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No.2497 芸術・芸能・映画 『このドキュメンタリーはフィクションです』 稲田豊史著(光文社)
2026.09.21
『このドキュメンタリーはフィクションです』稲田豊史著(光文社)を読みました。著者は、1974年生まれ。ライター・編集者。横浜国立大学経済学部卒。新卒でギャガ・コミュニケーションズに入社し、キネマ旬報社を経て独立。著書に、一条真也の読書館『映画を早送りで観る人たち』で紹介した光文社新書のベストセラーをはじめ、『ポテトチップスと日本人』(朝日新書)、『ぼくたち、親になる』(太田出版)、『本を読めなくなった人たち』(中公新書ラクレ)など。
本書の帯
本書の帯には、「『映画を早送りで観る人たち』の著者による、令和の新しいドキュメンタリー入門書」「作り手の作為を見抜くと、ドキュメンタリーは悪魔的に面白い。」「一気に読んで『ドキュメンタリーに詳しい人』と言われるのが恥ずかしいとさえ思いました。ドキュメンタリーの世界は、果てしなく広いんだ。 ポレポレ東中野代表 大槻貴宏」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「ドキュメンタリー [documentary]虚構を用いずに、実際の記録に基づいて作ったもの。記録文学・記録映画の類。実録。―広辞苑 第七版―」と書かれ、さらには「あなたの部屋にカメラが設置してある状態での“普段の生活”と、カメラがない状態での“普段の生活”は絶対に同じではないはずだ」「『さよならテレビ』『FAKE』『ザ・コーヴ』『主戦場』『さようなら全てのエヴァンゲリオン』『映像の世紀』『水曜日のダウンタウン』・・・・・・数々の身近な作品を通し、ドキュメンタリーの加工性に迫る!」とあります。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「prologue」
第1章 「作り手の意図」にまみれた娯楽性
第2章 被写体への「関与」がもたらすもの
第3章 近親者でなければ撮れない映像
―セルフドキュメンタリー
第4章 外国人目線と「未開のエンタメ化」問題
第5章 ストーリーテリングに孕む「事実の選択」
Column1「説明の順番」
第6章 脚注としてのメイキング
第7章 「お笑い」との構造的酷似(1)
―関与、悪意、視点の設定
第8章 「お笑い」との構造的酷似(2)
―仕込み、やらせ、編集の作為
第9章 見たいのは“真実”ではない
―プロレスとドキュメンタリー
第10章 フェイクドキュメンタリーは
ドキュメンタリー以上に
ドキュメンタリーである
Column2「フェイクドキュメンタリー分類考」
「epilogue」
「prologue」の冒頭には、「広辞苑 第七版」のドキュメンタリーの項目には、こう書いてあるとして、「虚構を用いずに、実際の記録に基づいて作ったもの。記録文学・記録映画の類。実録」という文章を紹介しています。それゆえ、多くの人にとって映像作品としてのドキュメンタリーは、長らく「脚本や仕込みのない、事実のみを記録した映像」「客観性や中立性が守られる」といったようにイメージされてきたといいます。著者は、「否、むしろドキュメンタリーの醍醐味は、これらとは真逆の性質にある」と述べています。
前者については“事実のみ”の定義によるといいます。ある種のドキュメンタリー監督は、対象にカメラを向けなければ(撮影者が関与しなければ)起こりえなかったハプニングすら堂々と“事実である”と主張し、作品を彩るケレン味としてちゃっかり利用すると指摘し、著者は「そんな強い作為性こそが、彼らの作るドキュメンタリーの本体だと言ってもいい」と述べます。
後者については、却って「客観的でも中立的でもない」からこそドキュメンタリーは面白いのではないかといいます。わたしたちの心を捉えて離さないドキュメンタリーは決まって、作り手の「たくらみ」にあふれているとして、著者は「客観や中立などどこ吹く風。徹頭徹尾、作り手の意図と主観まみれだ。そもそも現代において、記録映像が客観的でも中立的でもないことは常識である」と述べます。
さらに、著者は「そもそも、映像の語り手が個人である以上、そして語られる内容が個人の意図に基づいている以上、どこにも偏らない『客観』や『中立』など存在しえない。多様性の尊重が叫ばれる世の中なればこそ、その謂の説得力は高いだろう。『中立的な人生観』や『中立的な政治思想』や『セクシャリティに関する中立的な立場』など存在しない。そこにあるのは個別の強度を持つ信念であって、客観や中立ではない。ましてや“真実”など、誰にも定義できない。『映像が捉えた真実』の噓臭さたるや」と述べています。
刺激的なドキュメンタリーほど、カギカッコつきの“社会正義”や“真実”に最初から喧嘩を仕掛けてくると、著者は言います。善良な視聴者が「社会正義らしきもの」「これぞ真実」とうすら信じ込んでいるフレームを、精密な構成と巧みなストーリーテリングによって鮮やかに解体していくのです。著者は、「よくできたドキュメンタリーは、社会科の授業で無理やり見せられたお勉強番組、ただただ事実を羅列した記録映画、教育臭が鼻につく文化映画の退屈さとは、むしろ距離を置くスタンスを崩さない。要は、ちゃんと『面白い』」と述べます。
意図も主観も、関与も作為性も、揺さぶりも、すべては映像作品として「面白く」するために仕込まれます。仕組まれる。それは、作られた物語〈フィクション〉が、主題の設定から構造、展開、細部の描写に至るまで、漏れなくすべてが物語を「面白く」するために作り手の作為によって完全制御されていることと、なんら変わりません。著者は、「ドキュメンタリーとフィクションの境界線は実に曖昧で危ういが、そこもまた『面白い』ところだ」と述べるのでした。
第1章「『作り手の意図』にまみれた娯楽性」の「ミステリーの3要件」では、ある種のドキュメンタリーの醍醐味はミステリー小説のそれに近いと指摘します。著者によれば、高度に知的な創作物。退屈とは無縁で、結末には大いなる快感が待っているといいます。ミステリー作家・翻訳家の仁賀克雄は、ミステリーの要件として「発端の不可思議性」「中途のサスペンス」「結末の意外性」の3つを挙げていますが、ブログ「アメリカン・マーダー:一家殺害事件の実録」で紹介したNetflixで2020年に発表されたドキュメンタリー映画は、その3つを完全に満たしていると指摘します。
『アメリカン・マーダー』は見事な「二段落ち」をかましてきます。明かされたと思われた「真相」は、本当の「真相」ではありませんでした。ラスト、あまりに酷い真実が明らかになって終幕。トータル1時間23分、息つく暇もない見事な構成です。『アメリカン・マーダー』というドキュメンタリー作品で披露された最大の芸、それは視聴者がシャナンに抱く印象の巧みな操作、いわばミスリードであると指摘し、著者は「同作は冒頭から、シャナンの「自慢げで誇らしげなFacebook投稿」を、シャナン自身のナレーション(投稿動画に入っていた音声)とともに、これでもかというくらいに流しまくる。夫と子供に囲まれて自分がいかに幸せな人生を送っているか、日々の暮らしがいかに満たされているか。それは激しく“キラキラ”している」と述べています。
著者によれば、多くの視聴者はこれを見て、「シャナンの人生は幸せなんだな」と無邪気に目を細めたり・・・・・・はしないといいます。いけ好かない見栄っ張りのSNSジャンキー、あるいは自己顕示欲と承認欲求の強い女だという印象を抱くだろうとして、「視聴者は以下のような構図でふたりを見はじめる。『自己顕示欲が強く、ナルシストで、自分の理想を夫に押し付けるメンヘラ気味の妻』と『それに苦しめられている夫』。一般的に、夫婦仲が冷え込んだ場合は双方が努力することでしか解決されない。にもかかわらず、この状況は明らかに『シャナンが一方的にクリスに歩み寄れと命令している』ように見える。否、制作側がそう見えるように仕向けている。このような『制作者の意図にまみれた構図』が、『結末の意外性』でどのように大きく変容するかは、ぜひ本編を見て確かめてほしい」と述べるのでした。
「『search/サーチ』の現実化」では、映画好きたちは『アメリカン・マーダー』を観て、あるフィクション作品を真っ先に思い出したといいます。ブログ「search/サーチ」で紹介したアメリカ映画です。シャナン母子失踪からわずか18日後の2018年8月31日に全米で公開されました。アニーシュ・チャガンティ監督が『スター・トレック』シリーズなどのジョン・チョーを主演に迎えたミステリー/スリラー映画です。行方不明になった娘を父親が捜す話ですが、全編が「PCに表示される画面上」だけで展開します。著者は、「なぜPC画面だけで物語を紡げるのか。それは、現代社会ではあらゆるものが撮影・録画されており、その多くがインターネット経由のPC上で視聴できる状態になっているからだ」と説明します。
「技術の進化がドキュメンタリーを変えた」では、60年前のドキュメンタリーと、30年前のドキュメンタリーと、10年前のドキュメンタリーと、現在のドキュメンタリーとでは、「取り上げる題材」が異なるのみならず、「撮れるもの」が根本的に違うということが指摘されます。著者は、「さしずめ原稿用紙に万年筆で書いた小説と、ワープロやPCのキーボードで直接入力して書いた小説と、スマホのフリック入力で書いた小説は、文体やリズムや生理において、何がどう異なるのか? という議論にも近い。ドキュメンタリーの作品性は、フィクションのそれ以上に技術的制約(と解放)に依拠するものなのだ」と述べています。
映像で撮られたものは、あらゆるものがドキュメンタリーの材料となりうるのですが、それは裏を返せば、「映像で撮られていないものはドキュメンタリーになりえない」ということになります。つまり、ドキュメンタリーの題材になりうるのは、リュミエール兄弟が1895年に発明したとされる映画の原型・シネマトグラフによって「世界が映像によって記録されるようになった20世紀以降」の事象に限る、ということになるとして、著者は「すなわち、ドキュメンタリーとは近現代史そのもの。20世紀は映像の世紀とも言われるが、言い換えるならばドキュメンタリーの世紀でもあったのだ」と述べるのでした。
第2章「被写体への『関与』がもたらすもの」の「『題材勝ち』ドキュメンタリー」では、冒頭で、その題材が取り扱われているというだけで、あるいは視点が“そこ”に設定されているというだけで、多くの視聴者に「面白そうだ」と思わせるタイプの作品があるとして、ドキュメンタリーにもそんな「題材勝ち」があると指摘されます。森達也も、そんな「題材勝ち」ドキュメンタリーを撮り続けてきたひとりだといいます。代表作『A』(98)と『A2』(01)では、オウム真理教の関係者に密着しました。1990年代には動物実験や放送禁止歌をテーマにしたTVドキュメンタリーも制作しています。その森が、ゴーストライター騒動で世間から一斉にバッシングを受けた佐村河内守に密着したのが『FAKE』(16)です。著者は、「人選からして『題材勝ち』臭が漂ってくる」と述べます。
「カメラに収められた『嘘』」では、森が『FAKE』の冒頭で佐村河内に、「佐村河内さんの怒りではなく、悲しみを撮りたい」と言ったことが紹介されます。いかにも「哀れな罪人に対する優しき救済」じみた態度を表明して、寄り添う姿勢を見せるのだ。しかし本作を観終わった我々が包まれるのは、“罪人”に対する哀れみや赦しの感情ではないと指摘し、著者は「『佐村河内、やっぱり嘘くさい』だ。その仕掛人は当然、森である」と述べています。また、「被写体に『関与』するのはアリか、ナシか」では、悪魔的な面白さと同居する形で、『FAKE』は現代のドキュメンタリーが避けて通れない2つの重要な論点を孕んでいるといいます。1つは、ドキュメンタリー監督は被写体(撮影対象)にどこまで「関与」してよいのかという問題です。
「結論を言わないズルさと巧妙」では、現代のドキュメンタリーが避けて通れないもう1つの論点を、「“正義”や“正解”や“結論”を断定しない」であると指摘、このドキュメンタリーのアイデンティティとも言える手付きについて、著者は「よくできたドキュメンタリーは、監督が“正義”や“正解”や“結論”を安易に断定しない。個人的に導きたい結論があったとしても、それを口に出して言ってしまうのは野暮天の極み。喩えるなら友達同士の海外旅行だ。出発前の空港で、そのうちのひとりがこんなことを言う。『俺はこれから行く国には何度も行っていて、すべての道も宿も観光地も完全に把握しているから、ガイドは俺に一任して100%指示に従ってくれ』。実につまらない旅行になりそうだ。ドキュメンタリーも旅行も、結末を知らない状態で体験に身を投じる、そのダイナミックなプロセスが楽しいのであるからして」と述べます。
「デリケートなテーマに『仕掛ける』」では、森が1990年代に制作したTVドキュメンタリー(4本が2021年にDVD化された)にも、『A』『A2』『FAKE』と通じるものが多々あるといいます。『ミゼットプロレス伝説~小さな巨人たち~』(92)は、昭和の時代に時折TVで見かけた、いわゆる小人プロレスの興行団体に密着したものです。小人が「かわいそう」であるという、一見して“良識的な”感覚が小人レスラーたちの仕事を奪う――という皮肉な状況を追うのですが、著者は「一方で、『プロレスは真剣勝負ではなく、緻密な段取りが対戦者同士で“練習”されているショウである』、つまり“FAKE”であることをしれっと言い切ってしまっている点は、実にお茶目だ」と述べます。
また、『職業欄はエスパー』(98)は、かつてスプーン曲げで日本を騒がせた清田益章ほか“自称エスパー”たちの生活を追った作品です。森自身がエスパーに寄り添うフリをして超能力を信じておらず、むしろ彼らの“しょっぱい”生活や胡散臭い言葉を捉えることで視聴者に判定を預ける点など、『FAKE』にも通じる作りだといいます。著者いわく「結論を出さない」といういい意味でのズルさ全開なのが、動物実験の実態を追った『1999年のよだかの星』(99)だそうです。著者は、「『実験される動物がかわいそう』というヒューマニズムに訴えかけると思いきや、中盤で筋ジストロフィー患者とその家族にインタビューを敢行。『動物実験によって医療技術を発達させなければ、彼らは生き長らえられない』という死球ギリギリの問いかけをぶち込み、視聴者に判断を全任する」と述べます。
さらに、『「放送禁止歌」~唄っているのは誰?規制するのは誰?~』(99)は、『A』『A2』『FAKE』すべてに挿し込まれている森の十八番「マスメディア批判」全開の痛快作だと評価しています。著者は、「誰も規制などしていないのに、忖度と配慮と『クレームに対応するのが嫌』だからと特定の曲を流さないTV局のヘタレぶりを、とことん糾弾する」と述べます。なお、『ミゼットプロレス伝説』は、小人レスラー同士のタッグマッチの開催が番組の山場になっていますが、DVD特典のブックレットには、タッグマッチを提案したのは森監督であると彼自身が明かしているそうです。また、『職業欄はエスパー』では、基本的にはすべてのシーンを森が「仕掛けた」といいます。著者は、「被写体への『関与』は30年前から森のお家芸なのだ」と述べるのでした。
「ドキュメンタリーは虚実皮膜」では、「もし、被写体に『関与』することで初めて生成される状況こそがドキュメンタリーの本体ならば、ドキュメンタリーは大きな意味での『やらせ』ではないか?」という問いは、暴論のようで意外と的を射ていると述べられます。「相手をけしかける、挑発することで引きずり出された言葉や行動、巧みな心理的誘導。『面白い作品』に結実させるために行う、ありとあらゆる仕掛け、レールの敷設、装置の構築。そういう『たくらみ』が『やらせ』の一種ではないと、どうして言い切れるだろう?」と読者に問いかけ、著者は「これはドキュメンタリーの本質を考える際の、かなり重要な論点だ」と述べています。
多くの映画監督は「ドキュメンタリーとフィクションの境目は曖昧だ」と発言するといいます。森監督は自著で「『撮る』という作為は、事実に干渉し変成(フィクション化)させる。言い換えれば、現実をフィクショナライズする作業がドキュメンタリーなのだ」と言い切っています。『トウキョウソナタ』(08)、『岸辺の旅』(15)などの監督作で世界的にも評価の高い黒沢清は、自作のメイキングドキュメンタリー内で「どう考えてもドキュメンタリーとフィクションの境目はないです。ドキュメンタリーといっても、ある程度やらせはあるし、フィクションとはいっても、偶然起こることはたくさんありますから」と発言しています。
第3章「近親者でなければ撮れない映像―セルフドキュメンタリー」の「他人の家の家族アルバムは退屈か」では、「他人の家の家族アルバムは退屈か」と疑念を抱く人にほど薦めたい作品として、 ブログ「エンディングノート」で紹介した2011年のドキュメンタリー映画が紹介されます。公開当時33歳だった砂田麻美の監督デビュー作です。「見てはいけないものを見ている気がする」では、映画「エンディングノート」が、2009年5月にステージ4の胃がんが見つかり、同年12月に亡くなった砂田の父・知昭を、砂田監督が半年にわたって撮影したものであることが説明されます。「エンディングノート」とは、遺書ほどの法的効力は持たない家族への覚え書きのことです。
映画「エンディングノート」の主人公である知昭はがん告知を受けても取り乱すことなく、几帳面に、かつ黙々と終活を進め、最後に「エンディングノート」の内容が明かされます。著者は「一言で言えば、本作にはものすごいものが映っている。特に後半は、ものすごいものしか映っていない」として、たとえば「医師、砂田、砂田の母の3人で、知昭の命がもう長くはない事実を本人に『伏せる』ことを決定する瞬間」、「幼い孫たちにか細い声で最後のお別れを告げる知昭の姿と、泣き濡れる砂田家の面々」、「知昭と砂田の母が夫婦ふたりきり(カメラは固定設置)で愛と感謝の言葉を述べ合う病室内」、「弱りきった知昭の前で砂田の兄が砂田の姉に苛立つ場面」などです。
『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)
いずれも、被写体が監督の血縁者でなければ絶対に撮れない映像です。カメラ(=砂田)は家族しか入ることを許されない空間に堂々と入ることができ、家族たちは砂田の前でしか見せない行動をとり、砂田の前でしか発さない言葉を発するからです。著者は、「家族写真で言うなら、風呂上がりの半裸姿や化粧を落とした後のすっぴん顔が写っているようなもの。いや、それでは足りない。夜の営みや脱糞中の様子が写っているほどの明け透けさで、砂田家のデリケートゾーンが白日の下に晒されている」と述べるのでした。わたしもこの映画「エンディングノート」には大きな衝撃を受け、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)の中で詳しく紹介しました。
第4章「外国人目線と『未開のエンタメ化』問題」の「外国人監督が日本を撮る」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「観ごたえのあるドキュメンタリーには、はっとする視点が設定されている。見慣れた/聞き慣れた題材に、視聴者が想像もしていなかった角度からカメラを向ける。それはまるで、『桃太郎』を鬼側の視点から描くことで、『正義を掲げる侵略者に住まいごと蹂躙される異民族の悲劇』に仕立て上げるがごとし。その、はっとする視点がもっとも顕在化しやすいのが、日本人に馴染み深い題材を外国人監督が撮ったドキュメンタリーだ。そこには、日本に生まれ育った者からすれば意外な視座が設定されることも少なくない。『ザ・コーヴ』(09)は、和歌山県太地町で行われているイルカの追い込み漁を、アメリカ人監督ルイ・シホヨスが追った作品だ。端的に言えば、反捕鯨(注:イルカは鯨の一種)の立場から描いた、糾弾色の強いドキュメンタリー。第82回アカデミー賞では長編ドキュメンタリー賞を受賞した」
「マイルドヤンキーとオタクは“発見”されたのか」では、「未開のエンタテインメント化」は日本人同士でも行われていると指摘します。2014年の「新語・流行語大賞」にノミネートされた「マイルドヤンキー」という言葉があります。これはマーケティング・アナリストの原田曜平が唱えた概念で、郊外や地方に住み、地元志向が強く、内向的で上昇志向が低い若者たちのことを指します。彼らの「ショッピングモールを好み、高級ミニバンに憧れ、低学歴・低収入ながら生活満足度は低くない」といった特徴は当時のメディアでたいそう面白がられ、日本人の新しい若者像として話題になりました。
しかし、批判もありました。「都市生活者が郊外生活者である彼らを勝手に“発見”した気になっているだけで、もともとそういう人は存在していた」「知的エリート層が郊外住まいの低所得者を面白がって見下しているだけ」などです。著者は、「実際に見下していたかどうかは別として、マイルドヤンキーと称される彼らを『物珍しげに笑う』空気が当時のメディア――特に高学歴層が従事している大手マスコミ――に内在していた事実は否定できない。その点において、アメリカ大陸の“発見”と構図的には変わらないとも言える」と述べています。
オタク文化の“発見”にも同様の構図があります。1988年から1989年に発生した「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の犯人・宮﨑勤が「ロリコンでホラーマニアのオタク」と報道されたことから、そのバッドイメージは頂点に達し、界隈では長らく蔑視・差別の対象となっていました。著者は、「2000年代に入るとTVを中心としたマスコミが一斉にオタクの奇妙さ、生態の面白さを“発見”して騒ぎ立てた。きっかけは、秋葉原のメイド喫茶が話題になったこと、お笑い番組などで誇張されたオタクキャラが人気を得たこと、2005年公開の映画『電車男』のヒットなどだ」と述べます。
オタクは蔑視・差別の対象であることに加え、「奇妙で、異常で、面白い存在」として鑑賞され、大きな規模で見世物にされ、消費されていきました。さらにオタクは2010年代、「クールジャパン」という旗印のもとサブカルチャーやポップカルチャー、食文化などと一緒くたにされ、政府や経済界などから「世界に輸出できる日本の文化」として新たな価値を“発見”されてもいます。フランシス・フォード・コッポラの大作映画『地獄の黙示録』(1979年)には、マーティン・シーン演じるウィラード大尉や、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐が登場しますが、著者は「マスコミが規定する“一般市民”から見たマイルドヤンキーやオタクは、ウィラード大尉から見たカンボジアの現地民やカーツ大佐と同じなのだろうか?」と述べるのでした。
西洋人によるヨーロッパ中心主義の自己批判としてもっとも有名なのが、フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースが1962年に著した『野生の思考』です。著者の内容説明によれば、ヨーロッパ人が長らく抱いてきた「文明が進んだ我々は、未開で野蛮な人々よりも進歩的な存在である」という優越感を無効化するもの。ヨーロッパ人の考える「文明的であること」と「未開状態」の間に優劣はなく、それぞれがそれぞれの社会構造のなかで生きている、というのがレヴィ=ストロースの主張でした。
「取材相手と親しくなると、ろくなことがない?」では、ドキュメンタリーのカメラマン(監督)が被写体とは異なる国の人間であることで、つまり第三者であることで生じるある種の無遠慮さが、「同国人なら撮りづらいものが、撮れてしまう」というメリットを生み出すこともあるだろうと推測します。東日本大震災を取材した『境界の町で』などの著書がある作家の岡映里は、ある日本人の写真家が、殺人のあるメキシコでは毎日のように大胆に死体を撮影していたのに、その写真家が撮った東北被災地の写真は「お行儀がよくて、『遠慮』を感じた」といいます。その理由について岡は「メキシコ人の死体を驚くほど大胆に撮影しても、それを発表するのは日本なので、遺族の目に触れることはほぼない」が、「東日本大震災の取材では、『ひどい扱いをするなら許さない』という『当事者からの目』に取材者が逆照射される」からだと分析したそうです。
「“外国人”だからこそ引き出せる言葉」では、BBCワールド・サービスの調査報道取材班「BBC Eye Investigations」が痴漢動画販売サイトの闇を追った『痴漢動画の闇サイトを暴く 売られる性暴力』(23)が取り上げられます。同作は1年もの時間をかけて東京在住のサイト関係者に潜入取材を行った労作ドキュメンタリーですが、作中、BBCの女性記者・馮兆音が横浜にある性風俗店を訪れます。電車の車両内を再現した個室で“合法的に”痴漢行為ができるという触れ込みの店ですが、驚くべきことに、店主は実名・顔出しで取材に応じていました。著者は、「もし取材メディアが日本のワイドショーだったら、彼は実名・顔出しで取材に応じただろうか。このような率直な発言をしただろうか。おそらく、しないだろう。BBCという『海の向こうのTV局が作る番組』なら、日本のワイドショーで取り上げられて想定される『放送直後に即炎上』はないだろうと踏んでいたに違いない。なんなら外国人観光客向けに良い宣伝になるという狙いすらあったかもしれない」と述べています。
BBCのドキュメンタリーといえば、ジャニー喜多川による性加害被害者を取り扱った『J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル』を忘れることはできません。同作は本国イギリスで2023年3月に放送された後、同年6月17日に日本語字幕付きの本編がYouTubeチャンネルで公開されましたが、ここではジャニー喜多川から性加害を受けた元ジャニーズJr.へのインタビューが顔出しで行われています。著者は、「彼らがインタビューを受けた動機を横浜の性風俗店店主と同列視すべきではない。ただ、『海外メディアだから受けた』とは言えるのではないか。イギリスの公共放送なら、ジャニーズ事務所が大きな影響を及ぼす国内芸能界を“飯の種”とする国内のマスメディアがやりそうな忖度は、きっと避けられる。単なる芸能スキャンダルとして問題が矮小化される危険も、きっと避けられる。告発者たちがそう踏んでいたであろうことは、想像に難くない」と述べるのでした。
「鮨のBGMに和楽器を使わない」では、“発見”された側がむしろ晴れやかな気分になれるドキュメンタリーも紹介されます。その1つが、アメリカ人監督のデヴィッド・ゲルブが銀座の鮨店「すきやばし次郎」の店主・小野二郎とその息子たちを追った『二郎は鮨の夢を見る』(11)です。同店はミシュランガイド東京で3つ星を獲得した名店中の名店。2014年には当時のオバマ米大統領と安倍晋三首相が会食した店としても知られています。ゲルブは宝石のように光り輝く鮨ネタの美しさを表現する際、あるいは二郎の鮨職人としての高みや神秘性、完璧主義ぶりを描写する際、劇伴に弦楽器やピアノによって奏でられるコンチェルト(協奏曲)を多用しました。著者は、「おそらくゲルブは、至高の鮨職人である小野二郎の握る芸術的な鮨や語る仕事の哲学を、「日本ぽさ」などというお仕着せの概念では捉えていない。国を超えた、もっと普遍的な聖性や神性を当時85歳の鮨職人に見出していた。比べるものでもないが、『靖国 YASUKUNI』で李纓が90歳の刀匠に見出したものとは実に対照的だ」と述べています。
第5章「ストーリーテリングに孕む『事実の選択』」の「優れた物語は人に話さずにはいられない」では、ストーリーテリングが巧みな物語に、人は大きな影響を受けることを指摘。太平洋戦争中の1943年、日本初の長編(総尺は37分)アニメ映画『桃太郎の海鷲』が公開されました。内容は、真珠湾を鬼ヶ島に見立て、「鬼退治」する日本軍の活躍と逃げ惑うアメリカ兵士の姿を面白おかしく描いたものです。当時の海軍省の依頼により作られた紛れもない戦意高揚映画ですが、子供たちからは人気を博しました。アメリカのディズニーも太平洋戦争中、財務長官ヘンリー・モーゲンソーからの依頼で、ドナルドダックを主役に所得税の納税を促す映画『新しい精神(The New Spirit)』を製作。同作は1942年に公開され、アメリカ国民の意識変革に成功したといいます。ストーリーてリングの巧みな物語を、著者は「まっさらな下地に特定の思想や信条を植え付ける。あるいは、もともと持っていた信条にグラグラと揺さぶりをかける。場合によっては考えを変えさせ、思想転向すら促す」と表現しています。
「プロパガンダ的『たくらみ』を超えて」では、『桃太郎の海鷲』と『新しい精神』は、一般的にはプロパガンダ映画(政治的宣伝を目的とした映画)と呼ばれていますが、「人の考えを変える」「拡散力が高い」は、優れたプロパガンダ映画の要件にほかならないことが指摘されます。プロパガンダ映画の多くはドキュメンタリーの形式をとります。中でも歴史的によく知られているのが、元女優のㇾニ・リーフェンシュタールがヒトラー率いるナチスの全国党大会を記録した『意志の勝利』(35)と、同じく1936年のベルリンオリンピックを『民族の祭典』『美の祭典』の二部作で記録した『オリンピア』(38)です。著者は、「それを踏まえて、『捕鯨反対』という特定の政治的主張が展開される『ザ・コーヴ』や、特定の政治的主張を行う人たちを露骨に“敵”認定する『主戦場』にプロパガンダ的な側面があるかどうかと言われれば、『ある』ことに疑いはない」と述べるのでした。
実は、この「事実の選択」がもっとも議論の対象となるのが、「歴史」を扱うドキュメンタリーです。『主戦場』や『靖国 YASUKUNI』にも「歴史」要素は多く含まれますが、「歴史」そのものを真正面から描いたTVドキュメンタリーがあります。NHK『映像の世紀』シリーズです。「ストーリー優先で“枝葉”を取り払った『映像の世紀』」では、著者は「ドキュメンタリー好きから『構成ものの国内最高峰』と呼ばれることもあるTVドキュメンタリーが、NHK『映像の世紀』シリーズである。同作は『世界中に保存されている映像記録を発掘、収集、そして再構成した画期的なドキュメンタリーのシリーズ』(公式HPより)。つまり、基本的に『この番組のために新たに撮った映像』を使わず、有り物の映像の組み合わせ“だけ”で番組を作っている。第1章の『アメリカン・マーダー』と同じだ。しかも、そのような制約を自ら設けながらこのシリーズが描くのは、なんと世界の近現代史。歴史、つまり人間の営み全部である。大きく出たものだ」と述べています。
「史観の設定は“改竄”行為である」では、文学と進化を専門とするアメリカの文学者ジョナサン・ゴットシャルの「歴史とは、現在のニーズに合うきれいに整えた物語を創るために、御しにくい過去を成形し編集し改竄することだ」という言葉が紹介されます。要素選別の基本方針である史観の設定も、広い意味での“改竄”行為だといいます。その意味で、『映像の世紀』も歴史を紡ぐために“改竄”しているし、ストーリーテリングを優先させた結果“偏向”と受け取られることもあるとして、著者個人としては、そこに明確なプロパガンダ的な意図があるとは考えないそうですが、歴史警察よろしく「公共放送が仕込んだプロパガンダ」と考える者もいるかもしれないといいます。著者は、「おそらく、この種の論争は絶えることがない。どんな人間も、過去の歴史を正確に、かつ間引くことなく体験・調査し『公平・中立・客観的な事実』として表現・記述するなど不可能である以上、もはや個々人が何を信仰するのかというレイヤーの話にしかなりえない」と述べています。
『映像の世紀』第1集「20世紀の幕開け~カメラは歴史の断片をとらえ始めた~」の冒頭では、1895年に世界で初めて有料上映された実写映画『工場の出口』が流れます。監督はリュミエール兄弟の弟、ルイ・リュミエール。総尺50秒ほどのモノクロ・無声作品で、工場の出口から出てくるたくさんの労働者たちを固定カメラで撮影した作品です。同作が本当に工場の出口前にただカメラを設置し、出てきた人をただ撮影しただけなのかどうか、つまり“演出”が加わっていないかについては、ひと議論あるそうです。映画監督の黒沢清は2018年、同作について「約50秒しかないなかで、ドアが開いて、とにかく全員を出したい――犬、少女、自転車は必ず、できたら馬車も出したい――そういう意図がはっきりと読みとれます。これが演出なのか偶然なのかという議論はほとんど意味がありません。つまり、その両方であるということです」と述べました。著者は、「黒沢の言う通り『演出(虚)と偶然(実)、その両方』だとするなら、『ドキュメンタリーは虚実皮膜』は、誕生の瞬間からそうだったのだ」と述べるのでした。
第9章「見たいのは“真実”ではない――プロレスとドキュメンタリー」の「プロレス的、お笑い的」では、プロレスが取り上げられます。プロレスにはシナリオ化された「因縁」や、演者たるレスラーの増幅された「感情」が、興行主の意図まみれで充満しています。ただし、興行としてのプロレスを「八百長」と断定するのはあまりに浅はかです。鍛え上げられたプロレスラーの肉体は本物。技をかけるテクニック、かけられるテクニック、そこに生じる痛みも本物です。ドキュメンタリーで言うなら「被写体の反応が本物」というやつだと指摘し、著者は「その意味で、シナリオに乗せて発せられるレスラーたちの雄叫びは嘘ではない。台本に従ってセリフを発する役者の芝居で受けた感動を、嘘と呼ばないのと同じである。ただ、そこに漂う『虚』と『実』の線引きは非常に難しい。否、線引きを理解するにはある程度のリテラシーが求められる、と言うべきか」と述べています。
「ミスター高橋のカミングアウト」の冒頭を、著者は「プロレスラーたちの普段の顔を追ったアメリカのドキュメンタリー『ビヨンド・ザ・マット』(99)が2001年に日本で公開された際、多少なりともプロレスというものに触れていた者は衝撃を受けた。プロレスが(正確にはWWF〈現WWE〉を中心としたいくつかのプロレス団体が)筋書きのあるショーであると、“証拠映像”とともにはっきりと言い切っていたからだ。同作は冒頭から『プロレスは基本的に芝居と同じ』『勝敗も暴力シーンもすべて演出されている』というナレーションで始まる。WWFにはドラマのように脚本家がついていてレスラー同士の「因縁」を創作していることや、撮影中に開催された往年の名レスラー、テリー・ファンクの引退試合(1997年、実際にはその後もレスラー活動を継続)の結果を監督が先に聞いていた(全盛期を過ぎたテリーが勝つとファンが疑うので、負けて有終の美を飾ることにしたらしい)ことまでも、作中で明かしていく」と書きだしています。
『ビヨンド・ザ・マット』日本公開から4ヶ月後の2001年12月に、新日本プロレスの元レフェリー、ミスター高橋による書籍『流血の魔術 最強の演技―すべてのプロレスはショーである』(講談社)が刊行されると、当時の国内プロレス業界はかなりざわつきました。『ビヨンド・ザ・マット』でプロレスは作り物だとWWFが堂々と公言したことに衝撃を受けたという高橋は、新日本プロレスも同様だと同書で“カミングアウト”したのです。曰く、「プロレスは最初から勝負が決まっているショー」「映画のように細かくシナリオが決まっているわけではないが、勝ち負けとおおよその流れは決まっている」「1日の全試合について、マッチメイカーはカード編成と勝ち負けを決める」「プロレスは世界最強の芝居」等々。著者は、「同書は20万部近くのベストセラーとなり、『ウソだったなんてひどい』『その程度のことはプロレスファンなら了解していたが、はっきり暴露するのは野暮』『飯を食わせてもらっていた古巣に対する裏切り行為』などさまざまな反響があり、業界内外で議論が活発化した。ただし当の新日本プロレスは公式コメントを出さず沈黙を決め込んだ。浮び上がった論点は多いが、中でももっとも本質的だったのは『仮に高橋の言う通りだとして、ではプロレスの面白さとは一体どこにあるのか?』であろう」と述べています。
「紡がれる『アングル』」では、プロレスとドキュメンタリーの虚構性と面白さを考えるのにうってつけのドキュメンタリーとして、映画『俺たち文化系プロレスDDT』(16)が紹介されます。1997年に旗揚げされ、現在ではあまたある国内プロレス団体の中でも特にショー要素、エンタテインメント要素が強い団体として知られるDDTプロレスリングに密着した作品で、監督は同団体所属のレスラー・マッスル坂井(覆面レスラーとしてのリングネームは、先述したスーパー・ササダンゴ・マシン)と松江哲明です。本作の軸になっているのは、2015年11月17日に後楽園ホールで行われた試合です。その試合とは、DDT所属のHARASHIMA&大家健vs新日本プロレス所属の棚橋弘至&小松洋平(現YOH)のタッグマッチ。この試合が組まれるに至った経緯が、HARASHIMAや大家や坂井のリング外での姿や、これまでのレスラー人生を振り返りつつ描かれています。
「ふたつの『見え方』のコントロール」では、撮影用語としてのアングルとは、文字通り対象物の“視覚的な”見え方をコントロールするものであることが説明されます。それに対し、ドキュメンタリーにおける「事実の切り取り方」としての「アングル」やプロレスにおける「アングル」は、“印象面での”見え方をコントロールするものと言えるだろうとして、著者は「同じレスラー同士による同じ内容の試合だったとしても、そのふたりに過去の因縁というアングルが設定されているか、いないかで、観客が受ける試合の印象は大きく変わってくる。ちなみにWWEには男性プロレスラーと女性プロレスラーとの恋愛アングルも存在するから面白い。『俺たち文化系プロレスDDT』のタッグマッチも『HARASHIMAと棚橋の因縁』というアングルがあるかないかで、観客の没入度はまるで違ってくるだろう。だからこそ同作は、タッグマッチの試合とHARASHIMAたちの過去が交互に描かれるというサンドイッチ型の構成を採用した」と述べます。
「『何が真実か』はドキュメンタリーの仕事ではない」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「改めて問う。もしプロレスが『ショー』なのだとすると、つまり確固としたアングルが編まれ、そしてミスター高橋が言うように勝敗も最初から決まっているのだとすると、我々はいったいプロレスの何を楽しんでいるのか。これは卓越したミュージシャンの演奏に喩えられるのではないか。我々は誰かの演奏を聴くとき、その曲が知っている(=展開や結末がわかっている)曲だからといって、無価値だとは考えない。聴きたいのは『曲』ではなく『演奏』だからだ。となると大事なのは、演奏者の腕である。何度聴いても聴き惚れるプレイというやつだ。これはプロレスラーで言うなら『上手さ』にあたる。流れるようなロープワーク、切れのあるドロップキック、芸術的なバックドロップ、美しい空中殺法。次々と技を繰り出し、きっちり相手の技を受け、テンポ良く試合を展開させる。相手の力量を十分に引き出した上で、見映えのいい大技でフィニッシュを決める『上手さ』」
「観客の了解事項は変化する」では、映画にしろ、SNSにしろ、スポーツにしろ、お笑いにしろ、芸能界にしろ、現在の観客は昔とは比べ物にならないほど、内情を「わかって」しまっているといいます。もはやあらゆるエンタテインメントは台所事情からビジネススキームまで、フルオープン状態だ。手の内を隠しておくことなどできないというのです。著者は、「そういった意味でDDTプロレスリングという団体は、プロレスが従来持っていた虚実皮膜をギリギリのところで捨てることなく、それでいて世間の了解事項の変化に呼応する形で自らのありようを時代にアジャストし続けた団体だ。彼らは手の内を晒すこと、アングルを画策するプロセスそのものも開示することで、エンタテインメントを構築した。言うなれば、観客の了解事項が多いことを逆手に取った」と述べるのでした。
第10章「フェイクドキュメンタリーはドキュメンタリー以上にドキュメンタリーである」の「高純度で詰め込まれた監督の意図」では、フェイクドキュメンタリー(和製英語。正式にはモキュメンタリー)とは、ドキュメンタリーの手法で撮られたフィクションのことであることが確認されます。つまり、あらかじめ筋書きや展開が用意された物語です。フェイクドキュメンタリーについて押さえておきたい特質は、大きく3つあるといいます。1つめは、ドキュメンタリーの手法(撮り方、編集や構成、画面の空気感など)だけを味わう、という好事家向けの側面です。ドキュメンタリーのドキュメンタリーらしさたるゆえん、その本質だけを蒸留して抽出する、あるいは煮詰めて頬張るようなものです。2つめは、本家であるドキュメンタリーとは対照的に「主客が逆転した虚実皮膜」を基本構造としている点です。3つめは、作り手の「意図」がドキュメンタリー以上に直接的でノイズなく作中に立ち現れるということです。
「『自分探し』の滑稽さを嗤う『山田孝之の東京都北区赤羽』」では、2015年1月~3月、テレビ東京系の深夜帯で放送された『山田孝之の東京都北区赤羽』(監督:松江哲明、山下敦弘/30分×12話)が取り上げられます。同作は、役者として行き詰まった山田が赤羽に移り住み、住民たちと交流するうちに「自分を発見していく」というフェイクドキュメンタリーです。同名の漫画原作が存在し、その作者・清野とおるも本人として登場します。漫画原作は清野自身が赤羽の奇異な人物や名所などを探索・紹介・交流する内容であり、当然ながらそこに山田は登場しません。ただし、漫画に登場する赤羽のエキセントリックな住人たちは実在し、番組にも実名で登場します。著者は、「本作に込められた制作サイドの「意図」とは何か。端的に言えば、『自分探し』に帯びる滑稽さの描出だ」と述べています。
「批判をかわしやすい」の冒頭を、著者は「現実に即して表現したい筋書きや展開があるなら、普通にフィクションのドラマを撮ればよいのではないか? なぜわざわざドキュメンタリーの手法を採用する必要があるのか? という疑問を抱くかもしれない。その答えとなりうるのが、フェイクドキュメンタリーは実話ベースのフィクションと比べて批判をかわしやすいという性質だ」と書きだします。端的に言えば、「ドキュメンタリー以上に作り手が言いたいことを言いやすい」のがフェイクドキュメンタリーです。その意味でフェイクドキュメンタリーはドキュメンタリーの反対語ではなく、ドキュメンタリーのドキュメンタリーらしさを誇張した代物であるといいます。逆説的な言い方ですが、フェイクドキュメンタリーはドキュメンタリー以上にドキュメンタリーっぽいのです。著者は、「ものまね芸人が本人以上に本人の口癖や挙動を把握しているのと同じ。フェイク(偽物)は本物に擬態する必要があるため、むしろ本物以上に『ドキュメンタリーとは何であるか』に自覚的でなければならないからだ。ドキュメンタリーをより深く理解したいなら、フェイクドキュメンタリーを観ればいい」と述べるのでした。これは至言ですね。
「ドキュメンタリーが“本物”かどうかなど誰にもわからない」では、ドキュメンタリーのフィクション性を身をもって体現した山田孝之が、3作の放送・制作と時期を同じくする2015年から2016年に、NHK『新・映像の世紀』のナレーションを務めたことが紹介されます。著者は、「TVドキュメンタリーとしては屈指の評価を誇るシリーズのナレーションを、2010年代屈指の野心的フェイクドキュメンタリーの立役者が担当する。偶然にしても実に遊び心のある、戯れじみた虚実の交錯ではないか」と述べています。ちなみに、山田による『新・映像の世紀』冒頭のナレーション「私たちはなぜ、今こんな世界に住んでいるのか。これから、どこに向かうのか」「現実の脚注たるドキュメンタリーはたぶん、その疑問に答えるためにこれからも作られ続ける」というものでした。
Column2「フェイクドキュメンタリー分類考」では、フェイクドキュメンタリーは大きく3つに分類されることが紹介されます。1つめは、最初からフィクションであることを明示して作られた、ドキュメンタリータッチの作品。映画作品では『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)、『パラノーマル・アクティビティ』(07)、『クローバーフィールド/HAKAISHA』(08)あたりが有名どころ。いずれも撮影者が行方不明になり映像データが後で発掘された――という設定のフィクション作品(ファウンド・フッテージ)です。
2つめは、現実世界を巻き込んでまでひとつの作品とするものです。『容疑者、ホアキン・フェニックス』(10)は、数々の映画賞を受賞している俳優ホアキン・フェニックスが突如俳優を辞めてヒップホップアーティストになると宣言してからの奇行を、当時義理の弟だったケイシー・アフレックがカメラで追うという内容です。実はヒップホップアーティストへの転向は嘘で、製作陣はなんと2年近くにもわたりマスコミや大衆を騙し続けました。
3つめは、フェイクであることを先にあまり言わず、「わかる視聴者にだけはわかる」ような遊び心をもって制作されたものです。『山田孝之の東京都北区赤羽』(15)、『山田孝之のカンヌ映画祭』(17)がそれにあたります。起源については諸説ありますが、世界各地の奇習や奇祭をグロ映像を交えて綴った『世界残酷物語』(62/監督:グァルティエロ・ヤコペッティ)、密林地帯で発見されたフィルムに食人や強姦が映っていた――というファウンド・フッテージものである『食人族』(80/監督:ルッジェロ・デオダート)あたりが、よく知られています。
「epilogue」では、本書はドキュメンタリーが虚実ないまぜ、意図と作為の産物であることを十分に了解した上で、「面白がる」ための視点や気付き、知的に疑うための方法、偉そうに言うなら「リテラシー」についてまとめたものであることが確認されます。著者は、「ドキュメンタリーは虚実皮膜(だから面白い)、被写体も作り手も本心を隠しているかもしれない(から面白い)。虚と実が絶妙なバランスで拮抗し、かつ虚と実の配合比率が絶対に明かされないことから醸される緊張感。複雑で、あやふやで、不定形なものを、白黒はっきりさせないまま、しかし監督がそこに抱いた割り切れなさもひとつ残らず込めることで、ドキュメンタリーは観客の胸を打つものに仕上がる。そのことを、作り手でも被写体でもない『第三者』の立場からしたためたのが本書だ」と述べるのでした。本書は、映画好きなわたしにとって本当に勉強になりました。そして、帯に書かれているように悪魔的に面白かったです!
