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No.2498 読書論・読書術 『本を読めなくなった人たち』 稲田豊史著(中公新書ラクレ)
2026.09.22
『本を読めなくなった人たち』稲田豊史著(中公新書ラクレ)を読みました。「コスパとテキストメディアをめぐる現在形」というサブタイトルがついています。著者は、1974年生まれ。ライター・編集者。横浜国立大学経済学部卒。新卒でギャガ・コミュニケーションズに入社し、キネマ旬報社を経て独立。著書に、一条真也の読書館『映画を早送りで観る人たち』、ブログ『このドキュメンタリーはフィクションです』で紹介した本をはじめ、『ポテトチップスと日本人』(朝日新書)、『ぼくたち、親になる』(太田出版)、ほか多数。
本書の帯
本書の帯には、若い女性がスマホを操作しているイラストが使われ、「長い文章はChatGPTが要約を返してくれるので、本を読む必要はないです」との吹き出しがあります。また、「『映画を早送りで観る人たち』著者の最新作」「徹底取材! なぜスマホだけでいいのか? そこから見えている世界とは?」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「読書は『ながら』ができずコスパが悪い」「村上春樹の小説を10ページも読めない」「数百字を読むより、10分のYouTube動画を倍速で見るほうが効果的」「ネット上にお金を払ってでも読みたい文章はない」「お金も時間もある人の趣味って感じ・・・・・・」という内容の一部が紹介され、「本を読めなくなった人たちの『文章』をめぐるホンネが明らかに!」と書かれています。
カバー後そでには、「コンテンツ消費における〈コスパ〉〈タイパ〉という欲望は、読書においてはどのように作用しているのか。『本を読めなくなった人たち』はいま何を考え、どんな本音を抱いているのか。本書では、若い世代を中心に「本を読めなくなった人たち」を徹底取材。誰もが〈コスパ〉〈タイパ〉を無視できない現代社会の実情をリポートしながら、テキストメディアと読書の未来を考える。『映画を早送りで観る人たち』著者による待望の最新作!」との内容紹介があります。
さらにアマゾンの「内容紹介」には、「著者による『映画を早送りで観る人たち』の待望の続編!」として、「〈倍速視聴〉から見えたコンテンツ消費における〈コスパ〉〈タイパ〉という欲望は、読書においてはどのように作用しているのか。本作では、「本を読めない人たち」への徹底取材をはじめ、テキスト受容を取り巻く読者と出版社/ウェブメディアの現状をリポートする。一体『本を読めなくなった人』は何を考えているのか。2010年代以降、本が読まれないことが当たり前になるなか、ほとんどフォーカスされてこなかった。生の声を取材することで、現代社会のメディア状況への考察を深めていく」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
プロローグ――本を読まない人は世界をどう見ているのか
第1章 ニュースを無料で読む人たち
――無料ウェブメディアの行き詰まり
第2章 本を読まない人たち
――〈わかりみ〉と〈おもしろみ〉
第3章 本と出合えない人たち
――無料抜粋記事と電子書籍の限界
第4章 本屋に行かない人たち
――聖域としての書店
終 章 紙の本に集う人たち
――読者と消費者
「あとがき」
「主要参考文献」
「プロローグ――本を読まない人は世界をどう見ているのか」の冒頭の「無料化した文章の果てに」では、著者は「『文章』というものの経済的価値が、劇的に下がりつつある。もはや多くの現代人には、ネット上でニュースや記事を読む際にお金を払うという発想がない。地球上における空気、あるいは日本における平和や水と同じように、文章もタダだと思っている」と書きだしています。2022年に登場し、あっという間に普及したChatGPTなどの生成AIは、「文章は無料」の価値観を、読む側の間だけでなく、送り出す側の間でもより強固なものにしました。今や、「何かについて規定文字数で説明する文章」を人間に発注する理由をわざわざ探すのは難しいとして、著者は「タダでできるものに金銭的・時間的コストをかけるなど、情弱も甚だしいからだ」と述べています。
「長い文章が読めない人たち」では、対価を支払わなければ読めない活字の本というパッケージメディアは、まだ健在だといいます。紙であれ電子であれ、相応の質は担保されています。売れっ子の書き手もいれば、ベストセラーも生まれています。刊行点数も激減してはいません。書籍の市場規模が最盛期の半分近くにまで縮小し、初版部数(最初に印刷される際に作られる冊数)が減少の一途を辿ってはいるものの、機能はしています。破綻はしていません。今のところは。著者は、「16歳以上の日本人の6割以上は、1ヵ月に1冊も活字の本を読まない。その傾向はもはや60年は続いており、時代ごとに読まない理由はさまざまに語られてきたが、昨今では、そもそも読み手側の長文読解能力が劇的に落ちている、という説が一定の説得力をもつ」と述べます。
著者が講演に呼ばれたとき、ある幼稚園の園長が「30代の保護者の多くがプリント1枚すらちゃんと読んでくれず、必要な事務連絡ができない。途方に暮れています」と嘆いていたそうです。昨今のネット記事は、本文を最後まで読まなくても支障を来さないようにできています。記事冒頭に箇条書きや要約がついており、そこに概要も結論も書かれているからです。数百字程度の文章すら完読する必要がありません。世代を問わず、現代人はその仕様に慣れたとして、著者は「長い文章が読めなくて困ることはないのか。村上春樹が読めなかった彼女は、筆者の疑問にこう返してきた。『長めの文章はスマホで写真を撮って、ChatGPTに画像を投げれば要約を返してくれるので、別に長い本とか読む必要はないです』」と述べるのでした。
第1章「ニュースを無料で読む人たち――無料ウェブメディアの行き詰まり」の「ニュースは取りに行かない、降ってくるから」では、ジャーナリストの津田大介は2024年に行われた朝日新聞のインタビューで、インターネットの30年を振り返り、「この10年の大きな変化は、人々が検索をしなくなったこと」「フィルターバブルがより進んで、基本的にサービス側が出してくるレコメンドをそのまま見るようになってしまった」と指摘したことが紹介されます。フィルターバブルとは、ネットから受け取る情報が「もともと自分が持っている価値観や意見に近いもの」に染まってしまうことで、自分とは異なる価値観や意見、自分にはない趣味嗜好が見えなくなる現象のことです。
この徹底した受動性は、若者たちのインターネット流儀そのものだとして、著者は「YouTubeショートであれ、インスタグラムやTikTokであれ、そこに投稿されている動画を彼らが『狙って』見に行くことは少ない。今までの視聴履歴に基づき次々と勝手におすすめしてくる動画を、高速でスワイプして選別し、見たいものがあれば見る。自分に『めがけて』降ってくるおすすめを、受動的に消化し続けることで時間を溶かす」と述べています。世の中の出来事をテキスト情報では一切取らない、という学生も若干ですがいたそうです。著者は、「情報は点で取る。面では取らない。情報は受動的に取る。能動的には取らない。これは、体系的な知を能動的に解釈しようとするタイプの読書に求められる態度とは、非常に相性が悪いと言える」と述べるのでした。
「『他人の不幸』『エロ』『マンガ』『クイズ』しか読まない」では、テキストを読ませることを主体とした無料ウェブメディアは、特に2020年代以降、どこも経済的に苦しいといいます。インターネットユーザーの相当数が、そのネット接触時間をテキストサイトから、XをはじめとしたSNSやYouTubeなどの動画プラットフォームにシフトしていったからです。著者は、「SNSは短文ゆえに、動画は受動的な視聴に向いているがゆえに、ニュースのテキストを読むよりずっと楽なのだ」と述べています。
続けて、著者は「Xでポストの文面だけを読み、リンクを踏まない学生はその典型。結果、テキストメディアは総じてPVが取れなくなり、その地盤沈下に連動して広告収入も落ちていった」と述べます。では、確実にPVを取れる記事とは何でしょうか。著者が長年仕事をしている40代のベテランウェブ編集者は「ここ2、3年、ウェブの記事は、一般的なビッグニュースを報じるものを除けば、『他人の不幸』『エロ』『マンガ』『クイズ』しかPVを取れません」と吐き捨てるよう愚痴を言ったそうですが、これがすべてを説明しているといいます。
「イーロン・マスクが無料ウェブメディアの質を落とした」では、ベテランウェブ編集者の「キュレーションチームの消滅から数日後には、早くも影響が表れました。いつもならTwitter経由で読まれていたような骨太な記事のPVが、明らかに伸び悩むようになったんです。並行して、品のないワードが頻繫にトレンド入りするようになりました」という声が紹介されます。ヘイトや誹謗中傷、真偽不明の憶測、フェイクニュースや陰謀論、炎上への加担や便乗といった投稿が、Twitter上で頻繁にバズるようになりました。短絡的で刺激的な情報だけを求め、他人の不幸に笑いを浮かべ、成功者が炎上することで溜飲を下げるユーザーが、このような投稿にこぞって「いいね」を押し、リポスト(再投稿)したからです。
その後押しをしたのが、投稿のインプレッション数(表示回数)に応じて投稿者が収入を得られる仕組みの導入だといいます。Xが、何でもいいからとにかく人目を引く投稿をすれば儲かるプラットフォームに変貌したのです。著者は、「時間をかけて作られた記事は、X経由では劇的に読まれなくなった。結果、各サイト、特に無料ウェブメディアは「いい記事」ではなく、『便所の壁で目立つ落書きの要素を含む記事』を量産せざるをえなくなった。そうしなければ、PV数に比例した収入(広告料やヤフーへの転載料)が得られないからです。くだんのベテランウェブ編集者は、「Twitterのキュレーションチームが解散したとき、もうウェブメディアは終わったなと思いました」と言ったそうです。
「アテンション・エコノミーからエンゲージメント志向へ」の冒頭を、著者は「クリックされればこっちのもの。タップされればこっちのもの。記事の優劣よりも、関心・注目に経済的な価値(PVに連動した広告収入)が置かれる。インターネットの基本原則、アテンション・エコノミー(関心経済)だ。アテンション・エコノミーは、インターネット上の情報量が増大するのと歩調を合わせ、着実に影響力を強めてきた。なぜなら、情報の器は事実上無限に増設できる一方、人々が向けることのできる関心は有限だからだ」と書きだしています。2022年のイーロン・マスクによるTwitter買収以降、アテンション・エコノミーがより一層促進されたと感じているメディア関係者や書き手は少なくありません。直木賞受賞作家の小川哲もインタビューで、「Twitterから『X』になり、インプレッション数がお金に直結する仕組みができたことで、『いかに目立つか』を追求する流れが加速している」と語っています。
第2章「本を読まない人たち――〈わかりみ〉と〈おもしろみ〉」の「実利性が高い本は読む」では、当然ながら読書習慣のある大学生もいることが指摘されます。グループインタビューでは、そういった学生が読む本のジャンルは8割がた小説だったそうです。よく挙がってくるのは、東野圭吾、知念実希人、辻村深月といったベストセラー作家の作品、あるいは中学・高校時代からずっと追いかけているライトノベルのシリーズだとか。一方、普段から本を読む習慣のない大学生が「珍しく読んだ」本の傾向は、大きくふたつの系統に分かれるといいます。ひとつめが、「実利的な目的を達成させてくれる本」です。就職を狙う業界についての研究本、現在学んでいる専門分野に関係する本、自分の社会的価値を上げてくれる本、自己啓発的な意味で自分の「成長」を促す本などがそれにあたります。
「映画化されるってことは、面白いに決まってる」では、普段から本を読む習慣のない大学生が「珍しく読んだ」本のふたつめの傾向は、映画化、ドラマ化やアニメ化など、比較的大規模に映像化された作品の原作小説だそうです。『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(2016年刊、2023年実写映画化)、『君の膵臓をたべたい』(2015年刊、2017年実写映画化、2018年アニメ化)などがそれに当たります。これらは「実利的な目的を達成させてくれる本」を読む学生以上に輪をかけて、本を読まない学生が多く挙げてくる傾向にあったといいます。これらの映像化に際したプロモーションによって作品の存在を知り、興味を持つわけです。
「賢さに寄与する読書と寄与しない読書」では、読書にもさまざまな様態があることが指摘されるとして、著者は「世界観に浸ることを目的とした没頭型読書と、実利性重視で答えを求めるための読書と、主題について思索すること自体を目的とする批評的・分析的読書では、脳を使う場所や脳を回すのに必要なカロリーは全く変わってくるだろう。筋トレの類いと同じで、筋肉量の増加に寄与する高負荷のトレーニングもあれば、リフレッシュのために軽く汗をかくだけの動作もある。脳を酷使する『考える読書』もあれば、脳に楽をさせる『考えない読書』もある」と述べます」と述べています。
では、脳を酷使する「考える読書」とは、具体的にどのようなものでしょうか。著者は、その一例として古典を挙げます。なぜ世界中の国のエリート教育では古典を学ばせるのか。それは、自分とは違う時代に生きた人間の考え方や価値観を知ることで、今の自分を相対化できるからだとして、著者は「自分を絶対視せず、過信せず、驕らず、他者との関わりの中で自らを冷静に見つめ、広大で多様な世界のありように畏敬の念を抱きながら、何事に対しても思慮深くあろうとする。ひとつの『賢い』という状態に違いない」と述べます。
「楽は付け入る隙を与える」では、文章の場合、それを読んで語義や論理を解釈するという相応の情報処理プロセスをワンクッション挟んだうえで感情が動かされることが指摘されます。一方、映像の場合は映像や音によって直接的に感情が刺激される側面が強いといいます。つまり極端に言えば、論理が破綻していても空気や熱気や雰囲気で観る者が抱く印象を制御できるのが、映像の力であるとして、著者は「これは映像作品というものの芸術性に深く関係する特質ではあるが、逆に言えば論理が破綻していたりエビデンスが欠如していたりする主張も、映像による見せ方の工夫によって観客を説得させられることも意味する」と述べています。
「マスメディアは『冗長』」では、膨大な情報を整理・分類・吟味・再構成して全体を把握し、必要なら他の類例も参照し、その上で自分の意見を固めるのは、莫大なエネルギーを要することが指摘されます。著者は、「生活と時間に余裕のある人だけに許された特権的行為だ。多くの人は日々仕事に忙殺され、金欠にあえぎ、生活に疲れている。そんな余裕はない。長いテキストを能動的に読むとは、そういうことだ。だからこそ多くの人は、誰か別の人間によって整理され、理解しやすいようノイズが取り払われて整形された、わかりやすい物語に飛びつく。善悪がきっちり分かれていて、攻撃すべき敵がこれ以上なく明確にロックオンされている物語に。受動的な短尺動画は、そのような「理解するのが楽」な物語の供給にうってつけなのだと述べます。
「純文学でオープンエンディングが許されない」では、現代的な意味での「わかりやすい文章が読まれる」について言及されています。単に導きが親切で結末や結論を明示している文章だから好まれるというだけではなく、「書き手の意図や心情を理解しやすい、共感しやすい、同意しやすい(わかりみが深い)文章ほど受け入れられやすい」ということでもあるとして、著者は「〈わかりみ〉が目指す理解・共感・同意とは、発信者が抱く感情や、作り手が作中に用意した結末や結論に、鑑賞者が無事に到達することだ。ある種の『正解』に到達できたことで浸る愉悦のことを〈わかりみ〉と呼ぶ」と述べています。
〈わかりみ〉と対になるのが、〈おもしろみ〉です。〈おもしろみ〉とは、興味深さや奥深さ、趣や味わいのこと。見た目に立ち現れない、背景や文脈を押さえた上で察知できる内面的な面白さのことです。しかも、その「面白い」にも多様な意味があるといいます。辞書を一瞥するだけでも、「興味深い」「滑稽だ」「快く楽しい」「一風変わっている」「好ましい」「趣が深い」といった語義が並びます。その「趣」ひとつ取っても、さらに多種多様な感情が読み込まれるとして、著者は「背筋が伸びる思い、美しさと悲しさの同居、畏怖の念、底知れぬ崇高さ――。〈おもしろみ〉の意味は〈わかりみ〉に比べて広く、深く、複雑だ。〈おもしろみ〉には、〈わかりみ〉のような単一の正解はない。親切な導きもない。手軽な理解や共感や同意など一切寄せ付けない。むしろ何が面白いと感じたのかについての思索と言語化を読者側に促す」と述べます。
「わかりやすい」文章は、たしかにとっつきがいいです。読み終わって「理解・共感・同意」するのも気持ちがいいです。しかし本のページを閉じてしまえば、あるいはスマホやPCの画面を閉じてしまえば、それで探求の旅は終わります。しかし「おもしろい」文章はしばしば、読者がもともと持っていなかった視点の提示から始めます。聞いたこともない概念、初めて触れる考え方の枠組み、使ったことのない言葉がひしめき合うため、読者は頭を使わなければなりません。著者は、「ゆえに途中で脱落する者も多いが、乗り越えられた者はまったく新しい思考のフレームを得られる。新しい問いが自然と湧きあがってくる。探求の旅はそこからスタートする。すなわち、〈わかりみ〉とは疑問が解かれて思考を止める際の感情、〈おもしろみ〉とは問いが生成されて思考が始まる際の感情であるとも言える。登山にたとえるなら、〈わかりみ〉とは頂上に到達した際の達成感、〈おもしろみ〉とは頂上から世界を見晴らし、その広大さに喜びをもって圧倒される感覚――と言えるのかもしれない」と述べるのでした。
「『朝の読書』は読書習慣をつけない?」では、朝の読書が取り上げられます。朝の読書とは、「学校において毎朝始業前10分程度の時間を利用して、全校の児童生徒と教師が一斉に自分の好きな本を読むという読書推進活動」(図書館情報学用語辞典 第5版より)のことです。読む本は生徒に任されており、各々が自宅から持参した本、図書館で借りた本、あるいは教室に設置してある学級文庫の本でもよいそうです。短い時間で最後まで読める前出の『5分後に意外な結末』シリーズは、この朝の読書を意識して企画されています。朝の読書は、2001年に文部科学省が「教育新生元年」を謳い、「あいさつのできる子」「正しい姿勢」「朝の読書運動」を3つの柱に据えてから普及が進んだという経緯があります。
「親の本棚=文化資本」では、「親が本を読んでいたかどうか」「家にちゃんとした本棚があったかどうか」によって左右される説、いわゆる文化資本問題であるといいます。文化資本(cultural capital)とは、フランスの社会学者ピエール・ブルデューとジャン=クロード・パスロンが提唱した社会学上の概念で、金銭によらない資産、文化的素養などのことです。平凡社『大学事典』(2018年)では、「幼少期の家庭から相続継承され、学校教育を通じて中立的な能力証明へと変換され、社会的な地位や権力の再生産に結びつく」と説明されています。著者は、「現在では、生まれ育った家庭がどれだけ『文化的』かによって、子供の文化的素養や学力に影響を与える、といった文脈で議論されることが多いため、『親ガチャ』的な主張と結びつきやすい」と述べています。
「長い文章を読めるのは特殊能力」では、小説家の松岡圭祐は著書『小説家になって億を稼ごう』(新潮新書、2021年)で、「稼げる小説」を書くための実践的ハウツーを事細かに指南していることが紹介されます。同書の第1章で、松岡は「〔・・・〕読書は生来の才能に大きく依存します。能動的に文章を読み進めながら、受動的に内容を解釈せねばならず、しかもそれが楽しみや喜びにつながるとなると、けっして多数派にはなりえません。〔・・・〕小説を読むことを楽しく感じる才能の持ち主は、極めて限定的なのです。〔・・・〕文芸より映像メディアのほうが人気とされるのは、ビジネスの規模ではなく、対象者数の絶対的な差によるものです」という断り書きを入れています。松岡はその認識をもとに、ある小説家の顧客となりうる層は「最大でも国民の40人にひとりだけ」、つまり「どう頑張っても300万人以下」だと結論付けました。
第3章「本と出合えない人たち――無料抜粋記事と電子書籍の限界」の「何を読んでいいのかわからない」では、YouTubeは、それまでの視聴履歴に基づいた動画が次々とリコメンドされるため、観るものに悩まなくてよいことが指摘されます。Netflixなどの定額制動画配信サービスのトップ画面も、それに近い状態です。対して本は、勝手に情報が流れてきません。放っておいてもリコメンドされません。つまり、活字の本は動画と違って、こちらから会いに行かなければ「出合え」ないのです。著者は、「服を買うことに慣れていない者は、自分に似合う、自分好みの服が、どの街のどんな店に売っているか、あたりをつけることすらできない」と述べます。
服を買うことに慣れていない者は、事前に情報を取るにしても、どこから取ればいいのかもわかりません。本も同じです。本が読めるとか読みたいとかいう以前に、何を読んだらいいかわからないという若者は確かにいます。「『いいね』する人と本を買う人は別」では、「他人の不幸」「エロ」「マンガ」「クイズ」しかPVを取れない風潮、「便所の落書き」に近づいたX、行き過ぎたエンゲージメント志向。こういった場所に好んで常駐する人、あるいはこういった世界観にどっぷり浸かっているファスト志向の欲望主義者と、律儀に紙の本を買ってページをめくる人は、どこまでいっても重ならないことが指摘されます。
「『安くする』しかプロモーション方法がない」では、電子書籍の膨大なアーカイブは一見希望に思えますが、実はそうではないことが指摘されます。NetflixやAmazonプライムビデオと同じ。膨大な作品が視聴可能ながら、よく観られるのは一部の超人気作と最新作だけ。インターネットが多くの「小さき存在」に平等にチャンスを与えたのは事実ですが、そこでは現実世界以上に身も蓋もない、非情な弱肉強食の淘汰が待っていました。著者は、「売れるものは徹底的に売れる。売れないものは徹底的に売れない。勝者は勝ち続け、敗者は負け続ける。結論。インターネット上のデジタルコンテンツは『安い』もしくは『無料』のものが圧倒的に強い。根本のところで無料のネット記事に近いものがある」と述べています。
「活字の本を読む大学生は電子を好まない」では、活字の本はコミックに比べて電子で読まれにくいことが指摘されます。どちらかと言えば活字の本を読むタイプの学生に、紙と電子のどちらを好むのかを聞いたところ、圧倒的に紙だったそうです。その理由としてもっとも多かったのは、世の中の「紙の本好き」を自称する人たちが必ずと言っていいほど口にする「紙の手触りと質量が好きだから」でした。一方、紙のほうが「読みやすい」という声もありました。ある女子大生は、「漫画はスマホで読むときどういう距離で見ても目が疲れないけど、活字の本をスマホで読むと、どこを読んでいるかわからなくなったり、目がしょぼしょぼしてきたりします」と語りました。
「電子コミックは『所有するほどでもない人たち』のニーズを満たす」では、2010年代に登場した電子コミックは突然市場ができたわけではないことが指摘されます。「所有するほどでもない作品を、買うよりは安く読みたい」「人気作は巻数が多くかさばるので、家に置きたくない」という人たちに向けたサービスは、貸本屋、漫画喫茶、ネットカフェ、コミックレンタル、宅配レンタルといったサービス形態で連綿と続いており、その最新形が電子コミックなのです。電子コミックは無料で読める作品と有料でしか読めない作品が混在しており、その意味では「買う」と「タダで読む」の中間、つまり「買うよりは安く読みたい」ニーズの受け皿となります。電子ゆえ巻数が多くてもかさばらない利便性は、言うまでもありません。
「活字の本は電子のメリットを享受できない」では、著者は「活字の本を紙で買うか電子で買うかのひとつの基準は、対象への愛の深さによるというよりは、嗜好物に対する愛着行為として本を読む(紙)か、情報の取得源として本を読む(電子)かではないだろうか」と述べています。複数の出版関係者に聞いても、活字の本の売上でもっとも電子比率が高いのは、話題のビジネス書やベストセラーの新書だといいます。嗜好物への愛着というよりは情報の取得、鑑賞行為というよりは消費行為です。食事にたとえるなら、前者はビストロでのコース料理もしくはビンテージワインの試飲会、後者はファストフード店でのかきこみランチもしくはサプリメントの大量服用、といったところだ、と例えています。
第4章「本屋に行かない人たち――聖域としての書店」の「検討コスト、思考コスト」では、持ち込まれた企画を検討するだけでも出版社側にコストがかかるとして、著者は「検討コストを削減したいという志向は、近年ビジネスの場以外にも広がっている。映像作品にしろ、レストランにしろ、電化製品にしろ、観光地にしろ、今はスマホから何でも調べられるので、比較検討可能な選択肢は劇的に増加したが、多くの人は『選択肢のすべてを詳細に比較検討しよう』とは思っていない。それよりは、自分と感覚の合う著名人やインフルエンサーや友人が強烈にお勧めしている、ただひとつの『激推し作品』『激推し店』『激推し商品』『激推しスポット』を選びたがる。そのほうが比較検討する時間と脳を回す労力が節約できるからだ。すなわち『タイパがいい』」と述べています。
「書店は美術館レベルでレアな存在」では、「紙の本と出合う場所」である書店の数は、減り続けていることが指摘されます。2025年11月時点の日本における書店店舗数は1万店程度で、2万店舗以上あった2003年から半減しました。しかも、売り場面積を報告している書店(坪数登録のある実店舗)に限れば7500店弱にすぎません。商店街の個人書店がどんどんつぶれているのは言うまでもないとして、大手書店チェーンも次々と中大型店を閉店させています。かつて大型商業施設がオープンする際には必ずと言っていいほどチェーン書店がテナントで入店していましたが、昨今ではオープン時から書店が入らない商業施設も少なくありません。著者は、「かつての書店は集客力が見込まれていたためテナント賃料が安く抑えられていたが、現在はそうでもないからだ。書店では人を呼べない」と述べます。
著者によれば、年長者が説教口調で若者に「なぜもっと書店に行かないのか?」と問うのは、「なぜもっと美術館やギャラリーに行かないのか?」と同じくらい被質問者を戸惑わせるアクションになりつつあるといいます。それは日常的に立ち寄れる場所にない、という意味においてだけではありません。ある種の書店が帯びる文化的選民性の高さ、精神的あるいは経済的な余裕があって初めて行ける場所であること、コミュニティスペース化やイベントスペース化しているという点においても、昨今の書店と美術館やギャラリーには共通要素があるとして、著者は「なにより令和の日本において、美術館やギャラリー通いを趣味とする人は一部に限られており、一般市民に広く浸透した趣味と言えるほどポピュラーではない。書店通いもそれに近づいている」と述べるのでした。
「富裕層向け化する本」では、世界的な燃料代の上昇によって紙代や輸送費はここ数年どんどん上がっており、それが本の本体価格に乗っていることが指摘されます。著者は、「体感値だが、2010年代初頭にほとんど税込み1000円以内に収まっていた新書は、今や1000円以内に収まることが少ない。同じく単行本も、2010年代初頭には税込み1500~1800円が主流だったところ、ことさら分厚くなくても税込み2000円を超えるケースは珍しくなくなってきた。それに加え、慢性化した経済停滞と世の物価高が、より一層新刊本を贅沢品の座に押し上げる。本当に問題にすべきは、本を読まない人ではない。長い文章を読むことのできる人、文学や評論や文芸エッセイを読めるような人ですら、『文庫本1000円は高い』と感じ、単行本版の古本を買ってしまうという状況のほうである」と述べています。
終章「紙の本に集う人たち――読者と消費者」の「『読者』的集団と『消費者』的集団」では、「読者」が第一義に求めるのが濃密で深遠な知的体験・知的没頭だとすれば、「消費者」が第一義に求めるのは設定した目的を効率的に達成させてくれること、つまりコスパだといいます。極論すれば、「消費者」は読書を求めているわけではないとして、著者は「得たい情報や知識が、たまたま本というメディアに文字で記述されているから、本を手に取っているにすぎない。それ以外のもっと効率的な方法で本の内容をインプットできるなら、そちらを選ぶ」と述べます。本より動画で情報を得る人たちがその典型です。あるいは、生成AIを使って効率的に読書する方法を推奨したり、実践したりする人は、大量の文字を延々と追う喜び自体に価値を見出さないという意味において、「消費者」に近いと言えます。
「生成AIによって文章が『安く』なっている」では、問題視すべきは、「生成AIの生み出す文章の品質がどの程度人間のそれに迫れるか」ではないといいます。生成AIの普及によって「文章というものは、それなりのものであれば基本的にタダで作れる。わざわざ金をかけて外注するようなものではない」という“常識”が世の中に浸透することだというのです。文章というものの経済的価値が劇的に下がりつつある理由は3つあります。1つめは、インターネットが文章を無料で提供し続けてきたから。つまり安売りによる価値の毀損です。2つめは、文章より動画から情報を取りたいと考える人が増えてきたから。つまり需要の減少による市場価値の低下です。
そして3つめが、生成AIによって文章を作るコストが劇的に下がったから。これは塩や氷や電卓と同じだ。いずれもかつては高級品でしたが、技術進化によって製造コストが劇的に下がったことで、その希少性や経済的価値も下がってしまったのです。コモディティ化の一形態とも言えます。著者は、「ここでも、映画業界と同じようなことが起こっている。かつて映画は千数百円を払ってたった1本を観るものだったが、現在は千数百円も払えば月に何万本も観放題だ。あるいは音楽業界。かつては3000円程度のCD1枚に数曲から10数曲しか収録されていなかったが、今や月に1000円前後の料金で膨大な曲数を聴き放題である」と述べるのでした。
「紙の本には権威と信頼性がある」では、経営者や著名なビジネスパーソンが刊行する著書は、その本自体が強力な名刺代わりとなることが指摘されます。本を出せるほど仕事の実績がある、卓越した経営手腕を持っている者であるという、対外的な証明書となるからです。著者は、「実際、成功した自分をブランディングしたいビジネスパーソンや政治家は、本を出したがる。20代、30代ではあまりない発想かもしれないが、40代以上、特に50代、60代となると、まだまだそのような志向は強い。経営者によるビジネス書の自費出版を『ブランディング出版』と呼ぶことにも納得がいく」と述べています。
文筆で生計を立てる者の著書も同じく、強力な名刺代わりとなります。その本に書かれているテーマについて一定以上に詳しく、その分野の識者であるという、これまた対外的な証明書となるからです。ここには明らかに権威性と信頼性があります。一方、ウェブの記事はどれだけバズっても、基本的には紙の本ほどの権威を持ちえません。なぜなら、一般的に紙の本が商業出版されるためには、ウェブの記事が配信されるよりもずっと厳しい「審査」を突破しなければならないからです。著者は、「紙の本は、書き手に本の売上以外の利益をもたらす強力な資産として機能するばかりか、社会的な権威を備え、ある種の人たちにとっての自己実現ニーズを満たしながら市場を形成する。これらは紙の本の、文化的な意味というよりは商品経済的な意味での確固たる存在意義と言えるのではないだろうか」と述べるのでした。
「紙の本の所有は継続性の高い顧客を育む」では、「書いた人」に惹かれて本を購入する場合、その本は電子書籍ではなく紙の本でなければならないという事実が指摘されます。これは学生グループインタビューでも判明した傾向で、著者についたファンは基本的に紙で買います。人は、何かに強く愛着を抱いた場合に、それを宿らせる物理的な質量を求めるのです。「読書行為はラテン語化し、読書能力はレガシー化する」では、著者は「本は建築に近い。建築物は、外観、間取り、柱の配置、使用する建材、設備や装飾など、膨大な諸要素で構成されているが、その構造ひとまとまりの提示こそが建築表現のすべてであり、要約したり分解したりして語ることはできない」と述べています。
さらに著者は、建築について「それ全体の、そのままの提示でしか表現できない性質の芸術だ」として、「読書が、短縮できない時間的体験にその価値を置くのは、建築が、そこを訪れてある程度の時間を過ごさなければ鑑賞したとは言えないことに似ている」と述べます。かつての聖職者たちは人々の識字率が低かった頃、キリスト教の伝道にあたって聖書を直接読ませるのではなく、宗教画や彫刻やステンドグラスといった視覚芸術、朗読や説教といった発話音声、賛美歌などの音楽、宗教劇など物語化された演劇を利用することによって、イエスの物語を伝えていました。文章を読めない人に向け、絵や話し言葉や音や物語で伝えたのです。著者は、「情報取得手段が文章から動画に移行しつつある現代と、まったくもって同じではないか」と述べるのでした。
「あとがき」では、価値観や感受性の基礎が固められる若年期に何で知性を育むかは、多感な時期をどの時代で過ごしたか、つまり世代に規定されるとして、著者は「たとえば1974年生まれである筆者の世代は、『漫画やテレビやファミコン漬けで馬鹿になる』と親世代から言われて育ったが、漫画やテレビやファミコンを浴びるように摂取したことによってある種の知性を育んだとは言い切れる。その知性は、親世代が育んだ知性とは明らかに別種のものだ」と述べています。したがって、現在の若年世代が本ではなく動画から、重厚な長文ではなく膨大な短文から、実地調査や検索ではなく生成AIとの対話から別種の知性を育んだとしても、何ら不思議ではないといいます。
最後に、著者は「今は過渡期なのだ。2026年時点のおそらく30代あたりをゆるやかな境目として、その上世代は書物をはじめとしたテキストメディアによって内面や精神を形成してきたが、その下世代、とくに10代や20代は動画メディアによって内面や精神を形成している。互いにとって互いが異文化であるのは、至極当たり前なのだ」と述べるのでした。わたしは紙の本を愛し、集め、読む人間です。また、紙の本を書き続ける人間でもあります。昨今、出版不況がいよいよ深刻化してきたことについて不安はありますが、本書を読んで少し気が楽になりました。著者が言うように、本には権威と信頼性があります。せめて、わたしが生きている間は紙の本が消えないことを信じています。
