらかないことが指摘されます。うまく書きたい、高い評価を得るものを作りたい、そうした場所に心を住まわせていると、かえって不自由になってしまうというのです。ただ、ありのままでよい。ただそれは、乱暴とか、粗雑というものとはまったく異なる状態です。著者は、「ありのままとは、真の意味で自然であることです。その人が真にその人であること、誰とも自分を比べていないこと、自ずからなること、つまり自由であること、それが、生涯を通じて柳が語った『美』の姿なのです」と述べます。

そして柳は、「仏教美学の悲願」に「自由たる事が既に浄さである。そうしてその自由こそ、本来の姿なのであって、人間の自我や分別があたらこれを濁してしまうに過ぎない」と書くのでした。本書『柳宗悦 美を生きた宗教哲学者』は、最高の柳宗悦入門といえる名著でした。柳宗悦は故人であり会うことは叶いませんが、著者の若松英輔氏には一度ぜひお会いしてみたいです。