No.2456 プロレス・格闘技・武道 『10・9 プロレスのいちばん熱い日』 瑞佐富郎著(standards)

2026.03.30

10・9 プロレスのいちばん熱い日』瑞佐富郎著(standards)を読みました。「新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争 30年目の真実」というサブタイトルがついています。著者は、著者は愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。シナリオライターとして故・田村孟氏に師事。1993年に行われたフジテレビ「カルトQ・プロレス大会」での優勝を契機に、プロレス取材等に従事したそうです。本名でのテレビ番組企画やプロ野球ものの執筆の傍ら、会場の隅でプロレス取材も敢行。著書に『新編 泣けるプロレス』(standards)、一条真也の読書館『平成プロレス30の事件簿』『プロレス鎮魂曲』『さよなら、プロレス』『コメントで見る! プロレスベストバウト』『アントニオ猪木』『永遠の闘魂』『プロレスラー夜明け前』『プロレス発掘秘史』で紹介した本などがあります。また、一条真也の読書館『証言UWF完全崩壊の真実』『告白 平成プロレス10大事件最後の真実』『証言「プロレス」死の真相』で紹介した本の執筆・構成にも関わっています。

本書の帯

本書のカバー表紙には髙田延彦、武藤敬司、長州力、橋本真也の写真が使われ、帯には「ドームを押さえろ!!」と大書され、「1995年10月9日、東京ドーム(動員記録6,7000人)「髙田が蹴り、長州がキレ、橋本が壊し、武藤が決める!」「異様な熱気に包まれて、プロレスと総合格闘技の結界を歴史に刻み込んだ、伝説の団体対抗戦の真実を秘史でつづる、迫真のノンフィクション」と書かれています。また、帯の裏には「新日本プロレスvsUWFインターナショナル“史上最大の団体対抗戦”はいかにして始まり、プロレスの歴史を変えていったのか?」と書かれています。さらに、カバー前そでには「面白いカード編成? そんなの決まってるよ。お互い、嫌ってる者同士をやらせること」という永島勝司(新日本プロレス企業宣伝部長/当時)の言葉が紹介されています。

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
ROUND1 ROAD TO 10.9
第1章 「アポなし訪問」
第2章 新日本プロレスとUWF
第3章 UWFインターナショナル誕生
第4章 衝突と引き抜き
第5章 「1億円トーナメント」
第6章 急転直下
第7章 9・23横浜アリーナ、前哨戦
ROUND2 1995.10.9
第1試合 永田裕志、石沢常光vs金原弘光、桜庭和志
「キックならK‐1に行け。俺たちはレスラーだ」
第2試合 大谷晋二郎vs山本健一
「大谷のファイトを観ていると、いつかこんな戦いがあることを予想していたかのように感じられます!」
第3試合 飯塚高史vs高山善廣
「UWFで生まれたレスラーだって、
これだけの者がいる」
第4試合 獣神サンダー・ライガーvs佐野直喜
「一発かましてやれ、と。負けず嫌いなもんで(笑)」
第5試合 長州力vs安生洋二
「切れちゃいないよ」
第6試合 佐々木健介vs垣原賢人
「これがUWFだということですね」
第7試合 橋本真也vs中野龍雄
「10年越しの問題を、まず第1段階、
解決したんじゃないか」
第8試合 武藤敬司vs髙田延彦
「新日本プロレス、凄い会社です」
EPILOGUE AFTER10.9
「おわりに」

本書より

「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「原辰徳は、選手としての引退試合を終えた翌日、東京ドームを訪れた。言わずと知れたプロ野球・読売巨人軍の人気4番打者であり、後年は監督として何度も胴上げを経験したビッグスターである。この日の午前中、球団事務所で任意引退の書類にサインし、続いて読売新聞の本社で退団の挨拶を済ませ、さらにスポーツ報知本社でも同様に礼を済ませた後のことだった。『ロッカーの私物を片付ける』という名目で、夕刻、東京ドームに入った。だが、目の前は、大観衆で埋め尽くされていた。それも、前日の自身の引退試合に集まった5万5000人を遥かに超える人波だった。当時の同所の最高観客動員記録である、6万7000人(主催者発表)が集まっていた。それまでの同記録である、長渕剛のコンサート(1992年5月15日)の6万5000人を上回っていた」

第3章「UWFインターナショナル誕生」では、1991年2月20日に団体設立会見を開いたUWFインターナショナルについて、エースである髙田延彦を取り上げた金子達仁の著書『泣き虫』(幻冬舎文庫)から、「自らをエースとするUインターでは、目指す方向性を、こう総括した。《それまでのUWFっていうのは、プロレスの枠から飛び出して、ほかの団体がやっていることは全部違うんだって言い続けてたわけです。俺たちこそが本物で、あとは偽物だって。簡単に言えば、プロレス業界全体を敵に回すつもりでやってきた。Uインターになってからは、もう一度プロレスの中に戻ろう、戻って、プロレス業界の中からプロレスの強さを発信しようって方向に転換しました》」と引用されています。

このUWFインターナショナルについて、著者は「それは確かに、世界中の格闘家をネットワークで繋ごうとするリングスとも、後に船木誠勝や鈴木みのるを中心に、セメント一辺倒となるパンクラスへと進化を遂げる藤原組とも、違う視座だった。第一次&第二次UWFに引き続き、カール・ゴッチを象徴に据えた藤原組に対し、Uインターが、ルー・テーズを顧問に配したことでも、それは明らかだった(1991年12月より)。ゴッチは生真面目なレスリングを愚直に標榜するもメジャータイトルには恵まれなかった“無冠の帝王”であり、ルー・テーズは世界最高峰のタイトル、NWA世界ヘビー級王座に何度も輝いたベスト・プロレスラーだった」と述べています。

団体設立会見で、Uインターの求めるレスリング像について質問された髙田は、「僕のレスリング観っていうのは、アントニオ猪木さんに憧れて、中学2年の時、神様のように奉っていた。その頃の印象が強くて。やっぱり猪木さんっていうのは、『プロレスラーは、プロレスは、格闘技のキング・オブ・スポーツだ、最強の格闘技だ』っていうのを謳っていて。僕はそれを信じて(新日本プロレスに)入門以来やって来ました。これからもっともっと自分の中でそういうプライドが、周りの人にも(含めて)持ってもらえるように、“レスラーは最強の格闘家である”であるというものを前面に押し出して頑張って行きたいと思います」と語っています。

この発言中にある、髙田が中学2年の時というのは、1976年(4月以降)。まさに猪木が「格闘技世界一決定戦」で、現役のプロボクシング世界ヘビー級王者、モハメッド・アリと対戦した年でした。後年、髙田がトレバー・バービックと闘ったとき、調印式は、米ニューヨークで行われました。猪木vsアリの調印式も同都市で行われたからです。加えて、式に出席した髙田の出で立ちは、羽織袴。これも猪木をトレースしたものでした。著者は、「髙田は打ってつけのそれを持っておらず、友人の力士、寺尾関に借りたのだという。付言すれば、渡米航路の席種もエコノミークラスだった。逆に言えば、それほど拍付けには躍起になっていたのである。猪木vsアリ戦同様、決戦前に公開スパーリングもおこなった。ゴング前には国歌斉唱もとりおこなっている。片や、勝負面も抜かりなく、髙田の練習パートナーにはゴーディー・ラセットという世界ランカーのボクサーを用意した。お膳立ては完璧だった」と述べます。

猪木の異種格闘技路線を踏襲した髙田の「格闘技世界一決定戦」といえば、1992年10月23日の北尾光司戦も取り上げられます。この試合にはブックがありましたが、そう上手く問屋が卸さなかった時のため、Uインター側も計略を立てていました。もし3分5R、両者が闘い抜いてしまったら、その瞬間、立ち会っていたレジェンド外国人レスラーかつUインターの顧問、ルー・テーズをリングに上げ、強引に延長を宣言させ、北尾を巻き込むという作戦です。著者は、「トリッキーなやり方だが、その脆弱な可能性にかけるしかなかった。大一番にも関わらず、髙田がいつも着用する豪奢なガウンでなく、ラフなTシャツ姿で入場したことも、どこかそんな不安に拍車をかけた。だが、全ては杞憂に終わった。1Rから的確にローキックを見舞い、北尾の防御への意識をそちらに向けさせていた髙田は、3Rに右ハイキックを炸裂。瞬間、空気の抜けた人形のように崩れ落ちる北尾。観客も、『セブン! エイト! ナイン!』と一緒になってダウンカウントを大呼。それほどまでに勝利の確信ある、強烈な一撃だった。3R0分46秒、髙田はKO勝ちした」と述べています。

第5章「1億円トーナメント」では、派手な話題を提供はするけれども、強大なスポンサーもいない、レギュラーのテレビ中継がついているわけでもないUインターの経営は、実は自転車操業だったことが明かされます。次の興行の売上で、前の興行で出た負債を返済する状態たったといいます。髙田はスーツを着て、スポンサー探しに東奔西走。髙田と向井亜紀の成婚には婚約指輪はなく、ウェディングドレスは貸衣装。お色直しの赤いドレスは向井の友人が5万円で作ってくれたそうです。そんな状況でも、相次いで大きな会場で試合をし、続々と魅惑的なカードが組めたのは、何よりもファンの支持のたまものでした。著者は、「そこに来ての業界内外からの逆風。悪いことに、同年末には、安生洋二が、ロサンゼルスに住むヒクソン・グレイシーに“道場破り”を敢行し、失敗。『結局、あの2つの失敗が大きかった。それまではやる興行、やる興行大当たりで、日本武道館は毎回フルハウスだった。なのに、この年から、急に傾き始めたんです』とは、当時のUインターの若手、山本喧一(当時、健一)の談である」と述べます。

第6章「急転直下」では、新日本プロレスの現場責任者だった長州力がUインターとの対抗戦を決意した経緯が明かされます。長州が次に考えたのは、どうインパクトを出すかでした。1995年8月中旬から、両団体で、報道やFAXを通じて喧嘩をするのですが、長州は「その終着点として、“同時会見”を思いついたんだ」と告白します。長州と髙田が、初めて直接電話で話す光景・・・・・・。それをマスコミの前で作り出すには最大の効果を発揮しました。長州は、「俺がいなかったこと? それも、意外性を出すためだよな。俺や坂さん(坂口征二)がいたら、いかにも、『大きな発表があるな』と思わせちゃう。それを避けたかった。ただひとつ、下手だなと思ったのは、会場を決める下りね。だって、東京ドームって、そんなに急に取れるもんじゃないんだよ(笑)。あそこだけは、惜しい出来だったよな」と述べます。

本書より

そして、決定したのは以下の8カードでした。

・武藤敬司vs髙田延彦

・橋本真也vs中野龍雄

・佐々木健介vs垣原賢人

・長州力vs安生洋二

・蝶野正洋vs宮戸優光

・獣神サンダー・ライガー
   vs佐野直喜

・飯塚高史vs高山善廣

・大谷晋二郎vs山本健一

・永田裕志&石沢常光
   vs金原弘光&桜庭和志

その結果は、みなさんもよくご存知の通りです。

10・9の全面対抗戦は、限りなくシュートの匂いのするプロレスでした。本書には、1983年3月23日、新日本プロレスで行われたシュートマッチが紹介されています。背景から言いと“喧嘩試合”というべきでしょうか。当時は一介の前座レスラーに過ぎなかった藤原喜明が、スター・レスラーだったキラー・カーンを蹂躙してしまった事件である。カーンの活躍をいけすかなく感じていた藤原が前々日、リングに上る階段をカーンの入場時だけ、逆さまに設置。それに対しカーンが電話で、「そんな風だからお前は万年前座なんだよ」と指摘。一騎打ちが組まれた藤原がシュートを敢行したという事件でした。本書には、「カーン自身の述懐では、互角だったとしているが、当時のレフェリーに聞いても、『そんなものではない。あのままでは藤原がカーンを殺しかねなかった』との証言が残る。虫の息のカーンを攻めたてる、憤怒の藤原。だが、その腕を叩いて止める者があった。『もういいよ。死んでるよ』カーンとは当時、同じ“革命軍”の同志だった、長州力だった」と書かれています。

「10・9」を含む、団体同士の争いについて、大仁田厚が著者語ってくれたことがあるそうです。そこで大仁田は、「80年代前半かな。ある地方の空港でね。全日本と新日本の一行が、鉢合わせしたことがあったの。お互い睨み合いになって。俺も馬場さんの横について守ろうとしたよ。結局、日本プロレスで一緒だったグレート小鹿さんや山本小鉄さんが表に立って上手くとりなしてたんだけど。この一触即発の事件を機に対抗戦へ発展するってこともなかった。互いに団体は上手く行っていたし。それなのに“戦う”ってことは、お互いにメリットがないと思ってたんじゃないかな。あの時期は、それより相手団体にダメージを与えることが先決って感じで(苦笑)。それこそ外国人を引き抜いたり。『10・9』の場合は、ちょっと違うような気がしたんだよ。確かに両団体、憎み合ってたかもだけど、結局、戦うってことに、互いにメリットを見出せたんだと思う」と語ったとか。

最後に、著者は「猪木さんってのはね、プロレスと格闘技の境目があいまいになるように、頑張った人だね」という前田日明の至言を紹介します。著者は、「その野心を受け継ぎ分派したUWFから生まれたUインターと、親元である新日本との全面対抗戦。その後、前者は総合格闘技への道を行き、後者は2000年代を経るにつれ、プロレスというジャンル内での成熟を目指した。そして現在の2025年、30年前の接点を思う。それは、振り返れば、激しく憎み合いながらも、互いが互いに歩み寄り、そして、素晴らしく活かした戦いではなかったか」と述べるのでした。1995年10月9日、東京ドーム。当時、早稲田大学の学生だったわたしはその場にいました。そして、「Uインターをぶっつぶせ!」と叫びながら、新日本プロレスの全勝を願っていました。あのときの興奮は今でもよく憶えています。武藤の四の字固めに敗れて花道を引き揚げる髙田に向かって投げかけられた「前田が泣いているぞ!」という観客の叫び声が今も耳の奥に焼き付いています。